小説『熊野とsequencer』 | まことアート・夢日記

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まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。




小説『熊野とsequencer』
徳村慎


何年もの使い込みでプラスチックには薄っすらと汚れが付いている。その汚れさえも愛おしい。汗と涙の結晶が汚れなのだ。時には涎さえも結晶となるのだ。喜怒哀楽が汚れとなる。汚れとは人間の営みそのものだ。汚れていない人間なんて信用出来ないだろ?……しかし、君が汚れていないなら幸運だ。汚れは粘りついた思考を生む。生み出された粘りの思考は無駄だらけだと知っている。テクスチャーだのレイヤーなどが芸術に本当に必要ならば、人は何故、芸術を求める必要があるのだ。つまりは汚れの事だと思うのだが、その汚れが美しいのは苦労人だけの感覚であって、君が天才ならば最も美しいサイン波でも聴きなさい。僕ら凡人が倍音だの不協和音だのトーンクラスターだのディストーションだのシャウトだのデスボイスだのにに美を感じるのはゴミを集めて作品を作るダダと何ら変わらない事に気づくよ。つまりは僕は汚れたsequencer(シーケンサー)を使ってるって事だ。君の楽器は美しいかい?……え?……楽器は磨いている?……ふむ。良い事だね。しかし、磨いてもフラクタル曲線で出来たヴァイオリンの凹凸にも君は美を感じるかね?……ははは。ゴメンゴメン。意地悪だったね。この世の中に数学的直線や線分が存在しないのなら、この世の美とは数学的な美ではないのだよ。若い女子の裸が美しいのは動物的な本能なのさ。蜘蛛の旦那だって蜘蛛の婦人を美しいと感じている。なんて素敵な顎を持っているんだい。君の8本の剛毛の生えた脚はbeautifulだよッ!……なんてね。僕たちが美しい天上の音楽と思えるソプラノ歌手の歌声も、本物の天国ではおぞましいダミ声だって事もあるだろう。確かプラトンの『国家』には洞窟では炎で作られた影を何の影だか言い当てる名人が悟りを開いたように言われるように書いてたね。ところが地上に出たら影は影なのさ。ガハハハ。16分音符で刻んだフレーズも内部クロックのズレで僅かにグルーヴしてしまう世界。それでもグルーヴは人間がドラムを叩くよりも少なく正確なのだろう。でもね。グルーヴこそが心臓を動かすのさ。ハートビートなんてそんなもの。それでも心臓を掴んでいるのは醜い顔した悪魔なんだな。本当に、sequencerとは悪魔だな。命と引き換えに全てを与える。僕だって命を削られているんだよ。夏になると疲れで病気になる。今年は頭痛。去年は風邪。一昨年は口内炎。全部大した事無いって思うだろうけど、違うよ。苦しみは長引くのだ。ジリジリと太陽に焼かれて風景画を油絵で描くようなもんだよ。自分がキャンバスに載せたこってりした絵具が色彩の輝きとなって瞳を焦がす。ペインティングオイルの臭いが酷くて胸がムカムカしてくる。昼食に食べた卵サンドが熱で腐りかけてた事に気づく。そして反吐を吐き散らしながら思うんだ。この油彩画と反吐は、どう違うのか?……って。違わない事を認識すると更に想いは突き進む。あらゆる油彩画は反吐なんだって。じゃあ、あらゆる絵画はどうだ。あらゆる美術は?……美術や音楽や文芸をひっくるめて、色々考える。建築、舞台、映像は?……全ての芸術は、どうやら反吐らしいと気づくんだ。君は、どう思うんだい?……こんな田舎者の考えに染まっても仕方ないよね。ケケケ。冗談だよっ。

