┃好機逸すべからず
大統十三年(547)、正月、丙午(8日)、東魏の丞相・勃海王の高歓が逝去した。世子の高澄が跡を継いだ。
 辛亥(13日)、東魏の〕司徒・河南大行台の侯景が梁・鄭の地にて叛乱を起こした。
〔景が西魏に援軍を求めてくると、西魏の丞相の宇文泰は景を太傅・河南道行台・上谷公とし、援軍を送ろうとしたが、柔然の侵攻に遭って取り止めた。〕


〔東南道〕行台尚書左僕射・荊州刺史の王思政はこう考えた。
「好機逸すべからず! 慎重に行けばこれを逸する危険性がある。それならば進んで取るべきだ!」
 思政はしびれを切らすと、〔独断で〕まず南荊州(治 舂陵)刺史の郭賢を三鵶路(穣城〜魯陽間の山道)より出撃させ、魯陽(広州)を押さえさせたのち、荊州の步騎一万余を率いて魯陽関より陽翟に向かった。


 泰はこれを聞くと太尉の李弼と大将軍・御史中尉の趙貴に大軍(三通鑑では『一万』)を指揮させて侯景の救援に赴かせた(梁書侯景伝では『五城王元慶』なる者が率いている)。

 6月、己巳(4日)、潁川を包囲していた東魏の韓軌・司空の可朱渾道元らが、李弼・趙貴ら西魏の援軍の到来を知ると包囲を解いて撤退した[1]
宇文泰は景を朝廷に呼び寄せようとしたが、〕景は辺境の収拾をしたいと偽って河南に留まり、鎮所を潁川(潁州)から懸瓠(豫州)に遷した。泰は代わりに王思政に潁川を守備させた。
 この年、〔洛州刺史?〕の泉仲遵543年〈1〉参照)を思政の代わりに行荊州事とした。

○資治通鑑
 荊州刺史王思政以為:「若不因機進取,後悔無及。」即以荊州步騎萬餘從魯陽關向陽翟。丞相泰聞之,加景大將軍兼尚書令,遣太尉李弼、儀同三司趙貴將兵一萬赴潁川。東魏韓軌等圍潁川,聞魏李弼、趙貴等將至,乙巳,引兵還鄴【《考異》曰:《周書帝紀》:「三月,李弼救侯景。」今從《典略》】。
○魏孝静紀
 遣司空韓軌,驃騎大將軍、儀同三司賀拔勝(仁)、可朱渾道元,左衞將軍劉豐等帥眾討之。景乃遣使降於寶炬,請師救援。寶炬遣其將李景和、王思政帥騎赴之。思政等入據潁川,景乃出走豫州。…六月,司徒韓軌、司空可朱渾道元等自潁州班師。
○周・北史周文帝紀
 齊文襄遣其將韓軌、厙狄干等圍景於潁川。三(六)月,太祖遣開府李弼率軍援之,〔東魏將韓〕軌等遁去。景請留收輯河南,遂徙鎮豫州。於是遣開府王思政據潁川,弼引軍還。
○北斉文襄紀
 六月己巳,韓軌等自潁州班師。
○周15李弼伝
 十三年,侯景率河南六州來附,東魏遣其將韓軌圍景於潁川。太祖遣弼率軍援景,諸將咸受弼節度。弼至,軌退。王思政又進據潁川,弼乃引還。
○周18・北62王思政伝
 十三年,侯景叛東魏,擁兵梁、鄭,為東魏所攻。景乃請援乞師。當時未即應接。思政以為若不因機進取,後悔無及。即率荊州步騎萬餘,從魯關向陽翟。〔周文聞思政已發,乃遣太尉李弼赴潁川。〕
○周28郭賢伝
 及侯景來附,思政遣賢先出三鵶,鎮於魯陽。
○周44泉仲遵伝
 十三年,王思政改鎮潁川,以仲遵行荊州刺史事。
○梁56・南侯景伝
〔高澄嗣事為勃海王,〕齊文襄遣大將軍慕容紹宗圍景於長社,景〔急,乃求割魯陽、長社、東荊、北兗〕請西魏為援,西魏遣其五城王元慶等率兵救之,紹宗乃退。

 ⑴高澄…字は子恵。521~549。高歓の長子。母は婁昭君。女好きの美男子。536年、尚書令とされると若くして鄴の朝政を取り仕切った。544年、大将軍とされた。厳格に法を執行したことが勲貴の心証を害し、547年、歓が死ぬと侯景の離反を招いた。548年、これを平定し、549年、親征して西魏から潁川を奪還した。のち、皇帝になる事を目論んだが、奴隷の手によって殺害された。
 ⑵郭賢…字は道因。?~566。豳州の人。読書家で記憶力に優れた。北魏の代に豳州主簿→行北地郡事を務めた。536年に高歓が夏州を陥とした時、南下してこないことを予測し的中させた。のち、王思政の指揮のもと、弘農や魯陽の守備を任されて東魏と戦った。のち、蜀討伐に参加して安州・始州を治めた。のち、勲州刺史・安州刺史・陝州刺史とされた。
 ⑶陽翟…《読史方輿紀要》曰く、『《九域志》曰く、長社(潁川)の西北九十里にある。』
 ⑷李弼…字は景和。494~557。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献した。のち小関の戦いでは竇泰を討つ大功を立て、沙苑の戦いでは僅かな手勢で東魏軍の横腹に突っ込み、前後に二分する大功を立てた。河橋の戦いでは莫多婁貸文を斬る大功を立てた。のち重傷を負って捕らえられたが、逃走することに成功した。540年に侯景が荊州に攻めてくるとその防衛に赴き、547年に景が帰順してくるとその救援軍の総指揮官とされた。548年、北稽胡の乱を平定した。のち柱国大将軍とされ、552年に徒河氏の姓を賜った。宇文泰が西方の巡視に赴くと留守を任された。556年、太傅・大司徒とされた。北周が建国されると太師・趙国公とされた。
 ⑸趙貴…字は元貴(宝)。?~557。武川鎮出身。爾朱栄→爾朱天光→賀抜岳に仕え、岳が殺されると、遺衆に対し宇文泰を後継に迎えるよう主張し、泰の雄飛のきっかけを作った。政治の才能があり、泰の右腕として働いたが、河橋・邙山の戦いでは共に敗北のきっかけを作った。しかし泰の信頼は失わなかった。のち乙弗の姓を与えられた。北周が建国されると太傅・大冢宰・楚国公とされた。間もなく大司馬の宇文護と対立し、殺された。

┃侯景を警戒す

 これより前、侯景が西魏に援軍を要請したとき、宇文泰は儀同で同軌(九曲付近にある[1]防主の韋法保河南の義士の一人。538年〈2〉参照)および帥都督の賀蘭願徳らを先行して派遣していた。景は彼らを厚くもてなして味方に付けようとし、表面上は全く二心の無いふりをして、諸軍の陣営を行き来する際は護衛を殆ど連れず、名のある将のもとには残らず足を運んだ。景は特に法保と親しくした。

 泰はそこで行台郎中の趙士憲を河南に派し、韋法保・賀蘭願徳ら景の救援に送った諸軍をことごとく呼び戻した。また、王思政は諸軍を景の所領の七(六の誤り?)州(潁・北荊・広・襄・東荊・豫?)十二鎮に分置し、その叛乱に備えた。
 景はここにきて遂に叛乱を起こし、梁に付いた[1]


 泰は侯景に授けていた使持節・太傅・大将軍・兼尚書令・河南大行台・都督河南諸軍事の官を王思政に転授したが、思政は全て固辞した。泰が何度も使者を派遣して説得すると、思政は都督河南諸軍事の官だけを受けた。

