小説『ナマグサボウズ』
徳村慎
「やめろ!……子猫をいじめるのはやめろ」
ボロボロの衣(ころも)をまとった坊さんが子猫をいじめている悪ガキたちの前に現れた。
彼は近所で評判のナマグサボウズ。名前もあるのだろうが誰もその名で呼んだことがない。衣と同様にボロボロの空き家に住み着いている。
悪ガキのひとりデブゴジラが巨体を揺するように立ち上がる。子供とは思えない体格だ。中年のナマグサボウズより背丈は高い。横幅もナマグサボウズよりも大きい。
「はあ?……俺たちに向かって言ってんの?……オッサン、身の程知らずだねぇ」
ドカッとナマグサボウズの足に蹴りを入れる。うずくまったところをさらに蹴り続ける。
デブゴジラの2人の仲間も加わってナマグサボウズを蹴り続ける。ナマグサボウズは必死に子猫をかばい、口元は切れて血が出ている。泣きながらも子猫だけは守り続ける。
「あ~あ。飽きた。面白くねぇの」
「ホンマや。デブゴジラの言う通りやで。おもんないわ」
「なぁ。おもんないなあ」
ようやく悪ガキたちが立ち去る。泣きながら子猫をしっかりと抱いているナマグサボウズ。
子猫の飼い主の美人の若妻として知られる白木さんがやって来た。
「うちの猫を返して下さい。……みいたん。あんなナマグサボウズのとこにいちゃダメでしゅよお~」
子猫を奪ってスタスタと歩み去る若妻。
「まあ、一日一善やよな。頑張ったよな。僕って頑張ったよな」
独り言を言いながら涙を拭ってボロボロの空き家に向かう。
ぐうー。腹が鳴った。
鍋の焦げをむしって食べた。少しだけ腹が満たされると坐禅を組んだ。
蚊が飛んで来てナマグサボウズを刺した。パチン。思い切り叩いたが蚊は逃げていく。また坐禅を組み直して静かになる。
警察官がボロボロの空き家に立ち寄る。
「おーい。おるんか?……コレな、隣の婆ちゃんから貰ったもんじゃ。食えや。変わりないか?……風呂に入りたかったらいつでも言えよ」
野菜をドサッと置いて立ち去る。この警察官はナマグサボウズとは古くからの親友らしい。
坐禅をようやくやめた。うーん、と伸びをする。「世界が分かりかけてきたな。もうちょいやで。もうちょいで哲学が完成するんや」
言いながら生のトマトをかじった。
翌朝、ナマグサボウズは重い岩にはさまれてしまった工事現場の男を助けた。しかし、工事現場の仲間は「あいつと付き合うと貧乏神に取り憑かれるぞ」と言って礼を言わせなかった。
ナマグサボウズは気にせぬようにつとめて歩み去る。幼い子供たちが「やーい貧乏神、貧乏神」と、はやし立てた。ナマグサボウズは両手を合わせて前だけを向いて静かに歩く。幼い子供たちはしばらく付いて来ていたが、やがて飽きてどこかへ行ってしまった。
ナマグサボウズは森を抜けて川で水浴びをした。橋の上に自転車で通りかかった男が2人で「ありゃ浮浪者やで。死に損ないちゃうんか?」と笑って指差していた。ナマグサボウズは気にせぬようにつとめて水浴びを終えて服を着た。
森から歩いて街へと出る。買い物を終えた主婦たちが立ち話をしている。「ドブみたいな臭いせえへん?……ああ、ナマグサボウズか」などとそんなに臭いもしないのに笑う。ナマグサボウズは気にせぬようにつとめて立ち去った。
街を通り過ぎて寺へと向かう。「高僧として名高い和尚さんと禅問答について話したいのだが」と寺の門で小坊主に声をかける。
小坊主は馬鹿にして「ここの和尚さんがあなたに会われるはずがないでしょう」と答えて門前に水をまくふりをしてナマグサボウズにかけた。
