感想『正法眼蔵入門』 | まことアート・夢日記

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まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。


感想
頼住光子『正法眼蔵入門』


『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)とは道元という僧の書いた大著だ。それを分かりやすく嚙み砕きつつもコンパクトにまとめたものが、この入門である。

適当な人間の僕が読んだからには曲解も避けられない。

まず空である。これは性的なスパークも同様と考えてしまう。しかし、これは普通「邪定」と呼ばれるからあくまでも僕の解釈として読んでもらいたい。

ちなみに「邪定」を説明すれば「やってはならない瞑想」のことだ。具体的には薬物、ダンスや音楽、好きなアイドルや欲しい物などの成功哲学などを使った瞑想である。アメリカで昔ヒッピーたちが使うもの3つセッ○ス、ドラッグ、ロックンロールなんてものがあったが、それら全て邪定。

つまり性的な脳内スパークは通常ならば邪定である。しかし、1.バラバラな要素としての現実を、2.空の状態へと導き、3.縁のある現実として見る、という悟りの構造の2は性的な脳内スパークなどの邪定でもわりかし近いのではないかと感じる。

邪定が悪いのは依存症になってしまうところか。

TwitterやAmebaブログなどから拾い集めた「幸せ」に関する名言を以下に列挙する。

良いことを思えば良いことが起きる。悪いことを思えば悪いことが起きる。(マーフィー)

人間は自分が幸福であるという事を知らないから不幸なのである。(ドストエフスキー)

実は脳は100歳まで成長し続ける。そのためには「身近にワクワクするものや刺激的な人が存在してること」「年齢を20歳サバを読んで行動すること」「新しいことを学ぶ習慣をもつこと」が大切。

幸せは突き詰めると比べないこと。

これらの名言は空の後の縁起(関係性)であるような気がする。僕は本を自分が読みたくなるタイミングで買いたいと思う。それが不思議なことに、本の方から僕に歩み寄って来る感じに思える。縁を感じるのだ。時間がかかってしまい読み終えるのが遅くなる本は、それなりの理由があるのだ。その本の中のある部分がひかかり、読むのが止まり、別の本などを平行に読み進めていると、ある日突然分かるのだ。アハ体験に近いのが読書である。こういう意味だったのか、というのが実感をもって迫る。これはプチ悟りみたいなものか。

プチ悟りが積み重なったり上手い具合に忘れたりの繰り返しの中で言葉にならない実感の理解があるのだ。『正法眼蔵入門』には「指月」という言葉がある。月を悟りそのものとするならば月を指差す指は経典に書かれた言葉や坐禅や日常生活の営みなどの修行である。師は悟りを指で差すことしか出来ない。弟子は師の指が悟りだと思ってはいけないのだ。

僕は邪定でも悟りはある程度可能だと考える。酒を飲み楽しんだ次の日に現実に戻るが楽しんだ仲間とは強固なつながりが出来ているという感じだろうか。

そもそも禅は何で悟るかはそれぞれの個性で違うらしいのだ。雑巾で掃除を続けて悟る人もいれば、殴られて悟る人もいる。千差万別の悟り。性的脳内スパークで悟る人もいると思うのだ。

僕はこの『正法眼蔵入門』を読んで仏教哲学が禅という最高のものにまで高まったのだと確信する。

そして僕のプチ悟りは性的脳内スパーク、ドローイング、写真のコラージュ、即興演奏、彫刻などで起こることが多い気がする。極限の集中と解放がプチ悟りを生み出すようだ。神仏か悪魔かは、もはやどうでも良い。プチ悟りが気持ち良い。性的脳内スパークと喉を潤したい時に飲むコーラと芸術活動は同じものだろう。プチ悟りの脳内スパークである。

「一切衆生有仏性」よりも「一切衆生無仏性」の方が長がある、とは道元らしい言葉だ。これは、まず「一切衆生有仏性」から読み解く。日本人のアニミズムが巨巌(きょがん)巨木を崇めたことからも分かる。熊野に住む僕にとっては分かりやすい言葉である。岩、山、森、海、滝、太陽などあるゆる自然に神が宿る。また那智黒石を彫刻していて思うのだが、石に神仏が宿り、これが道具(お守りから縁起物や花瓶や硯や碁石など)となる。つまり道具に神仏が宿っていて当たり前である。そして動植物や鉱物の区別なく神仏が宿る。人間にも宿る。だからアニミズムで解釈すれば「一切衆生有仏性」であり、我以外皆我師(われいがいみなわがし)でもある。