 大統十四年(548)、大将軍の官を受けた。


○資治通鑑
【東魏之師已退,而梁之援兵始來,弼若不還師,則梁、魏之兵必浪戰於汝、潁之間矣。引兵而還,則禍集於梁。】…法保深然之,不敢圖景,但自為備而已;尋辭還所鎭。王思政亦覺其詐,密召賀蘭願德等還,分布諸軍,據景七州、十二鎭。…泰乃遣行臺郎中趙士憲悉召前後所遣諸軍援景者。景遂決意來降。
○北史西魏文帝紀
 秋七月,…大將軍侯景據豫州叛。
○周文帝紀
 秋七月,侯景密圖附梁。太祖知其謀,悉追還前後所配景將士。景懼,遂叛。
○周18・北62王思政伝
 景引兵向豫州,外稱略地,乃密遣送款於梁。〔先是,周文遣帥都督賀蘭願德助景扞禦,景既有異圖,因厚撫願德等,冀為己用。思政知景詭詐,乃密追願德。〕思政分布諸軍,據景七州十二鎮【[一一]卷二文帝紀下大統十三年、卷一五李弼傳都說侯景「舉李弼傳作「率」河南六州來附」。錢氏考異卷三二據之疑這裏作「七州」誤】。太祖乃以所授景使持節、太傅、大將軍、兼中書令、河南大行臺、河南諸軍事,回授思政。思政竝讓不受。頻使敦喻,唯受河南諸軍事。〔十四年,拜大將軍。〕

 [1]西魏は智者が多く、宇文泰はそのはかりごとをよく用いて侯景に得意の奸智を振るわせなかった。かくてその災いは梁に移った。


┃崔猷の言容れられず
 これより前、思政は侯景の救援に赴いた当初、襄城(潁川の西南)に行台(思政は行台を務めていた)の治所を置いていたが、のちになって潁川に遷そうと考えた。そこで魏仲を朝廷に派して伺いを立てようとしたが、その前に書簡を大都督・淅州(淅陽。武関と荊州の中間)刺史の崔猷字は宣猷。北魏の吏部尚書の崔孝芬の子。高歓に父を殺され、関中に逃れた。孝武帝との謁見の際非常な悲しみようを見せたので、その忠孝心を帝に褒められた。534年〈4〉参照)に送ってその可否を論じた。思政は河南に赴く際に宇文泰からこう言われていた。
「崔宣猷は智略抜群で、臨機応変の才覚を有している。何か迷うことがあったら、彼と相談して可否を決めるとよい。」
 思政はこれに則って猷に相談したのだった。すると猷は返書を書いて言った。
「そもそも戦いというのは、『先に虚勢を張り(敵を圧倒するため)、その後に実力を行使する』(先声後実。史記淮陰侯伝の広武君の言葉。戦う前に充分な根回しをしておくことの重要性を説く)ことで、百戦百勝を得、弱を強とすることができるのです。襄城は京洛を押さえる位置にあり、一朝事があってもすぐに相互に支援し合うことができる、当今の要地であります。〔一方、〕潁川は敵の領土と接し、山川の護りも無い土地のため、敵の大軍が侵入してきた場合、すぐに城下まで到達されてしまいます。ゆえに、ここは襄城に行台の治所を置き、潁川には州を置いて郭賢に鎮守させるのが良いと考えます(郭賢は王思政に非常に信任されていた)。さすれば、襄城・潁川の守りは強固となり、人心は落ち着き、何かあっても危険に陥ることはないでしょう。」
 魏仲は泰に会うと、思政の意見と猷の意見を詳しく説明した。泰はこれを聞くと仲を即座に帰還させ、猷の意見に従うよう思政に伝えさせた。しかし、思政は重ねて上表を行ない、朝廷にこう約束して言った。
「賊が水攻めしてくるなら一年、陸から攻めてくるなら三年は持ちこたえてみせます。その間は救援はしていただかなくて結構です。この期限を過ぎた時は、朝廷の決定に従います。」
 泰は、思政の防衛術の巧みさを信頼していたことや、再三再四請願されたこともあり、とうとう潁川に治所を遷すことを許可した。のち、潁川が陥落した時、泰はこのことを非常に後悔した。

◯周35崔猷伝
 十四年,侯景據河南歸款,遣行臺王思政赴之。太祖與思政書曰:「崔宣猷智略明贍,有應變之才,若有所疑,宜與量其可不。」思政初頓兵襄城,後欲於潁川為行臺治所,遣使人魏仲奉啟陳之。并致書於猷論將移之意。猷復書曰:「夫兵者,務在先聲後實,故能百戰百勝,以弱為彊也。但襄城控帶京洛,寔當今之要地,如有動靜,易相應接。潁川既隣寇境,又無山川之固,賊若充斥,徑至城下。輒以愚情,權其利害,莫若頓兵襄城,為行臺治所,潁川置州,遣郭賢鎮守。則表裏膠固,人心易安,縱有不虞,豈能為患。」仲見太祖,具以啟聞。太祖即遣仲還,令依猷之策。思政重啟,求與朝廷立約:賊若水攻,乞一周為斷;陸攻,請三歲為期。限內有事,不煩赴援。過此以往,惟朝廷所裁。太祖以思政既親其事,兼復固請,遂許之。及潁川沒後,太祖深追悔焉。


┃東魏、潁川を攻める

 8月、庚寅(2日)高澄が太尉の高岳を使持節・河南総管・大都督とし、尚書左僕射の慕容紹宗を東南道大行台とし、司徒の韓軌・大都督(儀同?)・殷州刺史の劉豊生・衛尉卿の高季式高敖曹の弟)らと共に十万の兵を率いて西魏の大将軍・東道行台・河南諸軍事の王思政が守る潁川を攻めるよう命じた。

 9月、東魏の太尉の高岳らが西魏の潁川を攻めた。
 思政は城内に対し旗を隠し鼓を打たぬよう下知し、まるで誰もいないかのようにさせた。岳は自軍が大軍であることから一揉みに揉み潰せると考え、四方から太鼓を打ち鳴らして吶喊させた。思政は城中から勇士をよりすぐり、〔突如〕開門してこれに突撃させた。東魏軍は〔不意を突かれ、〕潰走した。思政は城壁の上から岳の陣を望見し、その乱れを見てとると、三千の兵を率いてこれを襲い、非常に多くの兵を殺傷した。それから城に還ると、防備を整えて再度の来攻に備えた。岳はこの一戦で急攻を諦め、城の周囲に多数の砦を築〔き、長期戦に切り換えた〕。また高地に土山を築いて城内〔に攻撃せんとした。〕また、雲梯や火車(或いは大車。安全に城壁に取り付くための装甲車)などあらゆる手を用いて昼夜の別無く苛烈に攻め立てた。すると思政は火䂎(火の付いた小矛)を用意し、強風に乗じてこれを土山に投じた。また、火矢を射て攻城兵器を燃やした。また、勇士を募って城壁から〔縄を伝い下りて〕東魏軍を攻撃させた。東魏軍は陣地に敗走し、土山を守っていた者たちも山を棄てて逃走した。思政はそこで二つの土山を占拠し、そこに樓堞()を築いて守りの助けとした。岳らは戦意を喪失し、遠巻きに包囲するだけとなった。

○魏孝静紀
 秋八月甲戌(庚寅),以尚書左僕射慕容紹宗為大行臺,與太尉高岳、司徒韓軌、大都督劉豐等討王思政於潁川。
○周文帝紀
 是歲,東魏遣其將高岳、慕容紹宗、劉豐生等,率眾十餘萬圍王思政於潁川。
○北史北斉文襄紀
 八月庚寅,還晉陽。使大行臺慕容紹宗與太尉高岳、大都督劉豐討王思政於潁川。

