[530~548]

┃蠕蠕公主前史


〔柔然の頭兵可汗は、北魏に護送されて帰国を果たした頃(521年正月参照)は北魏に恭しく接していたが、北方に勢力を拡大してからは次第に驕慢になり、使者を送ることはしても臣と称することは無くなった。また、秦州刺史の汝陽王暹がその典籤で斉人の淳于覃を使者として派遣してくると、これを抑留して重用し、秘書監・黄門郎として事務のことを司らせた。可汗は洛陽に滞在した時から中国の文化を敬慕するようになっており、中国でいう王のように振る舞い、侍中・黄門などの諸官を設けていた。
 のち北魏が東西に分裂すると、可汗はますます中国に不遜な態度を取るようになり、度々その国境を侵犯するようになった。
 西魏の権臣の宇文泰はこのとき東魏と戦うのに手一杯で北辺に兵を送る余裕が無かったため、婚姻をしてこれを懐柔しようとした。そこで舍人の元翌の娘を化政公主として可汗の弟の塔寒タルカン?)に嫁がせ、更に可汗の娘を文帝の后とすることを申し出た。
 大統四年(538)、2月、甲辰(15日)、帝は皇后の文后535年〈1〉参照)を出家させて尼とし、司空の王盟と、頭兵と面識のある扶風王孚523年参照)、楊寛楊荐に頭兵の娘を迎えに行かせた。頭兵は孚に会うと非常に喜び、約束通り娘の郁久閭氏時に14歳)を西魏に送ることにした。
 3月、丙子(17日)、帝は郁久閭氏を皇后に立てた。これが悼皇后である。可汗は東魏の使者の元整を抑留し、断交した[→538年⑴参照]。〕

 5月、柔然が東魏領の幽州范陽郡に侵入して略奪を行ない、易水まで南下した所で撤退した。
 9月、柔然が東魏の肆州(晋陽の北北百六十里)秀容郡を略奪し、三堆にまで到った所で引き返した。また、抑留していた東魏の使者の元整を殺害した。東魏はこれを聞くと柔然の使者の温豆抜らを監禁した。
 
 当時、柔然は強勢で、西魏と友好関係にあった。東魏の権臣の高歓はこの両者が協力して侵攻してくるのを憂慮した。

 そこで柔然を懐柔するため、捕らえていた柔然の使者のうち龍無駒を帰国させ、温豆抜らが生きている事を柔然に知らせた。頭兵可汗元整を殺した時、温豆抜らも報復として殺されたものと考えていたので、無駒から生存を伝えられるとややバツが悪い思いをした。


 興和二年(540)の春、柔然は再び龍無駒らを東魏に派遣して朝貢した。ただ、まだ心から東魏とよしみを通じたわけでは無かった。

 この春、柔然が西魏領に侵攻した。宇文泰は諸軍を沙苑に集め、柔然の侵攻に備えた。出家していた文后が自殺すると、柔然はやがて退いた。間もなく悼后は子どもを産むとすぐに亡くなった(享年16)。
 悼后が亡くなったあと、西魏は楊荐を柔然に派遣し、改めて婚姻を求めた。柔然に着くと、荐は柔然の忘恩違約を責めると共に、朝廷に婚姻の意志があることを示した。柔然は己の過ちを悟り、荐が帰る際に使者を随行させた[→540年参照]。〕
 
 8月、可汗が莫何の去折豆渾十升らを東魏に派遣して朝貢させ、婚姻を求めた。歓はこれを許し、常山王騭の妹の楽安公主蘭陵長公主として嫁がせることとした。
 12月、柔然は折豆渾十升らを再び派遣して再び婚姻を求めた。

 

 興和三年(541)、夏、4月、柔然の吐豆発の郁久閭譬渾と俟利の莫何折豆渾侯煩らが千頭の馬を結納品として東魏に献上し、蘭陵長公主常山王騭の妹)の輿入れを求めた。
 東魏は詔を下し、兼宗正卿の元寿と兼太常卿の孟韶らに公主を晋陽から護送するよう命じた。嫁入り道具は高歓自らが手配したが、それらはどれも豪華な物ばかりだった。
 柔然は吐豆発の郁久閭匿伏と俟利の阿夷普掘・蒱提棄之伏らを新城(?)の南に派し、公主を出迎えさせた。
 5月、歓が北境を巡視し、柔然に通好を求める使者を送った。
 6月、歓は公主の輿入れが重要な国事であることを以て、自ら楼煩の北まで出向いて公主や柔然の使者たちを見送った。その間、柔然の使者全員に常に手厚い接待を行なった(歓自らの見送りは、叛服常無い柔然の機嫌を取るためという切実な理由もあった)。
 この時、魏収が《出塞》と《公主遠嫁》の詩二首を作り、それを倉曹参軍の祖珽らが唱和した。この二首は当時大いに人気を博した。
 公主が来ると頭兵可汗は大いに喜び、以後間断なく東魏に使者を送るようになった。 