では何故「一切衆生無仏性」へと至るのか。これも「のめりこむな」という言葉ではないのか。依存症になるな、とも読み取れる。巨木信仰をしたは良いが、巨木ばかり拝み信じ過ぎると、巨木から抜け出られなくなる。巨木を第一に考え過ぎて風邪なのに拝みに行って病を治そうとして風邪を悪化させるようなものか。全てに神仏は宿る。そして日常を修行として過ごしていれば悟りの境地に達する。

悟りは神仏との一体感であり、十牛図に見えるように空を感じたので悟りは終わりではなくその悟りを伝えに行く必要があるのだ。ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』の神が死んだと感じて山を下りて伝えに行く姿とも重なる。空の状態を広めるために自分なりの言葉や行動を探さねばならない。

だから「一切衆生無仏性」とは指月の師匠の指を真似するだけでは全く足りていないという状態をも含む。楽器を即興演奏するのが趣味なので思うのだが、自分なりの身体能力にあった弾き方や自分なりの楽曲解釈によるリハーモナイズであったりアレンジであったりするのが自然な音楽なのだと思う。誰かの真似で終わってしまえば自分の音楽ではない。それは師の指月をそっくり真似ただけで悟りを広めることにはならないのだ。

下手でも良いから自分の言葉や行動で神仏を語る。これが悟りの次の段階だろう。そうであれば悟りは芸術活動に似ている。伝えること。そこにひとつの道というものは無い。ひとつの仏は存在しないのだ。手塚治虫『火の鳥』鳳凰編にも自分だけが生み出した仏について書いてある。誰かに悟らされたというのは、悟りではない。自ら悟る。これぞ悟り。

ドローイングは世界への沈潜であり内部の探求であると同時に浮き上がり飛び上がる冒険でもある。それはタロットカードのインナークエストやデス(変化)と同じくして死(タナトス)であり、タロットカードのユニバースと同じくして生(エロス)であるのだろう。生死の境を何度も輪廻する行動が僕のドローイングであるだろう。

釈迦に悪魔が甘言をもって近づく。キリスト教の聖アントニウスにも同様に悪魔が近づいたという。ドローイングの中にも悪魔が存在する。自分のやりたいことではなく上手く見せて終われば良いというものが多い。上手いというのはドローイングにあまり必要ない要素だ。結果的に上手いのと、周りに褒められるために上手いのは違うのだ。輪廻を旅していくことが必要なのであり、真実の探求を忘れて欲に終わるならドローイングは失敗である。

ジャズに不協和音に関する理論がある。オクターブこそが美しい、と言ったジャズメンが居たそうだが、これは協和音ではない。オクターブを管楽器2本で表現すれば微妙なズレが起こり、強烈な音になるという理論だ。さらにベースがフレットレスベースならばズレはさらに起こる。ConBのようなコードとなる。わずかにBよりのCであるから微分音なのだ。ブルーノートと呼ばれることもある音だ。

僕はこれをキーボード(デジタルシンセ)での再現すべくジャズっぽくブロックコードを使ったりする。ドレソラドミといったブロックコードでメロディをトップノートや内声に持ってきて動かすのだ。でもこのブロックコードは全体としてはCであったりする。これは解釈によっても違うだろうし、厳密に言えば左手がCadd9で右手がAmなのだが、ブロックコードとして僕が使う時にはルートはCなのだ。あるいはCのメロディを右手で弾いて左手はソ♭、ドミを押さえりする。しかし、あくまでもソドミつまりCの変形なのだ。ベースが音を外している状態を再現しようと試みたものだ。

ギターの本にはピアノがEmを押さえた時にE♭をギターで弾けばジャズっぽい解釈だと書いてあった。つまり悲しみを表現しようとするピアノをさらに大きな悲しみへと展開させるために不協和音をワザと生み出すのだ。

これらもより良く聴かせたいとの欲が勝つと出来なくなる。不協和音でもいいや。山下洋輔なんてヒジ打ちをやってトーンクラスターみたいなのをやつまてるじゃないか、と開き直るのが大事。そしてその不協和音に対しての冒険にワクワクして悲劇自体を楽しむ心構えがあれば良いのだ。

ドレミというメロディに対してCならメジャーコード。単純な明るさ。Amならマイナーコード。単純な暗さ。ではAm7ならばAmとCを同時に弾いたような複雑さが生まれる。暗くも明るく生きようとする姿になる。では逆ならどうか?……左手でCを弾き、テンションに右手のAmを持ってくるのだ。これでもっと複雑になる。展開コードは、それぞれに表情があるから同じCでもドミソとミソドとソドミでは微妙に違うのだ。じゃあ、左手をCadd9にしたら?……こんな風に僕は鍵盤上で冒険している。これもドローイングとは違った輪廻の旅なのだろう。