○周18・北62王思政伝・太平御覧兵50
 東魏太尉高岳、行臺慕容紹宗、儀同劉豐生等率步騎十萬來攻潁川。〔九月,〕東魏太尉高嶽、行臺慕容紹宗、儀同劉豐生等,率步騎十萬來攻潁川。城內臥鼓偃旗,若無人者。嶽恃其眾,謂一戰可屠,乃四面鼓噪而上。思政選城中驍勇,開門出突。嶽眾不敢當,引軍亂退。[思政登城遙見岳陣不整,乃率步騎三千出邀擊之,]〔殺傷甚眾,〕[然後還城設守御之備。]嶽知不可卒攻,乃多修營壘。又隨地勢高處,築土山以臨城中。飛梯火(大?)車,晝夜〔盡〕攻〔擊〕之〔法〕。思政亦作火䂎,因迅風便投之土山。又以火箭射之,燒其攻具。仍募勇士,縋而出戰。嶽眾披靡,其守土山人亦棄山而走。[思政即命]〔據其兩土山,置樓堞以助防守。〕[岳等於是奪氣,不敢復攻。]

○北斉13清河王岳伝
 六年,以功除侍中、太尉,餘如故,別封新昌縣子。又拜使持節、河南總管、大都督,統慕容紹宗、劉豐等討王思政於長社。
○北斉20慕容紹宗伝
 西魏遣其大將王思政入據潁州,又以紹宗為南道行臺,與太尉高岳、儀同劉豐等率軍圍擊。
○北斉21高季式伝
 還,除衞尉卿。復為都督,從清河公攻王思政於潁川。
○北斉27劉豊伝
 出除殷州。王思政據長社,世宗命豐與清河王岳攻之。


 ⑴高岳…字は洪略。512~555。高歓の父の弟の高翻の子。母は山氏。四貴の一人。温和・正直・孝行者で、立派な容貌をしていた。歓に仕えて武衛将軍とされ、韓陵の戦いでは右軍を率い、高歓の危機を救った。のち領左右衛・清河郡公とされ、母の山氏も郡君・女侍中とされた。爾朱兆討伐の際には洛陽の留守を任された。のち儀同三司とされた。535年、六州軍事都督とされ、間もなく開府を加えられた。賢人を幕僚に採用し、称賛を受けた。のち六州大都督→京畿大都督とされ、晋陽に居を構える歓に代わって鄴など山東の軍事・政治を任された。539(8?)年、母が亡くなると痩せ細った。のち兼領軍将軍とされた。540年、高澄が山東の政治を覧るようになると、冀州刺史とされた。541年、青州刺史とされた。543年、晋州刺史・西南道大都督とされた。このとき病気に罹っていて、治ってから赴任した。547年、高歓が亡くなると高澄に代わって大軍を指揮し、梁軍・侯景軍を撃破した。548年、功により大尉とされた。のち河南総管・大都督とされて潁川の王思政を討伐した。549年に高澄が死に、高洋が晋陽を鎮守すると兼尚書左僕射とされて鄴を鎮守した。550年に北斉が建国されると清河郡王・宗師・司州牧とされた。552年、南道大都督とされて淮南を平定した。554年、太保とされた。のち西南道大行台とされて西魏の侵攻を受けている梁都の江陵の救援に赴いたが間に合わなかった。贅沢好きで酒色を好み、諸王で比肩するものがいない程の大豪邸を築いた。555年、誅殺された。昭武と諡された。
 ⑵慕容紹宗…字は紹宗。501~549。前燕の後裔。父の遠は恒州刺史。容貌が立派で、口数少なく、落ち着きがあって度胸があり、知略に優れた。母親の甥が爾朱栄。侯景の兵法の師だったが、間もなく立場が逆転した。北辺に争乱が起こると一家を挙げて晋陽の栄を頼り、厚遇を受けた。栄が河陰の変を起こす際反対した。のち索盧県子→侯とされた。のち羊侃・邢杲討伐に加わった。のち并州長史とされて爾朱兆に仕え、兆が高歓に六鎮民を与えようとすると反対した。兆が死ぬと歓に仕え、東魏が建国されると知府庫図籍諸事とされた。535年、西南道軍司とされて宜陽の李延孫を討破した。帰還すると行揚州刺史→行青州刺史とされた。このとき南燕を復興しようとする不遜な言辞を吐いたとして呼び戻された。538年、虎牢を鎮守した。のち公・度支尚書→晋州刺史・西道大行台→御史中尉とされた。544年、徐州にて劉烏黒が叛乱を起こすとこれを大破し、そのまま徐州刺史とされた。歓の臨終の際、「侯景になんとか渡り合えるのはただ慕容紹宗だけだ」と評された。547年、東南道行台・三徐二兗州軍事・開府・燕郡公とされて梁軍を寒山に大破し、次いで侯景を渦陽に大破した。548~9年、南道行台とされて潁川の王思政を討伐したが、包囲中に戦死した。景恵と諡された。
 ⑶韓軌…字は百年。太安の人。本姓は破六韓。別名匈奴? 高歓の側室の韓氏の兄。大人しく感情を表に出さず、謙虚で富貴の身となっても驕らなかった。高歓に「やや愚か」と評された。歓が晋州刺史とされると鎮城都督とされた。歓の挙兵に賛同し、中軍大都督とされて戦功を立て、平昌県侯とされた。のち爾朱兆を討伐した。のち泰州刺史とされると善政を行ない、歓が泰州を巡察した際に連れ帰ろうとすると城民の引き止めを受けそのままとされた。535年、華州を攻めたが撃退された。のち安徳郡公とされた。瀛州刺史とされると収奪を行なって一時除名された。のち中書令とされ、545年、司空とされた。547年、司徒・河南大行台の侯景が叛乱を起こすと司徒とされ、侯景の討伐に赴いたが失敗した。北斉が建国されると王とされた。のち大司馬とされ、553年、精騎四千を率いて契丹を討った。間もなく陣中にて急死した。粛武と諡された。

┃援路遮断

 思政は〔関中と最短経路にある孔城が不作で苦しんでいるのを知ると、これを維持するため〕数百車に積んだ米を向かわせたが、北斉の大都督の破六韓常と洛州刺史の可朱渾宝願? 道元? 洛州刺史は破六韓常?)はこれを何度も迎え撃っては奪取していた。常らはそこで高澄に上申して言った。
「私は河陽を鎮守して以来、何度も関口(? )・太谷二道に出撃した事があるため、北荊以北・洛州以南の要害は知悉しております。太谷の南口は荊路(関口?伊闕口?)より去ること百五十里で、赤工坂(?)を経た所にあり、この荒道を賊は東西を行き来する大道として使用しており、その兵糧はただこの道を通って運ばれております。今もしかの地に城戍を築き、兵馬を置いて賊の咽喉(最短援路)を断てば、潁城(潁州城)の陥落は時間の問題となるでしょう。また、孔城以西は不作でありますので、東道が断絶〔して食糧が入ってこなくな〕れば、これらも維持できなくなるでしょう(関中から孔城一帯の間は山がちで、西方からの輸送は困難だった)。〔これぞ一石二鳥の策であります。〕」
 澄はこれを聞き入れ、大司馬の斛律金⑶・彭楽・可朱渾道元らを派遣して該地に楊志・百家・呼延の三鎮を築かせ、左廂大都督の張保洛に楊志塢を鎮守させ、陽州(宜陽、洛陽の西南)と相い呼応して西魏の最短の救援路を遮断するようにさせた。
 のち、金に高岳らと合流して潁川を攻めるよう命じた。