ナマグサボウズは濡れた地面に腰を下ろして坐禅を組んだ。やがて身体の熱で少しは乾いた部分もあったが大半は濡れたままだった。夕方になり寺に住む弟子の一人が「おやめなさい。通行人の邪魔になります」と言ったのでナマグサボウズは立ち去った。気にせぬようにつとめながら。
海に出た。釣り人に「魚は釣れますか?」と訊いたら「釣れても釣れんでもかまんけど、お前が来たら魚が釣れんようになるんじゃ。どっか行け」と言われた。気にせぬようにつとめて海をしばらく歩いてから道に戻ってボロボロの空き家に戻った。
坐禅を組むと「こんなことをしても無駄だ」という考えが浮かんだ。気にせぬようにしてじっとして考えを打ち消そうとした。しかし次々に自分を責める言葉ばかりが浮かんだ。それらから気持ちを遠ざけるために短い経文を繰り返しつぶやいた。坐禅を続けて心の中の思いを空っぽに出来た時には月が沈んで空が白んでいた。
雨が降って来た。雨音を聴きながら横になると夢の中で尊いお坊さんを追いかけて歩き続けていた。背中は見えるのだが追いつけないもどかしさ。夢が薄らいで起きた。暗い部屋の中で坐禅を組む。雨は続いていた。
坐禅を終えて部屋のすみに巣を張った小さな蜘蛛を見つめる。「雨が降るなあ。お前も寒いか?」と声をかける。夏にしては寒くなるような雨が続いた。
野菜を入れた味噌汁を作って飲んだ。空腹に味噌汁が本当に美味しいと感じた。涙がにじんだ。
眠りの中で地震の夢を見た。しかし、これは過去の記憶なんだとナマグサボウズは自覚していた。未来は過去と同じなのだ。何度も繰り返す。ナマグサボウズは眠り続けた。
警察官がやって来た。
「おい。ナマグサボウズ。生きとるんか?……おお。なんとか生きとるか。今にも死にそうなぐらい痩せとるのぉ」
そう言いながら米と味噌とを置いていった。
たぶん夢も現実も違いはないのだ。ナマグサボウズは夢で坐禅を組み、人からバカにされて、人を助けた。目が覚めるとご飯を食べて坐禅を組み、坐禅をしながら眠ってしまい、いつの間にか横になって寝た。
晴れた。ボロボロの空き家から露にきらめく雑草が見えた。ああ。良かった。見せてくれた。そう思いながらふと身体が軽くなった。
目を開けると白い部屋の中だった。ああ、病室なのか、と気づいた。おそらく警察官が運んでくれたんだろう。死ねば良かったのかもしれない。いいや、僕は生きている。まだ死ねないのかもしれない。それとも死への前準備だろうか?
お金がないから病院を追い出された。入院費は一応警察官が払ってくれていたらしいが、他人を養うのには限度がある。ありがたい。これでもう、じゅうぶん。
またボロボロの空き家に戻った。夜になり赤い月が見えた。風が吹き荒れて、多くの人間が地獄からやって来て家を叩いているように感じた。やっぱ地獄行きか。しゃあないな。怖さを隠すために無理に笑おうとするのだが怖さは心の中を占めた。
朝になり昨夜の怖さは何だったんだと考えてから坐禅に入った。骨ばかりの身体が床に当たって痛い。その痛みを遠ざけようと何も考えないようにするのがひと苦労だった。
ほんの一瞬だけ痛みが遠くなり気持ち良い状態が訪れた。しかし、また痛みが戻ってきて坐禅を解いた。目の前に水が入った椀があった。飲もうとしたが身体が動かない。ようやく腕が伸びた。椀をつかむ。これだ。僕は、つかんだんだ。
水を飲み干すと生き返った。出かけよう。かつての子猫に出会った。にゃあ、と声をかけて逃げてしまった。若妻の姿を見た。自分に笑いかけているように見えた。しかし、よく見ると自分をあざ笑っているのだ。森を進み川を眺めた。揺れている。川の前で坐禅を組んだ。川は揺れていなかった。
