[西魏:大統四年 東魏:天平五年→元象元年 梁:大同四年]
┃元象改元
春、正月、辛酉朔(1日)、日食があった。 この月(魏112霊徴志では「去年の8月」)、東魏〔南兗州〕民の陳天愛が徐州の碭(トウ)郡【孝昌二年(526)に徐州の下邑城に碭郡が置かれた(陳留の北東、彭城の西にある)】の陂(池?)中から来た巨象を発見した《魏112霊徴志》。
巨象は捕獲されて鄴に送られた。
丁卯(7日)、東魏は大赦を行ない、年号を天平から元象に改めた。
○魏孝静紀
元象元年春正月,有巨象自至碭郡陂中,南兗州獲送于鄴。丁卯,大赦,改元。
○北史西魏文帝紀
四年春正月辛酉,拜天於清暉室,終帝世遂為常。
┃東雍州・南汾州陥落
東魏の太保の尉景(高歓の姉の夫。536年12月参照)が厙狄干(高歓の妹の夫。歓と共に西魏の夏州を陥とした。536年正月参照)・斛律金・可朱渾元・薛修義・莫多婁貸文らを率いて西魏の晋州(もと東雍州)・南汾州を攻めた。西魏の晋州刺史の金祚(字は神敬)と守将の皇甫智達は城とともに降伏した。
己卯(正月19日)、東魏の大都督で善無の人の賀抜仁(字は天恵。焉過児? 530年〈5〉参照)が西魏の南汾州を攻め、刺史の韋子粲(字は暉茂)とその弟で鎮城都督の韋道諧を降伏させた。
子粲が城に殉じなかったため、関中にいたその兄弟の大半が処刑の憂き目に遭った。ただ洛陽にいた末弟の韋子爽だけは、西魏の員外散騎常侍の裴寛(537年〈4〉参照)のもとに身を寄せて難を逃れた。のち大赦が下されると、ある者が子爽にこう言った。
「これであなたの罪も赦されるでしょう。」
そこで子爽は裴寬の屋敷から姿を現したが、結局赦免の対象とはなっておらず処刑されてしまった。独孤如願が裴寬を呼びつけて何故匿っていたかと責めると、寬はこう答えた。
「どこにも行くあてが無く、一縷の望みを抱いて頼ってきた者を捕らえるのは不義というものでしょう。今日罪を得ることになりましても、悔いはございませぬ。」
如願は既に大赦が下されていることを理由に、寬の罪を不問とした。
○魏孝静紀
大都督賀拔仁攻寶炬南汾州,己卯,拔之,擒其刺史韋子粲。
○北史西魏文帝紀
二月,東魏攻陷南汾。
○周34楊檦伝
東魏遣太保侯景攻陷正平,復遣行臺薛循義率兵與斛律俱相會,於是敵眾漸盛。
○周34裴寛伝
時汾州刺史韋子粲降於東魏,子粲兄弟在關中者,咸已從坐。其季弟子爽先在洛,窘急,乃投寬。寬開懷納之。遇有大赦,或傳子爽合免,因爾遂出。子爽卒以伏法。獨孤信召而責之。寬曰:「窮來見歸,義無執送。今日獲罪,是所甘心。」以經赦宥,遂得不坐。
○北斉17斛律金伝
從高祖戰於沙苑,不利班師,因此東雍諸城復為西軍所據,遣金與尉景、厙狄干等討復之。元象中,周文帝復大舉向河陽。
○北斉19莫多婁貸文伝
仍為汾、陝、東雍、晉、泰五州大都督。後與太保尉景攻東雍、南汾二州,克之。
○北斉27可朱渾元伝
討西魏儀同金祚、皇甫智達於東雍,擒之。
○北斉27・北26韋子粲伝
孝武入關,以為〔子粲歷行臺左丞、〕南汾州刺史。〔少弟道諧為鎮城都督。元象中,齊〕神武命將出討,城陷,子弟俱破獲,送晉陽,蒙放免。以粲為并州長史,累遷豫州刺史,卒。初子粲兄弟十三人,子姪親屬,闔門百口悉在西魏。以子粲陷城不能死難,多致誅滅,歸國獲存,唯與弟道諧二人而已。諧與粲俱入國。粲富貴之後,遂特棄道諧,令其異居,所得廩祿,略不相及,其不顧恩義如此。