○北斉17斛律金伝
 世宗遣高岳、慕容紹宗、劉豐等率眾圍之。復詔金督彭樂、可朱渾道元等出屯河陽,斷其奔救之路。又詔金率眾會攻潁川。
○北斉19張保洛伝
 後出晉州,加征西將軍。王思政之援潁州,攻圍未克。世宗仍令保洛鎮楊志塢,使與陽州為掎角之勢。
○北斉27破六韓常伝
 累遷車騎大將軍、開府,封平陽公。除洛州刺史。常啟世宗曰:「常自鎮河陽以來,頻出關口,太谷二道,北荊已北,洛州已南,所有要害,頗所知悉。而太谷南口去荊路踰一百,經赤工坂,是賊往還東西大道,中間曠絕一百五十里,賊之糧饟,唯經此路。愚謂於彼選形勝之處,營築城戍,安置士馬,截其遠還,自然不能更有行送。」世宗納其計,遣大司馬斛律金等築楊志、百家、呼延三鎮。
○三国典略
 八二、周王思政固守潁川。思政運米數百車,欲向孔城,齊大都督破六韓常與洛州刺史可朱渾寶願前後要襲,獲之。乃啟於齊王澄曰:「常自鎮河陽已來,頻出關口、大谷二道,所有要害,莫不知悉。請於形勝之處營築城戍,安置士馬,截其往來。彼之咽喉既斷,潁城吞滅可期。且孔城以西,年穀不稔,東道斷絕,亦不能存。」王納其計。


 ⑴破六韓常…字は保年。匈奴単于の末裔。代々領民酋長を務めた家の出。父の孔雀は破六韓抜陵の大都督・司徒・平南王→北魏(爾朱栄)の平北将軍・第一領民酋長・永安県公。冷静・聡明で度胸・知略があり、騎射に優れ、平西将軍とされた。爾朱栄が死ぬと河西の地に帰り、西魏に仕えて右衛将軍とされたが、536年に万俟受洛干と共に帰順して撫軍将軍とされ、のち開府・平陽公とされた。のち洛州刺史とされて河陽を鎮守し、高澄に楊志など三鎮を築くよう進言して聞き入れられた。のち晋陽に帰り、太保・滄州刺史とされた。死後、忠武と諡された。
 ⑵太谷…《読史方輿紀要》曰く、『河南府(洛陽の西南二十里)の東南五十里にある。大谷口ともいう。』
 ⑶斛律金…字は阿六敦。488~567。朔州勅勒部の人。父は第一領民酋長の斛律大那瓌。質実剛健、誠実で実直な人柄で、騎射が上手く、匈奴の兵法を戦いに用い、敵が巻き上げた土煙でその多寡を知ることができ、風が運ぶ臭いでその位置を測ることができた。漢字が苦手で、本名は敦といったが、敦の字を書くのが難しかったので簡単に書ける金に改名した。それでもまだ苦戦したが、司馬子如に金の字を家に見立てるよう教えられるとようやく書けるようになった。初め懐朔鎮将の楊鈞の軍主となり、柔然主の阿那瑰を故地に送った時、射術の巧みさを感嘆された。のち阿那瑰が高陸に侵攻するとこれを撃破した。破六韓抜陵が叛乱を起こすと部衆を率いてこれに付き、王とされた。のち部衆一万戸と共に抜陵に背いて北魏に付き、第二領民酋長とされた。間もなく杜洛周に敗れて爾朱栄のもとに逃れると別将とされた。のち都督とされた。孝荘帝が即位すると阜城県男とされた。のち葛栄・元顥戦に功を立てて鎮南大将軍とされた。高歓が爾朱氏に叛く際賛同し、歓が鄴を攻める際は恒雲燕朔顕蔚六州大都督とされて信都の留守を任された。のち韓陵の決戦では歓を救う大功を立てた。のち爾朱兆討平に加わった。532年、汾州刺史・当州大都督・侯とされた。のち紇豆陵伊利討伐に加わった。534年の鄴遷都の際には三万を率いて風陵渡を鎮守し、西魏の攻撃に備えた。沙苑の敗北の際には歓の馬を鞭で叩いて歓を無理矢理撤退させた。敗北後は東雍州の奪還に活躍した。河橋の決戦の際には河東に進軍し、晋州に到った所で西魏軍が撤退したのを知ると喬山の賊を討平し、南絳・邵郡などを陥とした。邙山の決戦の際には数万を率いて河陽城を守備した。間もなく大司馬・石城郡公・第一領民酋長とされた。545年、南道軍司とされて歓と共に山胡を討った。帰還すると冀州刺史とされた。546年、歓と共に玉壁を攻め、歓が病床に臥すと勅勒歌を歌って慰めた。歓の臨終の際、「勅勒の長老で剛直な人柄ゆえ、最後までお前(高澄)に背かぬ」「お前(澄)は漢人を多く用いているが、彼らが金を讒言してきても信じるでないぞ」と評された。高澄が跡を継ぎ侯景が叛乱を起こすと河陽を守備した。帰還すると肆州刺史とされた。のち宜陽に楊志・百家・呼延の三戍を築いた。西魏の王思政が潁川に拠ると再び河陽を鎮守し、最短援路を遮断した。のち更に潁川攻めに加わった。のち宜陽に兵糧を運び込み、西魏の九曲戍将の馬紹隆を撃破した。北斉が建国されると咸陽王とされ、刺史はそのままとされた。病気になると手厚い看護を受けた。552年、太師とされた。文宣帝の奚討伐に加わり、553年に刺史を解かれて晋陽に呼び戻された。554年、顕州道より石楼の稽胡を討伐した。のち柔然が突厥に敗れると二万を率いて白道を鎮守し、柔然を撃破した。555年、帝と共に柔然を大破した。文宣帝が凶暴化すると胸に三度矟を突きつけられたが動じなかった。557年、右丞相・食斉州幹とされた。559年、左丞相とされた。560年、孝昭帝が即位すると孫娘が皇太子妃とされた。561年に武成帝が即位する際、百官を引き連れて勧進する役目を努めた。また、再び孫娘が太子妃とされたが、驕ることは無かった。567年に死去し、武と諡された。  
 ⑷楊志塢…《読史方輿紀要》曰く、『河南府(洛陽)の東南百四十里→登封県の西北にある。』
 ⑸斛律金伝では西魏が侯景を救援した547年6月頃の事だとしている。三国典略の記述と食い違う。


┃潁川、糧力共に尽く

 大統十五年(549)、東魏の大尉・河南総管・大都督の高岳・南道行台の慕容紹宗・儀同の劉豊らは去年の九月より西魏の潁川を攻めていたが、年を跨いでも未だに陥とせずにいた。東魏の大将軍の高澄も間断無く増援を送ってはいたものの、効果は無かった。
 高岳はそこで劉豊許季良の建策を容れ、洧水[1]を堰き止めて水攻めを行なった。この時正体不明の獣がよく堰を突き崩したが、それでも城壁は長く水を灌がれ続けた影響で多くの箇所が損壊した。岳は〔そこを狙い、〕兵を分けて代わるがわる攻撃させた[2]。昼夜間断無い猛攻は十日にわたって続けられた。これに対し、西魏の河南諸軍事・大将軍の王思政は自ら矢面に立ち、士卒と労苦を共にして〔抵抗を続けた〕。このときちょうど平地に三尺も積もる大雪が降り、〔岳軍内は〕数え切れないほどの戦死・凍死・餓死者で溢れた。岳はそこで〔水勢を更に強めるため、〕堰を〔大規模に〕改修し直した。その際、岳は水神の心を鎮めるために、獣を入れた鉄籠を水中に落として生贄とした。その結果、堰は無事完成し、洧水の水は奔流となって潁川城を襲った。すると城中は水で溢れ、人々は釜を高い所に釣り上げて煮炊きをする羽目となり、やがて兵糧も気力も底をついてしまった。
 これより前、潁川には『大魚が道の上を泳ぐ』という根も葉もない噂が流れ、民衆は心を痛めていた。現在、水攻めが行なわれると、果たして噂の通り道の上に魚や亀が泳ぐようになったのであった。

 この年の春、西魏の太師の宇文泰は大将軍の趙貴を援軍として派遣した。貴は東南諸州の兵を指揮して救援に向かったが、潁川以北が全て湖のようになっていたため、穰城(荊州。襄城?)に着いた所で立ち往生することとなった。