鳥たちが頭上で歌う。風が汗を吹き飛ばす。足腰の痛みが消えた。自然と涙が嬉しくて流れる。目を開けた。青空が眼前に広がっていた。それは太陽光線のせいだった。やがて森の風景が黒さを取り戻した。立ち上がると地面や岩が生きているように震えた。見るもの全てが輝いている。
寺へと出かけた。門の前で静かに坐禅を組む。小坊主が水をかける。一瞬目を開けると水の放物線が美しかった。そして目を閉じる。自分の身体を伝う水を感じる。流れるのだ。ナマグサボウズは自分が水となって冒険する。ボロボロの衣や肉体を流れる。水はやがて口に入り人間や動物や植物の体内に入っていく。
そして水は集まり岩を砕き雨となり海となり川となり雲となり空を泳ぐ。
「ははははははッ」
笑いがこぼれた。
不気味に思った小坊主が寺に駆け込む。今度は不気味に思う小坊主の視点になっていた。小坊主がお坊さんの弟子に報告する。次は弟子の視点だ。小坊主をにらみつけて少し考える。何を考えるかは新聞をぼんやり眺めるようにナマグサボウズには感じられる。弟子たちが何事か話し込む。ナマグサボウズの視点は弟子たちのひとりひとりに移り変わり、それら全体を見渡す視点にも変わったりする。
弟子の一人が門に向かって走る。その足音と鳥の声と樹々を揺らす風の音と蝶のはばたきに至るまで聴こえる。いや、見えるのだ。目を閉じたままなのに。
弟子は門前で何事かを警告する。しかしそれは音楽の一部でしかない。この地球上のあらゆる世界の音のほんの一部だ。隣の山では雨が降り、もっと遠くの山には今でも雪が残っていて水が溶け出している。さらに遠くはこちらの世界では昼なのに夜だったりもする。それらの音の全体を聴くのだ。
森で暮らす人々が魚を捕まえて焼いて食べている。山で暮らす人々は羊を追っている。海の上では蟹(かに)をとる大きな船に人々が乗って働いている。
鯨(クジラ)が潮を吹いた。深海までクラゲたちが泳ぎ、波の産んだ泡が小さく踊って消える。月が沈んで太陽が昇り、沈み昇り何万年も経った。太古と未来とが混じりあった世界の中で生きるちっぽけさに驚き喜んだ。
「はははッ」
また笑った。するとお坊さんの弟子に殴られた。痛かった。笑い声はやんだが笑顔のままだった。寺の最高位の和尚さんが出て来た。「悟ったか」と声をかける。
「何を言うんです。こやつはナマグサボウズですよ。悟りなんか開けるもんですか」
和尚さんは手を合わせてナマグサボウズを拝むと寺に引っ込んだ。弟子もあとに続いた。
しばらく坐禅を組んでいてから夕風が吹いて目を開けてゆっくりと立ち上がる。
海を見たあとにボロボロの空き家に帰った。寺から空き家に戻るまでの間にも世界が輝きを持ったままだった。
部屋の小さな蜘蛛は居なかった。蜘蛛の巣がフワリと風で踊っていた。中心があって周りがある。蜘蛛の巣は面白い形をしていた。ならば中心は中心にあるのかというと周りが中心であったりもするのだ。本当に蜘蛛の巣は面白い。世界の縮図のようだった。
味噌を食べた。発酵した良い匂いがした。味噌にだって歴史があるのだ。人生なんだ。味は深く喜びに満ちて広がる。
全てがある種の甘みだった。苦味の下にも辛味の下にも酸っぱさの下にも甘さがあるのだ。もちろん甘さの下にも甘さがある。
ナマグサボウズはボロボロの空き家の裏で見つけた白骨死体から頭蓋骨を持ってきて撫でた。僕はあなただ。お前は俺だ。俺はお前だ。お前は僕だ。僕だ。ナマグサボウズは杖の先に骸骨を取り付けて旅に出た。
ひょっとしたら、あなたの街にもナマグサボウズは旅をして現れるかもしれないのだ。
(了)