 興和四年(542)、柔然の頭兵可汗が孫娘の叱地連高歓の第九子の長広公湛のちの北斉の武成帝)の縁組を提案した。東魏はこれを許可し、準備を始めた。 


 武定元年(543)8高歓が五万人の人夫を動員して肆州(晋陽の北)の北山に長城を築いた。長城は西は馬陵戍、東は土隥(ドトウにまで到った。工事は四十日で完了した(柔然の侵攻に備えたものであろう。『通鑑』では11月乙巳の後に記述がある)。



 二年(544)、高歓の第九子の高湛時に8歳)と柔然の豆兵可汗の孫娘で隣和公主叱地連時に7歳。550年4月に13歳で死去)が結婚した。湛はこのとき八歳だったが、正装姿は似合っていて威厳があり、緊張せずに落ち着き払っていたので、両国の人々から感嘆を受けた。

○魏孝静紀
 是月,齊獻武王召夫五萬於肆州北山築城,西自馬陵戍,東至土隥。四十日罷。
○北斉神武紀
 三年五月,神武巡北境,使使與蠕蠕通和。…是月,神武命於肆州北山築城,西自馬陵戍,東至土隥,四十日罷。
○北斉武成紀
 世祖武成皇帝諱湛,神武皇帝第九子,孝昭皇帝之母弟也。儀表瓌傑,神武尤所鍾愛。神武方招懷荒遠,乃為帝聘蠕蠕太子菴羅辰女,號「隣和公主」。帝時年八歲,冠服端嚴,神情閑遠,華戎歎異。
○茹茹公主墓誌
 武定八年四月□日,薨於晋陽時年十三。
○北斉39祖珽伝
 時神武送魏蘭陵公主出塞嫁蠕蠕,魏收賦出塞及公主遠嫁詩二首,珽皆和之,大為時人傳詠。 ○北98蠕蠕伝
 元象元年五月,阿那瓌掠幽州范陽,南至易水。九月,又掠肆州秀容,至於三推(堆)。又殺元整,轉謀侵害。東魏乃囚阿那瓌使溫豆拔等。神武以阿那瓌兇狡,將撫懷之,乃遣其使人龍無駒北還,以通溫豆拔等音問。始阿那瓌殺元整,亦謂溫豆拔等不存,既見無駒,微懷感愧。興和二年春,復遣龍無駒等朝貢東魏。然猶未款誠。…遣其俟利、莫何莫緣游大力等朝貢,因為其子菴羅辰請婚。靜帝詔兼散騎常侍太府卿羅念、兼通直散騎常侍中書舍人穆景相等使於阿那瓌。八月,阿那瓌遣莫何去折豆渾十升等朝貢,復因求婚。齊神武請遂其意,以招四遠。詔以常山王騭妹樂安公主許之,改封為蘭陵郡長公主。十二月,阿那瓌復遣折豆渾十升詣東魏請婚。三年四月,阿那瓌遣吐豆登(発)郁久閭譬渾、俟利莫何折豆渾侯煩等奉馬千疋,以為聘禮,請迎公主。詔兼宗正卿元壽、兼太常卿孟韶等送公主自晉陽北邁,資用器物,齊神武親自經紀,咸出豐渥。阿那瓌遣其吐豆登郁久閭匿伏、俟利阿夷普掘、蒱提棄之伏等迎公主於新城之南。六月,齊神武慮阿那瓌難信,又以國事加重,躬送公主於樓煩之北,接勞其使,每皆隆厚。阿那瓌大喜,自是朝貢東魏相尋。