○北53金祚伝
後隨魏孝武西入,周文帝以祚為兗州刺史。歷太僕、衞尉二卿。尋除東北道大都督、晉州刺史,入據東雍州。神武遣尉景攻降之。
┃楊檦孤立
建州に進軍していた楊檦はこれによって孤立無援となり、腹背に敵を受けることとなった。そこで檦は撤退を考えるようになったが、義勇兵(進軍中に付き従ってきた者たち)が最後まで自分に付いてくるか心配だったため、『四方より援軍を派遣した』という宇文泰の書を偽造し、これを偽りの使者に外から届けさせたのち、その内容をそれとなく周囲に漏らして安心させた。その上で義勇兵の頭目たちにそれぞれの配下を率いさせ、軍費を調達するという名目で四方の地を荒らしに行かせた。彼らが出発し終わったのを見ると、檦はその日の内に出発し、深夜に邵郡に帰還するを得た。西魏は檦がよく軍を全うして還ったのを評価し、檦を建州(治所 土箱)刺史とした。
○周34楊檦伝
檦以孤軍無援,且腹背受敵,謀欲拔還。恐義徒背叛,遂偽為太祖書,遣人若從外送來者,云已遣軍四道赴援。因令人漏泄,使所在知之。又分土人義首,令領所部四出抄掠,擬供軍費。檦分遣訖,遂於夜中拔還邵郡。朝廷嘉其權以全軍,即授建州刺史。
┃潁・豫・揚・義・広州陥落
2月、己亥(10日)、梁の武帝(時に75歳)が藉田を耕す儀式を行なった《梁武帝紀》。
東魏の大行台の侯景・司徒の高敖曹・大都督の万俟受洛干・索盧県侯の慕容紹宗(もと爾朱兆の腹心。歓に降ると高隆之と共に鄴の朝政を任され、のち韓雄の挙兵を平定した。535年〈2〉参照)らが虎牢(北豫州の治所)に兵を進めて任祥(去年、宇文貴らの軍に敗れて北豫州に逃げこんでいた)・堯雄(大梁に逃げこんでいた)らの軍と会し、再び潁州を攻めた。守将の梁回らは城を棄てて遁走した。
堯雄は侯景らと別れて楽口を攻め、潁川太守の郭丞伯(もと堯雄配下)を虜とした。
雄は更に懸瓠(豫州の治所)を攻めて西魏刺史の趙継宗(趙剛?)と都督の韋孝寬らを追い払った。ここに雄は再び行豫州事とされた。
西魏はこのとき是云宝を揚州刺史として項城に拠らせ、韓顕を義州刺史として南頓に拠らせていた。雄はこれも攻めて一日にその二城を陥とし、宝は逃がしたが、その妻妾や将吏二千人と韓顕・揚州長史の丘岳を虜として鄴に送った。この功を以て雄は驃騎大将軍を加えられた。
のち雄は侯景に従って魯陽(広州の治所)を攻めたが、数十日をかけてもなかなか陥とすことができなかった。そのうち西魏の援軍が近づき、景が諸将を集めて善後策を講じると、行洛州事の盧勇(字は季礼)が敵援の様子を探りに行くことを求めた。侯景がこれを許すと、勇は百人の騎兵にめいめい一頭の換え馬(急行する際、乗馬が疲労するとこれに乗り換える)を持たせて(原文『各籠一匹馬。』)出陣した。そして大隗山まで到ったとき、勇は西魏の李景和(李弼)の援軍部隊がすぐそこにいるのを知った(『資治通鑑』ではこの時夕方だったとある)。すると勇は多くののぼり旗を樹上に縛りつけて敵の注意をそこに引き付けたのち、夜間に騎兵を十隊に分け、角笛の鳴るのと同時に敵陣に突っ込ませた。奇襲は成功し、勇軍は西魏の儀同の程華を捕らえ、同じく儀同の王征蛮を斬り、三百頭の馬を駆り立てて夜明けに帰還した。救援の望みを失った広州刺史の毛鴻顕と守将の駱超(孝武帝が歓と対峙した際、宇文泰が援軍として派遣した。534年〈3〉参照)は城と共に降り、東魏の丞相の高歓(時に43歳)は勇を行広州事とした【考異曰く、『典略には侯景が広州を陥としたのは11月とあるが、北史魏文帝紀には2月に東魏が南汾・潁・豫・広四州を陥としたとある。今は後者の記述に従った。』】。