じゃあ、海で泳ぎなさい。川で釣りをしなさい。森の中を散歩しなさい。自然こそが偉大だ。……おっと待て待て。自然は芸術だと言っしまえる点で反吐じゃん。地球上は反吐だらけになっちゃったね。まあ、僕は今年は頭痛だよ。他に出来る事もない時は、夏には決まってYAMAHAのQY8で打ち込みをやる。涼しい風が産田川から吹いて来て朝起きて、ノートにメモを取りながらじっくり作る。音色はLEAD2の方がファミコンっぽいんだ。チップチューン風に作るならこれだな。16分音符で適当に打ち込んでも曲になる。理論なんて捨てた。不協和音も和音なんだと考えよう。ギターをセーハしたみたいにレソドファなんてコードはどうだい?……面白いだろ?……まあ、展開和音ならドファソレ。Csus4の9thだよね。考えなくても良いんだよ。不協和音もさ、きっと面白いか面白くないか、だよ。ディストーションも倍音が不協和音っぽい音でしょ。考えるな感じろ、とブルース・リーも言ったらしいよ。あ、でもブルース・リーの映画は、まだ観た事ないや。ゴメンね。機会がなくてさ。一生の内に観られるんだろうか?……まあ、運があればね。で、次第に夏の太陽は燃え盛り、朝食も食べずに打ち込み続ける僕の腹を減らせるんだ。1曲出来たら目玉焼き丼を作って食べる。キャベツを刻んで白米の上に載せる。フライパンに卵を1個割り入れる。塩胡椒を振りかけて鍋蓋をして蒸し焼きにする。出来上がった目玉焼きを、白米の上の刻みキャベツの上に載せて、醤油をかけるんだ。最高に美味い。美味いのを英語でsweetとも言うらしいが、こりゃ分かるね。米の一粒にも甘みがあるだろ。キャベツにも。もちろん目玉焼きにもさ。美味いとは甘いの事かもね。時には醤油にも甘さを感じようか。農家の方たちが一生懸命に作ったんだから。その命を頂くんだから。でも悲観的に人間が地球を蝕(むしば)むなんて考えないでね。君は生きてるから美しいんだよ。生き物を頂く事で生きる事が美しいんだ。牛乳をたまには飲もうか。牛の垂れ下がった乳首から白い液体を飲むのと、赤ん坊が母親の乳房から飲むのと、生命が地球から魂のようなmilkを飲むのは同じだよ。母なる大地なんて中学時代に歌ったなァ。マーラーだったかな。ガイアを地球だと思う事も出来るよね。風水では中心の色彩は黄色だ。大地の色なんだと僕は思う。東は青龍。そのまんま青い龍。青は色彩心理学では冷静と鬱。西は白虎。そのまんま白い虎。白は気高い感じと空虚だ。南は朱雀。朱とは赤。赤い鳥。赤は情熱と怒り。北は玄武という亀。亀の背中に蛇が乗っかってるんだ。玄って黒って意味だよね。黒は神秘と暗黒。色彩心理学は必ず長所と短所を色彩に与えているんだ。とにかく大地は黄色だと思うな。黄色は集中と不安を表す。君も受験の時には黄色の物を近くに置いて勉強しなかったかい?……え?……そんな事しなくても余裕で受かったって?……さすがだなぁ。僕はね、受験の記憶が飛んじゃったよ。トラウマで。……なぁ~んちゃって。ふふふ。

昼に一度目のご飯を食べてから2曲目に取り掛かるんだ。扇風機だけじゃ太陽からの紫外線で身体が火傷しそう。クーラーをつけよう。エアーコンディショナーつまりエアコンでしょ?……なんて言わないでよ。同じなんだからさ。君の頭が良いのは分かったからさァ。16分音符が気持ち良いから1つのコードをアルペジオさせるんだ。って言ってもギターやピアノっぽくなくて良いだろ。僕の音楽だ。誰かのルールで作るわけじゃないさ。低音から高音へと駆け上がり舞い降りて。まるで鳥か。君はどんな鳥が好きだい?……僕は中学の頃は鳩をよく描いてたよ。鴉も好きだったな。賢いからね。真っ黒なのも良いよね。自然の生み出した美しいデザインだよね。おっと、この世は反吐だって言ってたっけ?……まあ、忘れちゃいなよ。冗談だから。それよりさ、一番好きなのはトビだな。熊野ではトンビって呼ぶけど、君のトコでも、そう呼ぶのかい?……群れる鴉よりも更に孤高な感じがしてね。たまらなく好きだ。輪を描いて上昇気流を探して力を使わずに天空へと登る姿にも美しさがあるよね。どれだけ低燃費で車を走らせるかのエコカー競争みたいな話だけどさ。しかし上空にとどまるのは月か人工衛星だけさ。全ては落ちる。恋もね。なんてね。……実は月や人工衛星なんかも落ちてるんだけど遠心力と引力なんかが釣り合うんだってさ。不思議だね。落ちるのは滝だってそうだ。音もね、落ちるんだよ。16分音符それぞれにも意味があるだろうけど、重要なのは流れだ。落ちたり登ったり力を貯めたり淀んだり。水と音楽は似ているとN響アワーで昔言ってた指揮者がいるよ。でも、それが音楽の全てじゃないけどね。そう僕は思うんだ。新たな価値を音楽に与える事も必要さ。君の理論を作れば良い。え?……音楽なんて考えてやるもんじゃないって?……ゴメンね。僕ばっかり喋ってるね。なはは。