○資治通鑑
 東魏高岳等攻魏潁川,不克。大將軍澄益兵助之,道路相繼,踰年猶不下【去年四月,高岳等攻潁川】。山鹿忠武公劉豐生建策,堰洧水以灌之,城多崩頹,岳悉衆分休迭進【言分兵為十數部,甲休則乙進,乙休則丙進,丙休則丁進,至於癸休,則甲復進矣;攻者得番休而應者不勝其勞也】。王思政身當矢石,與士卒同勞苦,城中泉涌,懸釜而炊。
○周文帝紀
 十五年春,太祖遣大將軍趙貴帥軍至穰,兼督東南諸州兵以援思政。高岳起堰,引洧水以灌城,自潁川以北皆為陂澤,救兵不得至。
○周16趙貴伝
 拜御史中尉,加大將軍。東魏將高岳、慕容紹宗等圍王思政於潁川,貴率軍援之,東南諸州兵亦受貴節度。東魏人遏洧水灌城,軍不得至。
○周18・北62王思政伝
 齊文襄更益嶽兵,堰洧水以灌城。〔時雖有怪獸,每衝壞其堰。然城被灌已久,多亦崩頹。岳悉眾苦攻。思政身當矢石,與士卒同勞苦。岳乃更修堰,作鐵龍雜獸,用厭水神。堰成,水大至。〕城中水泉涌溢,不可防止。懸釜而炊,糧力俱竭。
○北斉27・北53劉豊伝
 王思政據長社,世宗命豐與清河王岳攻之。豐建水攻之策,遂遏洧水以灌之。〔先是訛言大魚道上行,百姓苦之。豐建水攻策,遏洧水灌城,〕水長,魚鱉皆游焉。
○北斉43許惇伝
 引洧水灌城,惇之策也。
○通典14兵
 岳悉眾苦攻,分任迭進,一旬之中,晝夜不息。思政身當矢石,與士卒同勞苦。又屬大雪,平地三尺,眾斃於鋒刃及凍餓死者不可勝數。
○三国典略
 六一、東魏慕容紹宗、高岳等堰洧水以灌穎川。時有怪獸,每衝壞其堰。岳等悉眾苦攻,分休迭逆。王思政身當矢石,與士卒同其勞苦,屬以大雪,岳眾多死,岳等乃作鐵龍雜獸,用厭水神。

 ⑴許季良…本名は惇といい、季良は字。高陽許氏の出。父は〔北〕魏の高陽・章武二郡太守。高い見識を持ち、頭の回転が速かった。行政手腕に優れて司徒主簿とされると思い切りのいい判断で『入鉄主簿』と呼ばれ、陽平太守とされると天下第一の治績を挙げた。のち大司農とされ、王思政討伐の際には補給を担当し、最後まで兵糧を途絶えさせなかった。また、水攻めの提案も行なった。帯まで届く長く美しいひげを備え、人々から『長鬣公』と呼ばれたが、文宣帝に一握り分だけを残して刀で切り取られると、以後、敢えてひげを伸ばさず、『斉鬚公』と呼ばれた。のち次第に昇進して尚書右僕射(571~572?)→特進とされた。若年の頃は純朴で正直だったが、晚年になると軽薄になった。邢子才と中正の座を争った際、権力者の宋欽道に擦り寄って中正の座を勝ち取った。
 [1]洧水…水経注曰く、洧水は〔滎陽郡〕密県の西南にある馬領山より東南に流れ、長社県(潁川)の北を過ぎる。
 [2]兵を十数部隊に分け、甲が休めば乙が進み、乙が休めば丙が進み、丙が休めば丁が進み、癸(十番目、もしくは最後の部隊)が休めば甲が再び進む戦法。こうすれば、攻める者は交代交代で休むことができるが、守る者は間断なく攻撃を受け、疲れ切ってしまうのである。


┃水厄
 ここにおいて慕容紹宗・劉豊、部将の慕容永珍らの心には余裕が生まれ、共に楼船に乗って城内の様子を見物し、弓の上手い者に矢を射かけさせた。しかし一方で、紹宗はここ暫く頻りに悪夢を見ていたことで常に鬱々としていた。ある時、紹宗は密かに左右の者にこう漏らした。
「わしは二十を越えてから常に白髪があったが、昨日突然全て抜け落ちてしまった。これを理詰めで考えれば、白髪(蒜、サン)は算(サン)に通じるゆえ、我が命数()が尽きるのを暗示しているように思うのだが。」
 夏、4月、紹宗は劉豊と共に堰の視察に赴いた。その時、東北の方向から竜巻が迫ってくるのが見えたため、二人は慌てて船に避難した。間もなく暴風がやってくると、周りは巻き上げられた砂で真っ暗になり、ともづなはたちまち断ち切られ、船は一直線に潁川城へ流された。城壁の上の兵士はこれを見るや、長鉤を用いて船を引き寄せ、弓弩を乱射した。進退窮まった紹宗は水に飛び込んで死に(享年49)、豊は〔攻城用に城の近くに築いていた〕土山を目指して泳いだが、波が激しくて早い内に辿り着けず、矢に当たって死んだ(北斉27劉豊伝では長鉤に捕らえられ、紹宗と共に殺されたとある)。
 紹宗は使持節・二青二兗斉済光七州軍事・尚書令・太尉・青州刺史を追贈され、景恵公と諡された。豊は大司馬・司徒公・尚書令を追贈され、忠武公と諡された。
 西魏軍は更に慕容永珍を生け捕りにし、船中にあった武器も鹵獲した。思政は永珍と会うとこう言った。
「我が破滅は時間の問題であり、卿を殺しても何も変わらぬ。しかし、人臣の節(この場合、虜囚の辱めを受けないこと?)というものは死を賭してでも守らなければならないものなのだ。」
 かくて涙を流しながらこれを斬り、回収していた紹宗らの遺体と共に丁重に埋葬した。

○魏孝静紀
 夏四月,大行臺慕容紹宗、大都督劉豐遇暴風,溺水死。
○周18・北62王思政伝
 慕容紹宗、劉豐生及其將慕容永珍〔意以為閑,〕共乘樓船以望城內,令善射者(人)俯射城中。俄而大風暴起,船乃飄至城下。城上人以長鈎牽船,弓弩亂發。紹宗窮急,投(透)水而死。豐生浮向土山,復中矢而斃。生擒永珍〔,并獲船中器械〕。思政謂之(永珍)曰:「僕之破亡,在於晷漏。誠知殺卿無益,然人臣之節,守之以死。」乃流涕斬之。并收紹宗等尸,以禮埋瘞。
○北斉20慕容紹宗伝
 時紹宗頻(數)有凶夢,意每惡之。乃私謂左右曰:「吾自〔數〕年二十已還,恒有蒜髮,昨來蒜髮忽然自盡。以理推之,蒜者算也,吾算將盡乎?」未幾,與豐臨堰,見北有塵氣,乃入艦同坐。暴風從東北來,遠近晦冥,舟纜斷,飄艦徑向敵城。紹宗自度不免,遂投水而死,時年四十九。三軍將士莫不悲惋,朝廷嗟傷。贈使持節二青、二兗、齊、濟、光七州軍事,尚書令,太尉,青州刺史,諡曰景惠。
○北斉27・北53劉豊伝
 九月至四月,城將陷。豐與行臺慕容紹宗見北有白氣,同入船。忽有暴風從東北來,正晝昏暗,飛沙走礫,船纜忽絕,漂至城下。豐游水(豐拍浮)向土山,為浪所激,不時至,西人鈎(鉤)之。並為敵人所害。豐壯勇善戰,為諸將所推。死之日,朝野駭惋。贈大司馬、司徒公、尚書令,諡曰〔武〕忠。