 ⑴頭兵可汗…郁久閭阿那瓌。520年に柔然の十九代可汗となったが、内乱に遭ってやむなく北魏に降り、朔方郡公・蠕蠕王に封ぜられた。523年叛乱を起こし、討伐軍を差し向けられると北方に遁走した。のち、北魏の内乱に乗じて勢力を拡大し、525年、勅連頭兵豆伐可汗を名乗った。
 ⑵宇文泰…字(鮮卑名)は黒獺。507~556。匈奴(鮮卑化)宇文部の出。北魏末に爾朱栄に仕え、関中平定の際に大いに活躍した。のち爾朱天光→賀抜岳に仕えて関西大行台左丞・府司馬とされ、右腕として活躍した。のち夏州刺史とされ、岳が侯莫陳悦に殺されると遺衆を引き継いで悦を討ち、関中の実力者となった。孝武帝が高歓と対立して亡命してくるとこれを迎え入れて西魏を建国し、丞相とされた。間もなく帝を殺害して文帝を立て、華北の大半を掌握した歓と小関・沙苑にて戦い、寡にして良く衆を破ったが、続く河橋・邙山の戦いでは善戦するも敗北を喫した。548年、太師とされた。梁が侯景の乱によって乱れると南方に目を向け、漢中・成都・襄陽・江陵の地を攻略し、領土を大きく広げることに成功した。556年、六官の制を採用して大冢宰に就いた。
 ⑶三堆…《読史方輿紀要》曰く、『三堆城は静楽県の治所である。静楽県は太原府(晋陽)の西北二百二十里にある。』
 ⑷高歓…字(鮮卑名)は賀六渾。496~547。懐朔鎮の出身。頭が長く頬骨は高く、綺麗な歯をしていた。貧しい家に生まれたが、大豪族の娘の婁昭君の心を射止めて雄飛のきっかけを得た。杜洛周→葛栄→爾朱栄に仕えて親信都督→晋州刺史とされ、栄が死ぬと紇豆陵步蛮を大破して栄の後継の爾朱兆の信を得、もと六鎮兵の統率を任された。その後冀州にて叛乱を起こし、爾朱氏を滅ぼして北魏の実権を握った。534年、孝武帝が関中の宇文泰のもとに逃れると孝静帝を擁立して東魏を建て、その大丞相となり、西魏と長きに亘って激闘を繰り広げた。
 ⑸楼煩…《元和郡県図志》曰く、『静楽県の北一百五十里に楼煩関がある。』《読史方輿紀要》曰く、『太原府(晋陽)の西北二百二十里→静楽県の南七十里にある。』また曰く、『代州(晋陽と平城の中間)の西南六十里→崞県の東十五里にある。雁門郡原平県にある。故城は崞県の東北にある。』
 ⑹魏収…字は伯起。506~572。温子昇や邢子才に並ぶ名文家。鉅鹿魏氏の出で、驃騎大将軍の魏子建の子。頭脳明晰で非常に優れた文章を書いたが、人格に問題があった。551~554年に亘って魏書を編纂したが、記述に問題があり『穢史』と糾弾された。572年(5)参照。
 ⑺祖珽…字は孝徴。名門の范陽祖氏の出。名文家。頭の回転が早く、記憶力に優れ、音楽・語学・占術・医術などを得意とした。人格に問題があり、たびたび罪を犯して免官に遭ったが、そのつど溢れる才能によって復帰を果たした。文宣帝時代には詔勅の作成に携わった。文宣帝が死ぬと長広王(上皇)に取り入り、王が即位すると重用を受けた。565年、太子(後主)の地位や生命の保全のために太子に帝位を譲るよう勧めた。太子が即位して後主となると秘書監とされた。のち和士開を讒言したが失敗して光州に流され、長い牢屋生活の内に盲目となった。569年、士開に赦されて政界に復帰し、秘書監とされた。士開が死ぬと後宮の実力者の陸令萱に擦り寄り、572年、そのコネによって左僕射とされた。間もなく斛律光や高元海を排除して政治・軍事の実権を握った。間もなく陸令萱ら寵臣の排除を目論み、胡后一派と手を組んだが失敗し、中央から追放されて北徐州刺史とされた。
 ⑻馬陵戍…《読史方輿紀要》曰く、『太原府(晋陽)の西北二百二十里→静楽県の北にある。』
 ⑼土隥…《読史方輿紀要》曰く、『土隥寨は代州(雁門)の西南六十里または忻州の東北百四十里→崞県の西北にある。』