でもね。音楽って全ての音が音楽だと感じられる時があるんだよ。屁をひっても音楽なんだ。なんてね。まあ、これは極端か。でもサンプラーでサンプリングしたり、日常聞こえる音をsequencerの音源で再現したりしていると、全てが音楽さ。人の会話の抑揚を音の高低に捉えればメロディーが生まれる。小鳥の声も、川の音も、雨だれも、車の走る音も、冷蔵庫の音だって。全てが音楽。その音を記録するだけで音楽になるんだ。32分音符だとか3連符だとかでリズムをズラして自然のリズムを再現する。その過程こそが音楽かも知れない。そういやさ。小説の主人公って悪い部分を持つから魅力なんだよ。んでね、悪い部分を持つ音楽も良いんだよ。リズムがズレて、また、戻る。その悪さこそが音楽だよ。リズムだけじゃない。不協和音も悪さだよ。何かしら悪さを求めるものさ。ハ長調でもマイナーコードが存在するでしょ?……全てメジャーコードで作ったら、ブルースみたいにメロディーをブルーノートにしたくなっちゃうんじゃないかな?……でもね。雨は上がるんだ。不協和音続きの曲ならば最後に少しメジャーコードを入れれば嵐の後で雨が上がっていく感じが出るんだ。甘い物を食べ続けると辛い物が欲しくなるよね。そうだ。浜辺を歩くと、打ち上げられた魚のフグがあって、ペットボトルがあって、石があって、海藻があって。動植物とか、いやいや、もっと言えば有機物とか無機物とかが関係無くフラットな価値を持つ世界を感じる時がある。全て平等なんだ。人間だって打ち捨てられたゴミと変わらない。海は全てを平等に打ち上げるんだ。熊野の海の七里御浜みたいに、やがて亀が産卵にやって来るかもね。僕は色々想像しながら打ち込みを続ける。sequencerに音符を書き、演奏させる。2曲目が出来るともう、夕陽が落ちて行く。お風呂の中でもメロディーを呟いてハミングして、或いはスキャットで……例えばラララで歌う。風呂だって海なんだ。波が起こる。巨人のお風呂の沿岸に僕らは住んでいるのか。全てを平等に波が飲み込む。生きている音も死んでいる音も全て。死の世界に音は存在するだろうか?……存在する気がする。その方が、死者が退屈しないから。音が無ければ、死者が生き生きとしないから。熊野は、昔は死者の国でもあったらしいよ。海が死者の国へと運ぶと考えたのは南の国だ。万葉集では森に死者が生きると考えた和歌がある。それでも海と森がせめぎ合う国こそが死者の国なんだと思う。いや、生命を与える国なんだ。死者の国とは再生の国だから。我々も土に還り、何かに生まれ変わるのだろう。全ての音は一度死ぬ。消えゆく。しかし、sequencerの中で音は再生され復活する。sequencer自体も、全てを平等に表現して音の生命となる。

夕方になってお茶を飲んでから本屋に出掛ける。ザワザワとした他人の居る世界への旅立ち。自室から出る事は既に旅である。お茶は死にゆくための毒。死ねば旅が始まるのだ。我々は1秒ごとに死んで生まれ変わっているのだと思う。車のガソリンは、まだ入っている。国道に出て車で出来た川の流れに乗り、スーパーの2階の本屋に行く。この2階は半分が100円均一コーナーだが、今日は本に集中しようと考えて雑誌を読む。あらゆる情報は平等だ。中国の遺伝子操作に、ボクシングの拳の打ち方、ボーカロイドの話題に、戦闘機のフィギュア、野外料理でハンバーグを作る記事に、ボールペンでイラストを書く本、SDカードのメーカー別の音質比較の記事、カホンをDIYで作る方法、仏像の写真と解説、子供の教育方法や、怪しいUMAの雑誌の表紙を読んで、教養系の文庫のコーナーでまずは心理学の本を手に取り読んで、次に歴史の簡易な解説、世界遺産の写真集も文庫で出ていて眺めてから、海外小説の文庫をざっと見て幾つか有名な物をさらっと読み、日本の古典のコーナーで見つけた『方丈記』を開いて気に入ったから、買う事に決めてレジに向かう。夜になっている国道を走る。これから読む本への期待と買い物をした事で気持ち良くなってハンドルを握りアクセルを踏む。家に帰ると、順番は忘れたが地震や火災や竜巻や飢饉の話を『方丈記』に見出して一気に読む。それらは地球にとっては、やはりフラットな出来事なのだろうか。人が沢山死のうが生きようが、取るに足りない出来事なのか。ふと巨視的視点へと移る『方丈記』の仏教的な視点に戸惑いつつも読み終える。朝の光が室内に満ちて、『方丈記』に見られる自然への想いが僕にも沸いた。やはり光が射した方が良い。3曲目は、どうしようか、と考えているといつの間にか、ぐっすり眠っていた。