あるいは8ビットのチップチューン(打ち込み音楽)ではベース音を不協和音で重ねることで厚みを出したりすることもある。僕はそれを知らずにYAMAHAのモバイルシーケンサーQY8でやっていたことがある。この理論にとらわれない試行錯誤も楽しい時間だった。こらも輪廻。

ZOOMのサンプラーのST-224を手に入れてからはノイズ系の言葉の情報だけを知り、不協和音とかすら意識しないサンプリングでの音加工をしたりもした。これも輪廻。

それらの自作の音楽を聴きながらのドローイングが好きだ。音楽がドローイングに与える影響がある。もちろん、他人の音楽でも良いのだが、やはり自作曲は気合いが入りやすい。神仏なのか悪魔なのか。もはや自身が成り切ってドローイングを描く。鉛筆を握りしめて興奮と冷静な法則性の間でコントロールがギリギリのところで踏ん張る。今では、そんなことは無いが、車で温まったタイヤがキュルルと小気味良い音を立ててグリップした時のような感覚に近いとも思う。

この全ての感覚が一体となるのは、やはり「一切衆生無仏性」だろう。ただ、僕のドローイングを見た人がどれだけ神仏や生死の旅路を感じてくれるかは別問題なのだが。(汗)

「一切衆生無仏性」はネットワークであると書かれている。(僕のような)孤独な人であっても全ての周囲の物質や出来事はネットワークとなり囲み神仏となるのだ。ドローイングにより描かれる客体と自己の一体化は世界観を広げればドローイングへ想起する世界そのものがネットワークの結晶、あるいはモデルやシミュレーションとして紙の上に表現される。ドローイングはつながるための行為であると同時につながったことを示す表現である。それを書き終えて見ることでさらに頭脳に新たな一体感を生むひらめきのようなものが浮かぶ。そう分析してしまえばドローイングを次々に描く行為が納得出来る。

例え悪い人間と出会ってもそれが良い経験になる。これも縁だと思う。というか自分の引き出しを作るためのネットワークだと認識出来る。まあ、だからって詐欺師に騙されたりしたら自殺も考えるだろうけど。(汗)

しかし、ここまで読んでも、それでも「一切衆生無仏性」は難しい。「空の仏性が有るのだ」とか。空である状態は脳内スパークと表現するだけで、この快感から仏のネットワークが出来てこその悟りである。とすると空自体は悟りではなくなるし、一度の悟りで終わりではない。修行は一生続くのだ。そうなると脳内スパークの起こし方も時々刻々変化させねばならない。それが起きないと芸術活動ではスランプに陥るのだろう。

では脳内スパークとは何だ?……とも思うものの脳内スパークの科学的な用語もハッキリとは分からない僕です。しかも脳内スパークを引き起こすのに100人いれば100人違う趣味だとか方法が必要なのだろう。

しかし、その方法が違法の薬物だとか盗みだとかレ○プだとか殺人だとかテロに参加するとか社会的に許されない方法である人も居るのだろうか?……う〜ん。怖い。さんざんAmebaブログの小説でそういう人を主人公にしたりして書いているけど実際にそんな人が居たら怖い。「俺の仏とつながる方法が殺人です」とかシャレにならない。やっぱり邪定はあるのかなぁ?(泣)

さらに読み進めて分かりにくいのが「仏性空」を「仏性は空なり」とは読まず道元は「仏性空」という熟語でとらえるところだ。漢文に慣れた頭では読み解けない。おそらく仏と性(さが、性質)と空の一体であることが求められる。

しかし、これも脳内スパークが「仏性空」を表していると考えれば納得出来る。「無」が「有」となり「空」へと至る。それは脳内スパークが通常関連の無いもの同士を結びつけることだ。その縁は切れたり結びついたりを繰り返していく。固定化された結びつきではなく流動的なものを表現している気がする。

煩悩と戒律が互いに制し合う世界もひょっとしたら混ざり合うことが可能かもしれない。坐禅は心に浮かぶことをひたすらスルーすることだという。おそらく煩悩が有るからそれを消すために戒律が有るのではなく、煩悩と戒律の両方が遠くに離れることが起きるのだ。脳内スパークの次の段階である。

仏の救いとは「今の現状が変わらないならお前はどう生きる?」という問いであるのか。だから日常茶飯が修行となる。無常観とは虚しさや悲しみではなく遠くから、人間を取り巻く空間や人生という時間を、眺めることではないか。無常さえ愛おしい世界であるとの認識かもしれない。

文庫版あとがきに「道元の文章は、多様な読みを許容する」とある。僕の解釈は当たっていないかもしれないが、僕だけの仏を作ることにはつながるだろう。

徳村慎