┃我が二婦、撃賊に堪う


武定三年(545)高歓が行台郎の杜弼歓に西魏よりも先に勲貴を除くよう勧め、武器の列の間を歩かされた。537年〈2〉参照)を柔然に遣わして、可汗の娘と世子の高澄の婚姻を求めた。すると頭兵可汗郁久閭阿那瓌、538年〈1〉参照)はこう言った。

「高王()自らが娶るのならいいだろう。」
 歓が躊躇して決めかねていると、妻の婁昭君が言った。
「国家の存亡に関わる事です。躊躇ってはなりません。」
 高澄尉景四貴の一人。歓の姉の夫。幼くして母を喪った高歓を引き取って育てた。542年参照)も婚姻を勧めたので、歓は鎮南将軍の慕容儼西魏から東荊州を守り切った。537年〈4〉参照)に可汗の第二女の蠕蠕公主[1]を迎えに行かせた(公主、このとき16歳。歓、このとき50歳)。可汗は弟の禿突佳に公主の付き添いと報答の使者を任せるにあたって、こう言いつけた。
「孫ができるまで帰ってくるな。」
 8月、公主が東魏の領内に到ると、歓はこれを下館[2]まで行って自ら出迎えた。歓の側室の一人の爾朱氏爾朱栄の娘。もと孝荘帝の皇后)は二人を木井[3]の北にて出迎えたが、蠕蠕公主とは行列の前後に別れて進み、顔を合わせることが無かった。その道中、公主が角弓(両端を角でつくった弓)を引いて空飛ぶ鳶(とんび)を一矢で射落とすと、爾朱氏も長弓を引き、空飛ぶカラスを一矢で射落とした。歓はこれを見て喜んで言った。
「我が二婦人は、充分賊と戦える。」
 公主が晋陽にやってくると、婁昭君は正室の座を彼女に譲った。歓が跪いてこれに感謝すると、昭君はこう言った。
「彼女が勘付きますから、これからは一切私に気をかけないでください。」[4]
 公主は毅然とした性格で、生涯華言(中国語)を話さなかった。歓があるとき病を患い、彼女の寝室に行くのをやめようとした。しかし禿突佳にひどく睨まれると、やむなく病身を押して、射堂(弓を射る練習をする場所)より輿に乗って行った。公主が手厚い保護を受けること、みなこのふうであった。

○北斉9神武明皇后伝
 神武逼於茹茹,欲娶其女而未決。后曰:「國家大計,願不疑也。」及茹茹公主至,后避正室處之。神武愧而拜謝焉,曰:「彼將有覺,願絕勿顧。」
○北斉20慕容儼伝
 武定三年,…頻使茹茹。
○北14蠕蠕公主伝
 蠕蠕公主者,蠕蠕主郁久閭阿那瓌女也。蠕蠕強盛,與西魏通和,欲連兵東伐。神武病之,令杜弼使蠕蠕,為世子求婚。阿那瓌曰:「高王自娶則可。」神武猶豫,尉景與武明皇后及文襄並勸請,乃從之。武定三年,使慕容儼往娉之,號曰蠕蠕公主。八月,神武迎於下館,阿那瓌使其弟禿突佳來送女,且報聘,仍戒曰:「待見外孫,然後返國。」公主性嚴毅,一生不肯華言。神武嘗有病,不得往公主所,禿突佳怨恚,神武自射堂輿疾就公主。其見將護如此。
○魏故斉献武高王閭夫人墓志
 夫人姓閭,茹茹主第二女也。…夫人体識和明,姿制柔婉,閑淑之誉,有聞中国。…齐献武王敷至德于戎,…遂以婚姻之故,来就我居,推信让以和同列,率柔谦以事君子。虽风马未及,礼俗多殊,而水清易变,丝洁宜染, 习以生常,无俟终日。至于环佩进止,具体庶姬,刀尺罗纨,同夫三世,非法不动,率礼无违。
○北14彭城太妃伝
 神武迎蠕蠕公主還,尒朱氏迎於木井北,與蠕蠕公主前後別行,不相見。公主引角弓仰射翔鴟,應弦而落;妃引長弓斜射飛烏,亦一發而中。神武喜曰:「我此二婦,並堪擊賊。」
○北98蠕蠕伝
 四年,阿那瓌請以其孫女號隣和公主妻齊神武第九子長廣公湛,靜帝詔為婚焉。