連休の最後の日は雨だった。涙のようだ。彼女は、からかったのか、と思い返し、僕がいけなかったんだ、とも思う。恋愛は捨てよう。何も考えたくはない。不信感に満ちて、罪悪感にも似て、孤独なのに楽しくて。本や道具に溢れた世界を自室に造り上げたのだ。僕は、ここの帝王か。小さな小さな僕だけの部屋。全ては手に入れられる。手に入れたくない物(者)だけが去るのだ。本気で手に入れようと思えば全ては手に入る。だから彼女は去った。涙が美しく天から降った。そうか、君もそんな日があるんだね。僕は君の存在に気づいた。僕は過去を小説に記している。だから今はsequencerに打ち込んでいない。しかし、小説に記した時点で打ち込みの記憶は蘇り、追体験するんだよ。君にとって、僕の楽器と同じ物は有るのかい?……分からないなりにも楽しいと思える物は存在しているはずだよ。古くなったラジオとか、TVとか、スマートフォンとかさ。大切な物。しかし、大切な記憶は消えやすい。暇という魔物が君を支配すれば、他人の邪魔でもしたくなるだろう。暇とは心の不安なのかも知れないね。恐怖とは対象が有り、不安に対象は無い。漠然とした恐れである不安は、暇に似ているだろう。不安で集中出来ないから暇なのか、暇だから不安になるのかは分からない。それでも近い関係にあるんじゃないかな?……ただ目を閉じて音楽を聴く事さえ思いつかない君は暇という不安に捉(とら)われている。不安への関心。……いや逆だ。不安に君が囚(とら)われているんだ。暗黒の塔に鎖で繋がれたお姫様か。実は籠の鳥は出口が有っても逃げられない心理へと変わる。それが人間という籠の鳥だ。習慣となった事を変えるのは厳しい。このままでは死を迎えると思っても死の行進を続けるのだ。いわば君は暇を解消するために僕の邪魔をしているのが習慣となり依存症なのだ。僕の存在が消えれば良いと願う一方で、存在が無ければ面白いと感じられないのだよ。僕は鏡の中の君に語り掛けた後でsequencerに簡単な曲を打ち込んでいく。オレンジ色のEnterボタンを押すたびに楽曲は出来上がっていく。デタラメで繰り返しの多い曲で、ドラムだけが変わっていく簡単な曲なのだ。こんな適当な最後も僕には相応(ふさわ)しい。出来上がってICレコーダーに録音した。雨は、まだ止(や)まない。ふふふ。僕の心は晴れているのにね。全25曲の、ほぼQY8のみで作った音楽が完成した。2曲だけ違う。その一つはボーカル入り。イコライザーで機械的な音に作った。もう一つはギター入り。これら25曲をリピートして聴いている。気持ちの良い雨だれが重なる。雨が美しい。多分、生き物じゃないのに生き物だからだ。上手く言えないけど。明日から仕事か。熊野の雨は優しく包む。雨だれはsequencerのピコピコと混じり、僕よりも生き生きと動いた。雨が僕を打ち込んだのだろう。雨が僕を楽譜に打ち込み生かすのだね。夕飯はサラダ丼にした。味噌汁を飲み干すと、雨と僕が逆転して、僕が雨を打ち込んだように感じた。枕元に死んだ友人が見えた日を思い出す。もう何年も彼を見ていない。彼が雨となる日も近いのだろう。sequencerの音を止めて雨に聴き入る。

(了)