勇は、盧弁(孝武帝が都落ちした時、家族を捨ててこれに従った。534年〈4〉参照)の従弟である。
堯雄も豫州刺史に任じられた。
丙辰(27日)、東魏は兼散騎常侍の鄭伯猷を正使、兼通直散騎常侍の宇文忠之を副使として(魏81宇文忠之伝)梁に派遣した。
○魏孝静紀
行臺任祥率豫州刺史堯雄等與大行臺侯景、司徒高敖曹、大都督万俟受洛干等於北豫相會,俱討潁州。梁回等棄城遁走,潁州平。二月,豫州刺史堯雄攻揚州,拔之,擒寶炬義州刺史韓顯、揚州長史丘岳,送京師。丙辰,遣兼散騎常侍鄭伯猷使于蕭衍。
○北史西魏文帝紀
二月,東魏攻陷南汾、潁、豫、廣四州。
○北斉17斛律平伝
行肆州刺史。周文帝遣其右將軍李小光據梁州,平以偏師討擒之。
○北斉20堯雄伝
西魏以丞伯為潁川太守,雄仍與行臺侯景討之。雄別攻破樂口,擒丞伯。進討懸瓠,逐西魏刺史趙繼宗、韋孝寬等。復以雄行豫州事。西魏以是云寶為揚州刺史,據項城;義州刺史韓顯據南頓。雄復率眾攻之,一日拔其二城,擒顯及長史丘岳,寶遁走,獲其妻妾將吏二千人,皆傳送京師。加驃騎大將軍〔、儀同三司〕。仍隨侯景平魯陽,除豫州刺史。
○北斉22盧勇伝
轉行洛州事。元象元年,官軍圍廣州,數旬未拔。行臺侯景聞西魏救兵將至,集諸將議之。勇進觀形勢,於是率百騎,各籠一匹馬。至大隗山,知魏將李景和率軍將至。勇多置幡旗於樹頭,分騎為十隊,鳴角直前,擒西魏儀同程華,斬儀同王征蠻,驅馬三百匹,通夜而還【[一二]冊府卷三六四四三三六頁「通」作「逼」,較長。】。廣州守將駱超以城降,高祖令勇行廣州事。
○北49毛鴻顕伝
鴻賓弟鴻顯,位散騎常侍,封縣侯。遐乳母所產也,一字七寶。遐養之為弟,因姓毛氏。勁悍多力,後隨諸兄戰鬬,多先鋒陷陣。大統四年,為廣州刺史,與駱超鎮東陽,陷東魏。
⑴李弼...字は景和。生年494、時に45歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献した。のち小関の戦いでは竇泰を討つ大功を立て、沙苑の戦いでは僅かな手勢で東魏軍の横腹に突っ込み、前後に二分する大功を立てた。537年(4)参照。
┃趙剛の転戦
これより前、西魏の大都督・東道軍司・潁川郡守の趙剛(孝武帝が歓と対決するに当たり、東荊州への援軍要請の使者とされた。東魏の言う趙継宗? 537年〈2〉参照)は、宇文泰が恒農を攻め陥としたのち、開府の李延孫(孝武帝が西遷すると、伊川・洛水一帯にて反東魏の兵を挙げた。534年〈5〉参照)ら七軍を指揮して陽城郡(洛陽の東南)を取り戻し、太守の王智納を捕らえた。のち、陳留(梁州?)太守とされた。
しかし東魏の行台の吉寧の三万に郡城を陥とされて潁川に引き返し、そこでも侯景に敗れると、残兵を率いて洛陽に身を寄せた。そこで大行台の元季海に潁川郡に帰って兵糧を集めてくるように命じられると、剛は潁川郡の西境にある陽翟の民二万戸を味方につけ、彼らを使って洛陽に兵糧を輸送した。
○周33趙剛伝
從復弘農。進拜大都督、東道軍司,節度開府李延孫等七軍,攻復陽城,擒太守王智納。轉陳留郡守。東魏行臺吉寧率眾三萬攻陷郡城,剛突出,還保潁川,重行郡事。復為侯景所破,乃率餘眾赴洛陽。大行臺元海遣剛還郡徵糧。時景眾已入潁川,剛於西界招復陽翟二萬戶,轉輸送洛。