┃潁川親征

 東魏の大尉・河南総管・大都督の高岳は潁川の攻囲を行なっていたが、慕容紹宗らを喪って以降、意気沮喪し、潁川城に近づこうとはしなくなった。
 高澄の腹心の陳元康はそこで澄にこう進言した。
「王(陳元康伝では『公』。高澄のこと)は国政を輔佐するようになって以後、未だに大功を立てておられません。侯景は破りましたが、あれは〔叛乱を起こした内賊であり、〕外賊ではありませんでした。〔そこで私がお勧めいたしますのは、〕潁川城の攻略の指揮を取られる事です。潁川は〔難敵ですが、長期に渡って包囲を受け、〕もはや陥落寸前。〔王にとってこれほどちょうどいい相手はおりません。〕潁川城を陥とせば、大業の礎を定めることができましょう。」
 澄はそこで元康に早馬を使って潁川の様子を確かめてくるよう命じた。元康は帰還するとこう復命して言った。
「必ず陥とせます。」
 戊寅(5月24日)、澄はそこで弟の高演字は延安。高歓の第六子。生年535、時に15歳)と長楽公の段韶・大行台右丞の王士良に晋陽の留守を任せたのち、自ら步騎十万(北62王思政伝。周書では『十一万』)を率い、鄴より南下して潁川に向かった。澄は潁川に着くと『決命夫(挺身隊)』と名付けた者たちを動員して新たな土山を築いた。澄は堰(水攻めのために築いたもの)の上に座って指揮をした。趙道徳高家の家奴)は澄にこう言った。
「矢の先には鉄があり、大王を避けてはくれないのですぞ。」
 かくて澄を堰の下に下りさせた。その瞬間、澄が座っていた所に矢が降り注いだ。
 澄は堰の造営の指揮を執ったが、堰が三度にわたって決壊すると激怒し、土嚢だけでなく人夫も投げ込んで決壊場所を塞いだ。

○資治通鑑
 東魏高岳既失慕容紹宗等,志氣沮喪,不敢復逼長社城。陳元康言於大將軍澄曰:「王自輔政以來,未有殊功。雖破侯景,本非外賊。今潁川垂陷,願王自以為功。」澄從之,戊寅,自將步騎十萬攻長社,親臨作堰。堰三決,澄怒,推負土者及囊并塞之。
○北史北斉文襄紀
 五月戊寅,文襄帥師自鄴赴潁川。
○周18・北62王思政伝
〔岳既失紹宗等,志氣沮喪,不敢逼城。〕齊文襄聞之,乃率步騎十一萬(《北史》十万)來攻。自至堰下,督勵士卒。
○周36王士良伝
 王思政鎮潁川,齊文襄率眾攻之。授士良大行臺右丞,加鎮西將軍,增邑一千戶,進爵為公,令輔其弟演於幷州居守。
○北斉16段韶伝
 世宗征潁川,韶留鎮晉陽。別封真定縣男,行幷州刺史。
○北斉24陳元康伝
 王思政入潁城,諸將攻之,不能拔。元康進計於世宗曰:「公匡輔朝政,未有殊功,雖敗侯景,本非外賊。今潁城將陷,願公因而乘之,足以取威定業。」世宗令元康馳驛觀之。復命曰:「必可拔。」
○三国典略
 五七、周王思政固守穎川,高岳久圍不解。陳元康言於齊王澄曰:「公自匡輔朝政,未有殊功。雖敗侯景,本非外賊。穎城將陷,願公因而乘之,足以取威定業。」王從之。於是親至穎川,益發其眾,號曰:「決命夫。」更起土山。王坐於堰上,趙道德言於王曰:「箭頭有鐵,不避大王。」引王帶而下,箭集於王坐之所。

 ⑴王士良...字は君明。500~581。真面目な性格。530年に爾朱仲遠に仕えたが、紇豆陵步蕃に敗れて河右に連行された。532年、その行台の紇豆陵伊利らを説得して朝廷に帰伏させた。のち、京畿大都督府司馬→長史・領外兵参軍とされ、武定元年(543)に行台左中兵郎中とされ、更に大将軍府属・従事中郎とされ、潁川討伐の際には晋陽の留守を任された。文宣帝即位後も引き続き晋陽の軍隊の管理や留守を任されたが、のち唐邕と交代し、侍中や吏部尚書とされた。のち豫州道行台・豫州刺史とされた。564年、北周の晋公護が東伐に赴いてくると降伏し、大将軍・小司徒・広昌郡公とされた。のち荊州総管・行荊州刺史→小司徒→鄜州刺史→金州総管・七州諸軍事・金州刺史とされた。577年、北斉が滅ぶと并州刺史とされた。のち上大将軍とされた。のち老齢を以て引退し、581年に死去した。


┃降伏

 西魏の河南諸軍事・大将軍の王思政が籠る長社(潁川)城中には塩の蓄えが無かったため、城内の人々は体中が痙攣を起こしたり浮腫んだりして、六・七割(通鑑では八・九割)が死んだ。
 ある時、夜に長社(潁川)で戦車の音が西北より城に向かうのを聞いた。二日後、つむじ風が乾(西北)の地より巻き上がり、大波を起こした。このとき季節は盛夏だったため水の勢いは強く、とうとう城壁の北面を崩壊させた。水は城中に満ち溢れ、足の置き場が無くなった。
 東魏の大将軍の高澄は城中に触れを出してこう言った。
「大将軍を生け捕りにした者は侯に封じ、多くの賞賜を与える。大将軍の身に傷があればその側近たちをみな斬刑に処す。」
 一方、思政は敗北を悟ると左右の者を率いて土山(東魏が攻城のために築いたのを奪取したもの)に登り、彼らにこう言った。
「私は国より重任を受けた身であり、賊を平定することこそ本懐であったが、至誠天に通ぜず、逆に王命を辱めることになった。今、刀折れ矢尽き、万策尽きたからには、もはやあとは、一死を以て朝恩に報いるのみである。」
 かくて天を仰いで号泣すると、左右の者も同じように号泣した。思政は次いで〔天子のおわす〕西を向いて二度叩拝し、それから自ら首を刎ねんとした。左右はこれを押し止め、都督の駱訓がこう言った。
「公は常に私たちにこう言っていたではありませんか。『お前たちが我が首を持って降れば、富貴を得るだけでなく、城内の人々の命も救うことができるぞ。』と。しかしいま高澄は、公に傷を負わせたりすれば、側近たちをみな斬刑に処すと言っております。公は士卒の死を憐れんでくださるのではなかったのでしょうか!」
 思政はそこで自決するのを諦めた。澄が通直散騎常侍〔・大行台都官郎中〕の趙彦深を説得に赴かせると、彦深は土山に登り、思政に白羽扇を握らせて澄の誠意を伝えた。
 丙申(6月12日)、そこで思政は彦深に手を引かれながら山を下りた。思政は澄に会うと、語気激しく悲しみを露わにして、一つも屈服した様子を見せなかった。澄はその忠義の態度に感じ入り、席から立って非常に手厚くもてなした(通鑑には『澄は思政に叩拝をさせず、上座に招き寄せて礼遇した』とある)。
 これより前、澄は彦深にこう言ったことがあった。
「わしは昨夜、猟に出かけた夢を見た。わしはそこで出会った猪の群れをことごとく射倒したのだが、一頭の大猪だけは逃してしまった。しかし、そのとき卿が『代わりに獲ってきましょう』と言って、すぐにその通り大猪を獲って帰ってきた。」
 そして現在、彦深が思政を連れて帰ってくると、澄は笑ってこう言った。
「夢が正夢になった!」
 かくて即座に思政の佩刀を解き、彦深に与えて言った。
「ずっとこのような良い目に逢わせてやるぞ。」
 思政が潁川に入城した時、配下の将兵は八千人いたが、城が陥ちた時にはわずか三千人にまで落ち込んでいた(魏孝静紀には『高澄が潁川を陥とした際兵一万余を得た』とある)。その窮状のうえ援軍も来なかったが、将兵は最後まで〔思政に忠誠を貫き、〕叛乱を起こさなかった。
 潁州刺史の皇甫僧顕らも降伏した。
 思政の部将たちは諸州の地下牢に監禁され、数年の内に死に絶えた(通鑑には『思政の将兵を遠方に分置した』とある)。
 澄は潁州の住民数万を手に入れ、潁州を改めて鄭州とし、治所を〔潁州の南にある〕潁陰に遷した。鄭州は許昌・潁川・陽翟郡を管轄した。
 澄が思政の才識を重んずると、中外府中兵参軍の盧潛が徐ろにこれを諌めて言った。
「思政は死んで節義を全うすることができなかった者。重んずるに値しません!」
 澄は左右にこう言った。
「わしは盧潛〔のような剛直・忠義の士〕がおるのに、更に王思政も得てしまったのだな。」