 ⑴高澄…字は子恵。521~549。高歓の長子。母は婁昭君。女好きの美男子。536年、尚書令とされると若くして鄴の朝政を取り仕切った。544年、大将軍とされた。厳格に法を執行したことが勲貴の心証を害し、547年、歓が死ぬと侯景の離反を招いた。548年、これを平定し、549年、親征して西魏から潁川を奪還した。のち、皇帝になる事を目論んだが、奴隷の手によって殺害された。549年(6)参照。
 [1]北魏の世祖太武帝の時に柔然を蠕蠕と呼ぶことが定められた。無知なさまが這い歩く(蠕動)虫を連想させたからである。阿那瓌がむかし蠕蠕王とされて国号を定められたのは侮蔑の意思があったが、高歓がその娘を娶って蠕蠕公主と呼称したのは、国号経由でそう呼んだだけであって、侮蔑の意志があったわけではなかった。
 [2]陰館城(肆州の北)に上館・下館があった。
 [3]宋白曰く、木井城は今(北宋)の并州陽曲県(晋陽の北)理(治所)にある。
 [4]婁昭君は己よりも国家の事を優先した。春秋晋の趙姫(晋の文公の娘で、趙衰の妻)が叔隗(狄にいた時の趙衰の妻)の子(趙盾)を嫡子とし、己を下に置いた(左伝僖公二十四年)のと同じ心がけであった。

┃安吐根
 柔然は東魏と和親し、婚姻を結ぶ際、常に安吐根なる者を使者として派遣した。
 吐根は安息(パルティア)人で、曽祖父の代に入国し、酒泉に居住するようになった家の出である。北魏末に柔然に派遣された際、抑留された。天平の初め(534)に正使として晋陽に赴くと、密かに柔然が東魏への侵攻を企んでいることを高歓に伝えた。このため、東魏は警戒態勢をとることができ、のち、果たして柔然が侵攻してきても被害を出す事が無かった。歓は吐根の誠忠ぶりを褒め、手厚い賞賜を加えた。
 吐根は物腰が柔らかく、応対が非常に上手だったので、何度も東魏に使者に赴いては歓から手厚くもてなされた。
 のち讒言に遭って身の危険を感じ、東魏に亡命した。

 冬、10月、丁卯(22日)高歓が上奏して、奚・柔然に接する幽・安・定三州北部の要所に城や砦を築き、防備を強化することを求めた。歓が自ら該当の地域の視察に赴いたため、防備の手薄な拠点は一つ残らず無くなった。

○北斉神武紀
 十月丁卯,神武上言,幽、安、定三州北接奚、蠕蠕,請於險要修立城戍以防之,躬自臨履,莫不嚴固。

○北92安吐根伝
 安吐根,安息胡人,曾祖入魏,家於酒泉。吐根魏末充使蠕蠕,因留塞北。天平初,蠕蠕主使至晉陽,吐根密啟本蕃情狀,神武得為之備。蠕蠕果遣兵入掠,無獲而反。神武以其忠欵,厚加賞賚。其後與蠕蠕和親,結成婚媾,皆吐根為行人也。吐根性和善,頗有計策,頻使入朝,為神武親待。在其本蕃,為人所譖,奔投神武。


┃高澄に再嫁

 武定五年(547)、正月、丙午(8日)、東魏の大丞相・渤海王の高歓が晋陽にて逝去した(享年52)。

 すると歓の子の高澄が柔然の習俗(レヴィレート婚)に従って公主と結婚し、一女を産ませた。


 この月、柔然が西魏の高平(原州)に侵攻し、方城(?)にまで到った。


○魏孝静紀 
 五年春正月丙午,齊獻武王薨於晉陽,祕不發喪。
○周文帝紀 
 十三年春正月,茹茹寇高平,至于方城。

○北14蠕蠕公主伝
 神武崩,文襄從蠕蠕國法,蒸公主,產一女焉。


┃蠕蠕公主の死

 武定六年(548)、4月、甲戌(13日)、公主が并州王宫にて亡くなった(享年19。産褥死?)。
 のち(5月30日)、歓の陵墓(鄴の西北の漳水の西にある。義平陵)の北一里に埋葬された。

 6月高澄が北辺にある城砦の巡視に出かけ、その将兵らに等級をつけて金品を与えた。

○北斉文襄紀
 六月,王巡北邊城戍,賑賜有差。
○魏故斉献武高王閭夫人墓志 
 春秋一十有九,以武定六年四月十三日,薨于并州王宫,其年五月卅日,窆于齐王陵之北一里。