┃文帝、可汗の娘を后とす
柔然の頭兵可汗⑴は、北魏に護送されて帰国を果たした頃(521年正月参照)は北魏に恭しく接していたが、北魏が乱れている内に北方に勢力を拡大してからは、次第に態度が驕慢となり、使者を送ることはしても臣と称することは無くなった。また、秦州刺史の汝陽王暹がその典籤で斉人の淳于覃を使者として派遣してくると、これを抑留して重用し、秘書監・黄門郎として事務のことを司らせた。頭兵は洛陽に滞在した時から中国の文化を敬慕するようになっており、中国でいう王のように振る舞い、侍中・黄門などの諸官を設けていた。
のち北魏が東西に分裂すると、頭兵はますます中国に不遜な態度を取るようになり、度々その国境を侵犯するようになった。西魏はこのとき東魏と戦うのに手一杯で北辺に兵を送る余裕が無かったため、婚姻をしてこれを懐柔しようとした。そこで舍人の元翌の娘を化政公主として頭兵の弟の塔寒に嫁がせ、更に頭兵の娘を文帝(時に32歳)の后とすることを申し出た。
甲辰(2月15日)、文帝は皇后の文后⑵(535年〈1〉参照)を出家させて尼とし、司空の王盟⑶と、頭兵と面識のある扶風王孚⑷(523年参照)、楊寛⑸と楊荐⑹に頭兵の娘を迎えに行かせた。頭兵は孚に会うと非常に喜び、約束通り娘の郁久閭氏(時に14歳)を西魏に送ることにした。
3月、辛酉(2日)、高歓が沙苑に敗北したことを理由に大丞相の辞職を申し出、孝静帝(時に15歳)に受理された。
柔然は西魏に娘の郁久閭氏を輿入れさせるにあたって、車七百台・馬一万頭・駱駝千頭(通鑑では二千)を伴わせて引き出物とした。その一行が黒塩池【塩州(西夏州)五原付近】に到った時、西魏から派遣されてきた儀仗兵(護衛兵)が到着した。柔然は東を貴いものとしていたので、このときその天幕は出入り口や座席に至るまで全てが東に設けられていた。これを見て扶風王孚がこれを中国風に南の方に正すように求めると、郁久閭氏はこう言った。
「魏主に会うまでは、私は誓って柔然の女です。魏の儀仗兵が南にいても、私は東を向いています。」
孚はこれに何も言い返すことができなかった。
丙子(17日)、文帝は郁久閭氏を皇后に立てた(北13悼皇后伝では正月に長安に到着している)。これが悼皇后である。
后は頭兵可汗の長女で、容姿は整っていて威厳があり、早くから成熟した頭脳を持っていた。
頭兵は東魏の使者の元整を抑留し、断交した。
丁丑(18日)、西魏が大赦を行なった。
また、王盟を司徒とした(周20王盟伝では司徒とされたのち柔然に迎えに赴いている)。
この月、西魏の丞相の宇文泰(時に32歳)が諸将を率いて長安の朝廷に参内した(皇后の冊立式に出席するためか)のち、華州に帰還して兵を統べた。
夏、4月、庚寅(2日)、高歓が鄴の朝廷に参内し、禁酒令(537年閏9月参照)を解くことと、宿衛の武官たちを救済することを求めた。
壬辰(4日)、晋陽に帰還した《北斉神武紀》。
○資治通鑑
初,柔然頭兵可汗始得返國,事魏盡禮。及永安以後,雄據北方,禮漸驕倨,雖信使不絕,不復稱臣。頭兵嘗至洛陽,心慕中國,乃置侍中、黃門等官;後得魏汝陽王典籤淳于覃,親寵任事,以為秘書監,使典文翰。及兩魏分裂,頭兵轉不遜,數為邊患。魏丞相泰以新都關中,方有事山東,欲結婚以撫之,以舍人元翌女為化政公主,妻頭兵弟塔寒。又言於魏主,請廢乙弗后,納頭兵之女。甲辰,以乙弗后為尼,使扶風王孚迎頭兵女為后。頭兵遂留東魏使者元整,不報其使。