○資治通鑑
 長社城中無鹽,人病攣腫,死者什八九。大風從西北起,吹水入城,城壞。東魏大將軍澄令城中曰:「有能生致王大將軍者封侯;若大將軍身有損傷,親近左右皆斬。」王思政帥衆據土山【東魏築土山以攻潁川,思政奪而據之】,告之曰:「吾力屈計窮,唯當以死謝國。」因仰天大哭,西向再拜,欲自刎,都督駱訓曰:「公常語訓等:『汝齎我頭出降,非但得富貴,亦完一城人。』今高相旣有此令,公獨不哀士卒之死乎!」衆共執之,不得引決。澄遣通直散騎趙彥深就土山遺以白羽扇,執手申意,牽之以下。澄不令拜,延而禮之。思政初入潁川,將士八千人,及城陷,纔三千人,卒無叛者。澄悉散配其將卒於遠方,改潁州為鄭州【按魏收《志》:潁州本治長社,旣改鄭州,徙治潁陰城,領許昌、潁川、陽翟郡】,禮遇思政甚重。西閤祭酒【後齊之制,三師、二大、三公,各置東西閤祭酒。二大,大司馬、大將軍也】盧潛曰:「思政不能死節,何足可重!」澄謂左右曰:「我有盧潛,乃是更得一王思政。」潛,度世之曾孫也。
○魏孝静紀
 六月丙申,克潁州,擒寶炬大將軍、尚書左僕射、東道大行臺、太原郡開國公王思政,潁州刺史皇甫僧顯等,及戰士一萬餘人,男女數萬口。齊文襄王遂如洛州。
○北史西魏文帝紀
 六月,東魏勃海王高澄攻陷潁川。
○周文帝紀
 夏六月,潁川陷。
○北斉文襄紀
 六月丙申克潁川,禽西魏大將軍王思政,以忠於所事,釋而待之。
○魏地形志
 鄭州 天平初置潁州,治長社城。武定七年改治潁陰城。
◯周18・北62王思政伝
 水壯,城北面遂崩。水便滿溢,無措足之地。思政知事不濟,率左右據土山,謂之曰:「吾受國重任,本望平難立功。精誠無感,遂辱王命。今力屈道窮,計無所出。唯當効死,以謝朝恩。」因仰天大哭。左右皆號慟。思政西向再拜,便欲自刎。先是,齊文襄告城中人曰:「有能生致王大將軍者,封侯,重賞。若大將軍身有損傷,親近左右,皆從大戮。」都督駱訓謂思政曰:「公常語訓等,但將我頭降,非但得富貴,亦是活一城人。今高相既有此言,公豈不哀城中士卒也!」固共止之,不得引決。齊文襄遣其〔通直散騎〕常侍趙彥深就土山執手申意(遺以白羽扇而說之,牽手以下)。引見文襄,辭氣慷慨,〔涕淚交流,〕無撓屈之容。文襄以其忠於所事,〔起而禮之,〕禮(接)遇甚厚。〔其督將分禁諸州地牢,數年盡死。〕思政初入潁川,士卒八千人,〔被圍既久,城中無鹽,腫死者十六七,及城陷之日,存者纔三千人。雖〕城既無外援,亦(遂)無叛者。
○北斉38趙彦深伝
 從征潁川,時引水灌城,城雉將沒,西魏將王思政猶欲死戰。文襄令彥深單身入城告喻,即日降之,便手牽思政出城。先是,文襄謂彥深曰:「吾昨夜夢獵,遇一羣豕,吾射盡獲之,獨一大豕不可得。卿言當為吾取,須臾獲豕而進。」至是,文襄笑曰:「夢驗矣。」即解思政佩刀與彥深曰:「使卿常獲此利。」
○北斉42盧潛伝
 盧潛,范陽涿人也。祖尚之,魏濟州刺史。父文符,通直侍郎。潛容貌瓌偉,善言談,少有成人志尚。儀同賀拔勝辟開府行參軍,補侍御史。世宗引為大將軍西閤祭酒,轉中外府中兵參軍,機事強濟,為世宗所知,言其終可大用。王思政見獲於潁川,世宗重其才識。潛曾從容白世宗云:「思政不能死節,何足可重!」世宗謂左右曰:「我有盧潛,便是更得一王思政。」
○三国典略
 七二、太原郡王高洋督兵攻王思政,陷於潁川,遂入東魏。先是長社夜有聲如車騎,從西北向城。居二日,黑風起於乾地,吹水入城,城壞,風羊角而上。
○通典兵14
 時盛夏水壯,城北面遂壞。頃之,水便溢滿,無措足之地,遂被擒。文襄義而禮之。
○読史方輿紀要
 東魏攻圍,逾年始陷。以城多崩頹,因移郡治潁陰縣。

 ⑴趙彦深…本名隠。彦深は字。生年507、時に43歳。能吏。3歳の時に父を亡くし、貧しい中母親に女手一つで育てられ、非常な母親思いとなった。頭が良く読み書きや計算を得意とした。静かに暮らすことを好み、人と無闇に付き合わず、意見はどれも納得するものばかりだった。朝方に自ら門の外を掃除したが、人にその姿を見せることは無かった。尚書令の司馬子如に認められて出世し、高歓の時、陳元康と共に機密に携わり、『陳・趙』と並び称された。高歓死後も高澄に重用を受け、依然として機密に携わった。
 ⑵潁陰…《読史方輿紀要》曰く、『許州の北五十里に長葛県(長社。潁州)があり、許州の西九十里に禹州(陽翟)があり、禹州の東南四十里の潁水の南に潁陰城がある。』
 ⑶読史方輿紀要には『城壁が多くの箇所で崩壊していたため移転した』とする。

┃憂公忘私の人
 思政は国家のために働くことだけを心掛け、蓄財行為を行なわなかった。ある時、田地を拝領した。思政が出征したのち、家人はそこに桑の実がなる木などを植えた。思政は家に帰ってこれを見ると、怒ってこう言った。
「昔、霍去病前漢の驃騎将軍)は匈奴がまだ滅んでいないと言って邸宅の拝領を辞退した。まして、今は匈奴以上の大賊が健在なのだぞ。そのような時に営利行為を行なう者が、どうして憂国忘私の志士と言えよう!」
 かくて左右の者に命じてこれを抜き捨てさせた。万事このようであったため、東魏に捕らわれた時、家には一つも蓄えが無かった。

 7月、東魏の大将軍の高澄が潁川討伐より帰還して鄴の朝廷に参内し、王思政の罪を赦すよう孝静帝元善見。時に26歳)に求めた。

 のち、思政は北斉の時に都官尚書・儀同三司とされた。亡くなると本官と兗州刺史を追贈された。

 令狐徳棻曰く...王思政は戦乱の時に当たって国家のために奔走し、功名を立てた後も高潔な志を抱き続けた。覇府(宇文泰)に仕えて潁川の守備を命じられると、該地の天険を利用し、種々の防御策を凝らして、一城の兵を率いて傾国の師(一国を滅ぼせるほどの大軍)に当たり、疲乏の兵を率いて勁勇の兵と戦ったが、それでも良くこれら大敵を撃破し、何度も傑出した功績を立てた。その忠節は史上に冠絶し、その節義は中国の外にまで振るった。不幸、運に見放され、城は陥ちて囚われの身となりはしたが、その気高い志と立派な人柄は、後世の良き模範となるに充分であった。

