[544~577]


┃衝天王にならんと欲す

 安徳王延宗は〔東魏の権臣の〕高澄の第五子である。母は東魏の広陽王?〕の芸妓の陳氏
〔澄が武定七年(549)に膳奴に殺されると、〕延宗は幼少の頃から澄の弟の高洋に引き取られて育てられた。
武定八年(550)5月、洋が東魏から禅譲を受けて文宣帝となり、北斉を建国した。〕

天保六年(555)3月丙申(16日)文宣帝が晋陽から鄴に帰った(去年の8月以来)。
 この年、帝は十二歳の延宗を自分の腹の上に跨がらせ、臍に小便をさせた。それから延宗を抱きかかえると、こう言った。
「この世で可憐と言える者は、この子だけだ。」
 帝が延宗に何王になりたいか聞くと、延宗はこう答えて言った。
「衝天王になりたい。」
 帝が楊愔に可否を諮ると、愔は言った。
「天下に衝天という郡名はありません。どうか徳に安んぜしめられますよう。」
 かくて安徳郡王とした

○北斉文宣紀
 三月…丙申,帝至自晉陽。封世宗二子孝珩為廣寧王,延宗為安德王。
○北斉11安徳王延宗伝
 安德王延宗,文襄第五子也。母陳氏,廣陽王妓也。延宗幼為文宣所養,年十二,猶騎置腹上,令溺己臍中,抱之曰:「可憐止有此一箇。」問欲作何王,對曰:「欲作衝天王。」文宣問楊愔,愔曰:「天下無此郡名,願使安於德。」於是封安德焉。

 ⑴高澄…字は子恵。521~549。高歓の長子。母は婁昭君。女好きの美男子。536年、尚書令とされると若くして鄴の朝政を取り仕切った。544年、大将軍とされた。厳格に法を執行したことが勲貴の心証を害し、547年、歓が死ぬと侯景の離反を招いた。548年、これを平定し、549年、親征して西魏から潁川を奪還した。のち、皇帝になる事を目論んだが、奴隷の手によって殺害された。549年(6)参照。
 ⑵広陽王湛…字は士深。510~544(広陽文献王神銘)。北魏の名将の広陽王淵の子。妃は王令媛。才能に優れ、人望があったが、好色で強欲だった。528年、孝荘帝が即位して父の名誉が回復された際に爵位を継いだ。膠州刺史→行河南尹とされたのち、東魏の初めに冀州刺史とされると搾取を行なった。初め、下女の紫光(淵に寵愛されていたという)を宋遊道に贈ったが、のちに惜しくなり、冀州に赴任する際に盗んで連れて行った。遊道に訴えられたが暫くして立ち消えになった。のち行洛州(洛陽)事とされたが、537年、西魏が侵攻してくると逃走した。のち行司州(鄴)牧とされた。542年、才能と名声がある事を以て飛び級で太尉公とされた。544年、死去し、文献と諡された。
 ⑶高洋…字は子進。526~559。高歓の第二子。母は婁昭君で、高澄の同母弟。549年、兄の高澄が横死するとその跡を継いで北斉を建国して文宣帝となり、北方の異民族に次々と勝利を収めて政権の基盤を確固たるものとした。しかし間もなく酒に溺れて稀代の暴君となった。
 ⑷楊愔…字は遵彦。生年511、時に45歳。名門楊氏の生き残り。高歓の娘婿。北斉の政治を取り仕切った。高澄が膳奴に殺された際はこれを助けることもせず、一目散に逃げ出した。清廉・謙虚で記憶力が抜群だったが、とても太っており、文宣帝に『楊大肚』と呼ばれた。554年(2)参照。
 ⑸安徳王…もと韓軌の爵位。軌は554年頃に亡くなり、子の晋明が爵位を継いでいた。その後、天統年間(565~569年)に東萊王に改められたという。そうなると安徳王が天統年間まで二人存在していた事になる。天統は天保(550~559)の誤りではないか?

┃結婚
 のち、趙郡の李祖収北魏の揚州刺史の李憲の孫。李希遠の子。趙郡李氏は超名門)の娘を妃とした(文宣帝の正室の李祖娥は李希遠の弟の李希宗の娘)。
 のち、文宣帝が祖収の屋敷を訪れて宴会を開いた際、妃の母の宋氏が二つの石榴(ザクロ)を帝に差し出した。帝はその意味を周囲の人に聞いたが分からなかったので、これを投げ捨てた。
〔宮殿に帰ったのち、〕魏収に尋ねると、収は言った。
「石榴の房の中には多くの種子があり、王と妃は結婚したばかりです。きっと妃の母は娘が多くの子どもに恵まれる事を願って、これを差し出したのでしょう。」
 帝は〔合点が行って〕大いに喜び、収にこう言った。
「卿よ、祖収の屋敷に帰って取って来い。」
 かくて収に美錦二疋を与えた。