三月辛酉,東魏丞相歡以沙苑之敗,請解大丞相,詔許之;頃之,復故【考異曰:北齊帝紀,止有高祖解丞相年月,而無復故之文。按興和元年議曆,有丞相田曹參軍信都芳。蓋因邙山之捷而復也】。
柔然送悼后於魏,車七百乘,馬萬匹,駝二千頭。至黑鹽池【唐志:鹽州五原縣有烏池、白池。烏池,蓋即黑鹽池也】,遇魏所遣鹵簿儀衛。柔然營幕,戶席皆東向,扶風王孚請正南面,后曰:「我未見魏主,固柔然女也。魏仗南面,我自東向。」丙子,立皇后郁久閭氏。丁丑,大赦。以王盟為司徒。丞相泰朝于長安,還屯華州。
○魏孝静紀
三月,齊獻武王固請解大丞相,詔從之。夏四月庚寅,曲赦畿內。壬辰,齊獻武王還晉陽,請開酒禁。
○周文帝紀
四年春三月,太祖率諸將入朝。禮畢,還華州。
○北史西魏文帝紀
廢皇后乙氏。三月,立蠕蠕女郁久閭氏為皇后,大赦。以司空王盟為司徒。
○北13文皇后伝
時新都關中,務欲東討,蠕蠕寇邊,未遑北伐,故帝結婚以撫之。於是更納悼后,命后遜居別宮,出家為尼。悼后猶懷猜忌,復徙后居秦州,依子秦州刺史武都王。帝雖限大計,恩好不忘,後密令養髮,有追還之意。然事祕禁,外無知者。
○北13悼皇后伝
文帝悼皇后郁久閭氏,蠕蠕主阿那瓌之長女也。容貌端嚴,夙有成智。大統初,蠕蠕屢犯北邊,文帝乃與約,通好結婚,扶風王孚受使奉迎。蠕蠕俗以東為貴,后之來,營幕戶席,一皆東向。車七百乘,馬萬疋,駝千頭。到黑鹽池,魏朝鹵簿文物始至。孚奏請正南面,后曰:「我未見魏主,故蠕蠕女也。魏仗向南,我自東面。」孚無以辭。四年正月,至京師,立為皇后,時年十四。
○北16扶風王孚伝
太保。時蠕蠕主與孚相識,先請見孚,然後遣女。於是乃使孚行。蠕蠕君臣見孚,莫不懽悅,奉皇后來歸。
○周20王盟伝
三年,徵拜司空,尋轉司徒。迎魏文帝悼后於茹茹【[二]張森楷云:「北史文帝紀卷五三月大統四年『立蠕蠕女郁久閭氏為皇后,大赦,以司空 王盟 為司徒』。與此前後互異,未知孰是。」】。
○周22楊寛伝
三年,使茹茹,迎魏文悼后。
○周33楊荐伝
魏大統元年,蠕蠕請和親。文帝遣荐與楊寬使,并結婚而還。
○北98蠕蠕伝
東、西魏競結阿那瓌為婚好。西魏文帝乃以孝武時舍人元翌女稱為化政公主,妻阿那瓌兄弟塔寒,又自納阿那瓌女為后,加以金帛誘之。阿那瓌遂留東魏使元整,不報信命。
…始阿那瓌初復其國,盡禮朝廷。明帝之後,中原喪亂,未能外略,阿那瓌統率北方,頗為強盛,稍敢驕大,禮敬頗闕,遣使朝貢,不復稱臣。天平以來,逾自踞慢。汝陽王暹之為秦州也,遣其典籤齊人淳于覃使於阿那瓌。遂留之,親寵任事。阿那瓌因入洛陽,心慕中國,立官號,僭擬王者,遂有侍中、黃門之屬。以覃為祕書監、黃門郎,掌其文墨。覃教阿那瓌,轉至不遜,每奉國書,隣敵抗禮。
⑴頭兵可汗...郁久閭阿那瓌。520年に柔然の十九代可汗となったが、内乱に遭ってやむなく北魏に降り、朔方郡公・蠕蠕王に封ぜられた。523年叛乱を起こし、討伐軍を差し向けられると北方に遁走した。のち、北魏の内乱に乗じて勢力を拡大し、525年、勅連頭兵豆伐可汗を名乗った。