○魏孝静紀
 秋七月,齊文襄王至自南討,請宥思政之罪。

○周18・北62王思政伝
 思政常以勤王為務,不營資產。嘗被賜園地,思政出征後,家人種桑果〔雜樹〕。及還,見而怒曰:「匈奴未滅,去病辭家,況大賊未平,何(欲)事產業〔,豈所謂憂公忘私邪〕!」命左右拔而棄之。故身陷之後,家無畜(蓄)積。及齊〔文宣〕受〔東魏〕禪,以〔思政〕為都官尚書〔、儀同三司。卒,贈以本官,加兗州刺史〕。
 ...王思政驅馳有事之秋,慷慨功名之際。及乎策名霸府,作鎮潁川,設縈帶之險,修守禦之術,以一城之眾,抗傾國之師,率疲乏之兵,當勁勇之卒,猶能亟摧大敵,屢建奇功。忠節冠於本朝,義聲動於隣聽。雖運窮事蹙,城陷身囚,壯志高風,亦足奮於百世矣。

┃三蔽
 太尉の高岳らが思政を攻めた時、衛尉卿(廷尉卿?)の杜弼は行潁州事・摂行台左丞とされた。この時、大軍が潁州に駐屯し、州民は多くの徴発や輸送に苦しめられることになったが、弼が負担を公平にし、官民一致で当たったので、州民から大いに支持を得た。
 高澄杜弼に言った。
「卿よ、王思政を捕らえることができた理由を説明してみよ。」
 弼は言った。
「思政は逆順の理を察せず、大小の形を識らず、強弱の勢を測りませんでした。この三蔽(三つの欠点)があったがために、捕らえられるに至ったのです。」
 澄は言った。
「いにしえより『逆取順守』(道理にそむいた方法で国を奪ったのち、道理にかなった方法で保持する)という言葉があり、大呉は小越に苦しめられ(春秋の呉越)、弱燕は強斉を破った(戦国の楽毅)。卿の三義は証明にならぬ。」
 弼は言った。
「王がもし順にして不大か、大にして不強か(呉は不強だった)、強にして不順だった(斉は不順だった)のであれば、仰る通りでありましょうが、今既に王は順にして大にして強であり、全てを完備しておられますので、立派な証明になると思います。」
 澄は言った。
「たいてい自説を補強する際は具体的な用例を出すものだが、どうして卿は抽象的な理論で固めようとするのか?」
 弼は言った。
「大王は威徳を兼備し、適っている道理が広範に亘るがゆえに自然と言葉も広範になってしまうのです。道理に外れた言葉を言う事はできません。」
 澄は言った。
「卿の言う通りであれば、どうして潁川は一年経っても降らず、孤()が来ると即座に陥落したのか?」
 弼は言った。
「天がはっきりと大王の手柄としたかったからでありましょう。」

○北斉24杜弼伝
 關中遣儀同王思政據潁州,太尉高岳等攻之。弼行潁州事,攝行臺左丞。時大軍在境,調輸多費,弼均其苦樂,公私兼舉,大為州民所稱。潁州之平也,世宗曰:「卿試論王思政所以被擒。」弼曰:「思政不察逆順之理,不識大小之形,不度強弱之勢,有此三蔽,宜其俘獲。」世宗曰:「古有逆取順守,大吳困於小越,弱燕能破強齊。卿之三義,何以自立?」弼曰:「王若順而不大,大而不強,強而不順,於義或偏,得如聖旨。今既兼備眾勝,鄙言可以還立。」世宗曰:「凡欲持論,宜有定指,那得廣包眾理,欲以多端自固?」弼曰:「大王威德,事兼眾美,義博故言博,非義外施言。」世宗曰:「若爾,何故周年不下,孤來即拔?」弼曰:「此蓋天意欲顯大王之功。」

 ⑴杜弼…字は輔玄。幼名は輔国。491~559。中山の人だが名門京兆杜氏の出を自称した。貧しかったが勉学に励み、任城王澄に王佐の才があると評された。振る舞いが上品で思いやりが深く、事務仕事に通暁し、どの仕事に就いても清廉潔白であったので、官民から慕われた。玄学(老荘・周易)を愛好し、高齢になるとますますその傾向が強くなった。実直な性格で、多くの諫言を行なった。高歓に仕えて行台郎とされた。537年の小関の決戦の際には監軍として竇泰の軍に随行したが、泰を良く矯正できず、泰が敗死すると陝州に逃げ帰る醜態を見せ、歓に激怒された。歓に貪汚の風を引き締めるよう進言したが聞き入れられなかった。また、西魏よりも先に勲貴を除くよう勧めると、武器の列の間を歩かされた。545年、柔然に使いし、婚姻を求めた。547年の梁との寒山の決戦の際には軍司・摂行台左丞とされた。出立の際、高澄に厩舎で二番目の胡馬を与えられた。 この時、澄に 賞罰の二柄を押さえておくよう言い残し、澄に「多くを語らざるも、非常に良く要点を掴んでいる」と評された。559年、文宣帝に誅殺された。

┃遺族厚遇

 宇文泰は思政が降伏に至ったのは水のためにどうしようもなくなったためであって、指揮が拙かったからではないとし、遺族を罪に問わなかった。

 子の王秉は沈着・毅然としていて度量があり、泰の親信とされていたが、ここに至って三千五百戸を加増され、太原公の爵位を継ぐことを許され、更に驃騎大将軍・侍中・開府儀同三司とされた。
 また、秉の弟で中都県侯の王揆も加増されて計千五百戸とされ、公とされた。
 揆の弟の王邗も西安県侯とされた。
 邗の弟の王恭も忠誠県伯とされた。
 恭の弟の王幼も顕親県伯とされた。
 秉の姉も斉郡君とされた。
 秉の兄の王元遜は思政と共に潁川にて捕らえられていたが、その子の王景が晋陽県侯とされた。
 秉は固辞したが聞き入れられなかった。
 秉は十六年(550)の北斉討伐の際には使持節・大都督とされ、思政の配下の兵を全て配属された。廃帝二年(553)、尉遅迥の征蜀に参加し、〔恭帝二年(555)に〕天水郡(秦州)を鎮守した。


 間もなく拓王氏の姓を与えられ、鄜州(もと北華州)刺史とされた。武成年間(559~560)の末に匠師中大夫とされ、のち載師中大夫とされた。保定二年(562)に安州総管とされた。また、これまでのどこかで大将軍とされた。
 天和六年(571)6月乙未(14日)柱国大将軍とされた。
 建徳四年(575)、春、正月、戊辰(13日)、襄州(襄陽)総管とされた。
 のち隋に仕え、汴州(もと北斉の梁州。大梁)刺史とされ、亡くなった。

○周武帝紀
〔天和六年…〕六月乙未,以大將軍、太原公王柬為柱國。…建德四年春正月戊辰,…太原公王康為襄州總管。
○周18・北62王秉伝
 子秉(康)【[一八]北史本傳「秉」作「康」,疑避唐諱改】,〔沈毅有度量,後為周文親信。思政陷後,詔以因水城陷,非戰之罪,增邑三千五百戶,以康襲爵太原公,除驃騎大將軍、侍中、開府儀同三司。康弟揆,先封中都縣侯,增邑通前一千五百戶,進爵為公。揆弟邗,封西安縣侯。邗弟恭,忠誠縣伯。恭弟幼,顯親縣伯。康姊封齊郡君。康兄元遜亦陷於潁川,封其子景晉陽縣侯。康抗表固讓,不許。十六年,王師東討,加康使持節、大都督,以思政所部兵皆配之。魏廢帝二年,隨尉遲迥征蜀,鎮天水郡。尋賜姓拓王氏。為鄜州刺史。武成末,除匠師中大夫,轉載師。保定二年,歷安、襄二州總管,位柱國。入隋,終於汴州刺史。〕