⑵文后…乙弗氏。父は乙瑗、母は北魏の孝文帝の第四女の淮陽長公主。寡黙な美人で、笑うことが滅多になく、両親に「女子を産むのがどうして妨げになろうか。このような女子なら真に男子に勝ろう」と絶賛された。十六の時に南陽王宝炬の妃となった。思いやり深く、質素な生活を好んで古着を身にまとい、艶やかな装飾や衣服を身に着けようとせず、嫉妬も起こさなかったので寵愛を受け、元欽を産んだ。535年、宝炬が即位して文帝となると皇后とされた。535年⑴参照。
⑶王盟...字は子仵。宇文泰の母の兄。爾朱天光の関中征伐のさい賀抜岳軍の先鋒を務め、活躍して征西将軍・平秦郡守とされた。宇文泰が侯莫陳悦を討伐した際には原州の留守を任された。537年(1)6月参照。
⑷扶風王孚…字は秀和。太武帝系。機知に富んだ会話をすることができ、酒を好んだ。また、小柄で禿げていた。幼くして令名を馳せ、游肇・高聡・崔光らに「準的(標準)となるべき人物だ」と評された。胡太后が摂政を行ない、宦官が政治に干渉するようになると、古今の名妃賢后の事跡を四巻にまとめて太后に奉呈した。のち、尚書左丞とされた。523年、柔然が大飢饉に遭うと北道行台とされて慰撫に向かった。この際、柔然に空き地を貸して耕作・放牧を許し、簡易な官府を設置して積極的な支援をするよう進言したが聞き入れられなかった。間もなく北辺に到ると叛乱を起こした柔然に捕らえられたが、礼遇を受けた。のち解放されて洛陽に帰還すると流罪の判決を受けた。のち冀州刺史とされると善政を行ない、領内の人々に慈父と讃えられ、近隣の州の者には神君と称された。527年、葛栄に包囲されると春から冬まで粘り強く抵抗したが、刀折れ矢尽きて捕らえられた。のち栄が爾朱栄に討平されると解放されて再び冀州刺史とされた。元顥が梁の支援を受けて洛陽を陥とすと書状を受けたが封をして孝荘帝のもとに送った。のち楽器の復原を命じられた。534年、孝武帝に従って入関し、宇文泰に非常に気に入られて尚書左僕射・扶風王とされ、国史の監修を行なった。のち司空・兼尚書令とされた。
⑸楊寛...字は景仁(或いは蒙仁)。生年501?、時に約38歳。名門弘農の楊氏の出身。懐朔鎮将の楊鈞の子。文才があり、武芸にも優れた。六鎮の乱中に父が死ぬと、その跡を継いで懐朔鎮を守備したが、敗れて一時柔然に亡命した。のち、太宰の元天穆に従って陳慶之と戦った。爾朱世隆や高歓が洛陽に迫ると防戦の指揮を執った。534年(4)参照。
⑹楊荐...字は承略。無欲で慎み深く、感情を表に出さなかった。宇文泰の譜代で、渉外を担当し、孝武帝や柔然への使者とされた。
┃訓戒
5月、甲戌(16日)、東魏の使者で兼散騎常侍の鄭伯猷が梁に到着した(2月参照)。
これまで、梁は東魏から使者がやってくると、騎射の宴を開いて侯や王に接待をさせるのが通例だった。 しかし、伯猷の時には、領軍将軍の臧盾(武帝に信任され、六軍の指揮を任された。533年参照)に接待をさせた。論者たちは冷遇された伯猷を貶した。
伯猷は帰国すると驃騎将軍・南青州刺史とされた。伯猷は州に赴くと妻(安豊王延明の娘)と共に蓄財に励み、収賄を公然と行なって親戚たちにも恩恵を与えた。〔あまりに収奪が酷かったため、〕農民は逃散し、村落には誰もいなくなった。伯猷は州内の富豪に叛乱の罪を着せ、家財や家人を全て自分のものとし、男性は殺し、女性は奴隷とした。州民たちの怨嗟の声は州境を越えて四方に伝わった。その結果、伯猷は御史の弾劾を受け、数十の罪を列挙されて死罪の判決を受けた。しかし、のちに赦免を受けて死を免れた。高澄は朝士たちに訓戒・勉励を行なう際、常に伯猷と崔叔仁(崔㥄の弟。潁州刺史となったが、私鋳を行なうなど汚職行為を繰り返し、御史中丞の高仲密の弾劾を受けて興和年間[539~542]に死を賜った)を悪い見本として引き合いに出した。
○梁武帝紀
五月甲戌,魏遣使來聘。
○魏56鄭伯猷伝
元象初,以本官兼散騎常侍使於蕭衍。前後使人,蕭衍令其侯王於馬射之日宴對申禮。 伯猷之行,衍令其領軍將軍臧盾與之相接。議者以此貶之。使還,除驃騎將軍、南青州刺史。在州貪惏,妻安豐王元延明女,專為聚斂,貨賄公行,潤及親戚。戶口逃散,邑落空虛。乃誣良民,云欲反叛,籍其資財,盡以入己,誅其丈夫,婦女配沒。百姓怨苦,聲聞四方。為御史糾劾,死罪數十條,遇赦免,因以頓廢。齊文襄王作相,每誡厲朝士,常以 伯猷及崔叔仁為諭。
┃柔然、幽州を侵す
この月、柔然が幽州范陽郡に侵入して略奪を行ない、易水まで南下した所で撤退した。
○北98蠕蠕伝
...元象元年五月,阿那瓌掠幽州范陽,南至易水。
┃段栄の死
6月(段君墓誌)、山東大行台・六州流民(北54段栄伝)大都督・儀同三司の段栄(歓の妻・婁妃の姉の夫。天象に通じ、沙苑の戦いの敗北を予見した。537年〈3〉参照)が中山にて(段君墓誌)亡くなった(享年61。段栄伝では翌年の5月とある。今は段君墓誌の記述に従った)。昭景と諡された《北斉16段栄伝》。
この夏、山東にて洪水が起こり、カエルが樹上にて鳴いた。
秋、7月、東魏荊州刺史の王則(537年〈4〉参照)が梁の淮南を荒らし回った《出典?》(王則は去年西魏に攻められ梁に亡命し、間もなく東魏に復帰している)。
○魏孝静紀
六月壬辰,帝幸華林都堂聽訟。是夏,山東大水,蝦蟆鳴于樹上。
┃敗亡の漸あり
己未(2日)、梁が南琅邪彭城二郡太守の岳陽王詧を東揚州刺史とした。
癸亥(6日)、梁の東冶(建康東にある鉄工場)の工徒の李胤之が、空から降ってきた仏舍利を手に入れた。梁はこれをもって大赦を行なった《梁武帝紀》。
戊辰(11日)、兼散騎常侍の劉孝儀(潜)を東魏に派遣した《南史梁武帝紀》。
○梁武帝紀
秋七月己未,以南琅邪彭城二郡太守岳陽王詧為東揚州刺史。癸亥,詔以東冶徒李胤之降如來真形舍利,大赦天下。
○周48蕭詧伝
歷官宣惠將軍,知石頭戍事,琅邪、彭城二郡太守,東揚州刺史。初,昭明卒,梁武帝舍詧兄弟而立簡文,內常愧之,寵亞諸子,以會稽人物殷阜,一都之會,故有此授,以慰其心。詧既以其昆弟不得為嗣,常懷不平。又以梁武帝衰老,朝多秕政,有敗亡之漸,遂蓄聚貨財,交通賓客,招募輕俠,折節下之。其勇敢者多歸附,左右遂至數千人,皆厚加資給。
○後梁春秋宣帝紀
大同四年秋七月,以王為東揚州刺史,領會稽太守。…王嘗於會稽作《游七山寺賦》,詞甚玄致。
┃東雍州攻略
これより前(正月〜7月頃)、西魏の建州(邵郡)刺史の楊檦は東魏の東雍州(正平)を攻略しようと考え、まず奇襲部隊を先遣して汾橋を急攻させた。すると東雍州刺史の薛栄祖は檦の予想通り城中の兵士を全て出撃させて汾橋を守備させた。その夜、檦は二千の兵を率いて他道より汾水を渡河し、東雍州を奇襲して陥とした。〔この功により〕檦は驃騎将軍とされた。
○周34楊檦伝
即授建州刺史。時東魏以正平為東雍州,遣薛榮祖鎮之。檦將謀取之,乃先遣奇兵,急攻汾橋。榮祖果盡出城中戰士,於汾橋拒守。其夜,檦率步騎二千,從他道濟,遂襲克之。進驃騎將軍。
538年(2)に続く