十年(559)10月文宣帝が崩御した。〕

○北斉37魏収伝
 八年夏…安德王延宗納趙郡李祖收女為妃,後帝幸李宅宴,而妃母宋氏薦二石榴於帝前〔【[二三]墓誌集釋李憲墓誌圖版二九三末,稱憲長子希遠妻廣平宋氏。希遠子祖牧。趙萬里考釋以為本傳之祖收即祖牧之譌,當是】〕。問諸人莫知其意,帝投之。收曰:「石榴房中多子,王新婚,妃母欲子孫眾多。」帝大喜,詔收「卿還將來」,仍賜收美錦二疋。十年…。

 ⑴魏収伝の時系列を信じれば557年から559年の間の事のように思われる。
 ⑵魏収…字は伯起。506~572。温子昇や邢子才に並ぶ名文家。鉅鹿魏氏の出で、驃騎大将軍の魏子建の子。頭脳明晰で非常に優れた文章を書いたが、人格に問題があった。551~554年に亘って魏書を編纂したが、記述に問題があり『穢史』と糾弾された。572年(5)参照。

┃非行少年
 延宗は太っていて、座れば〔腹がつかえて〕体を反らし、ひれ伏せば〔腹が地に着いて〕腹ばいになった。人々はいつもそのぶよぶよとしていて役に立たぬのを見て笑いものにした。
 また、勝手気ままでけじめが無かった。定州(中山。鄴の北)刺史とされると、高殿の上から大便をし、人に口で受け止めさせた。またある時は、蒸した猪の肉と人糞が入った粥を左右の者に食べさせ、難色を示した者には鞭を加えた。孝昭帝北斉の三代皇帝。武成帝の同母兄)はこれを聞くと、趙道徳を定州に派遣して延宗に百回の杖打ちを加えさせた。しかし延宗は反省の色を見せなかったので、道徳は更に三十の杖打ちを加えた(560~561年の事か)。
 延宗はある時、刀の切れ味を確かめるため、囚人で試し切りをした。武成帝は延宗の不法行為の多さに怒り、使者を派遣して延宗を鞭打たせると共に、その側近の者九人の首を刎ねさせた。以後、延宗は行状を改め、慎むようになった。

○北斉11・北52安徳王延宗伝
 為定州刺史,於樓上大便,使人在下張口承之。以蒸猪糝和人糞以飼左右,有難色者鞭之。孝昭帝聞之,使趙道德就州杖之一百。道德以延宗受杖不謹,又加三十。又以囚試刀,驗其利鈍。驕縱多不法。武成使撻之,殺其昵近九人,從是深自改悔。
 …延宗容貌充壯,坐則仰,偃則伏,人〔皆〕笑之。
○北史演義
 延宗體素肥,前如偃,後如伏,人常笑之。
○南北史演義
 延宗素來肥壯,前如偃,後如伏,人常笑他臃腫無用。

 ⑴原文『充壮』。充壮は壮健、或いは満ち溢れるの意。太っているとも取れる。のちの文に『延宗親當周齊王於城北。奮大矟往來督戰,所向無前。尚書令史沮山肥大多力』とあり、この文脈からすると太っているという意味が正しいように思う。南斉書隨郡王子隆伝にも而體過充壯,常服蘆茹丸以自銷損。』(充壮に過ぎる事から常に下剤を飲んでダイエットしていた)という用例がある。北史演義も『素肥』、南北史演義も『肥壯』という表現にしている。
 ⑵孝昭帝…高演。北斉の三代皇帝。535~561。在位560~561。高歓の第六子。母は婁昭君で、初代文宣帝の同母弟。政治に優れた手腕を示した。文宣帝が死ぬとクーデターを起こして宰相の楊愔らを殺害し、三代廃帝を廃して皇帝の位に即いた。しかし在位わずか一年足らずで病死した。561年(2)参照。
 ⑶趙道徳…本名は不明、道徳は字。高家の家奴。東魏の孝静帝が宮廷から去る際、牛車の上からその乗車を助ける無礼を犯した。のち、黎陽郡守の房超に賄賂を要求したが拒絶された。その一方で、凶暴な文宣帝をたびたび諌めたり、孝昭帝の即位を諌める度胸も持ち合わせていた。561年、儀同三司とされた。
 ⑷武成帝…高湛。北斉の四代皇帝。後主の父。幼主の祖父。537~568。在位561~565。高歓の第九子。母は婁昭君で、初代文宣帝・三代孝昭帝の同母弟。容姿が立派で、歓にもっとも可愛がられた。孝昭帝(高演)のクーデター成功に大きく貢献し、右丞相とされた。561年、帝が死ぬとその跡を継いだ。即位すると次第に享楽に溺れ、政治を疎かにするようになった。565年、太子に位を譲って上皇となった。

┃四兄、大丈夫に非ず
河清三年(564)11月、北周が洛陽を包囲した。
 12月段韶・斛律光・蘭陵王長恭が包囲軍を大破し、洛陽を解放した[→564年⑹参照]。〕

 長恭(延宗の兄)は凱旋すると、兄弟たちに戦いの様子を語った。兄弟たちはみな長恭の戦いぶりを立派だと褒め称えたが、安徳王延宗だけはこう言った。
「四兄(長恭は高澄の第四子、延宗は第五子)は大丈夫ではない! 大丈夫なら、勝ちに乗じて一気に長安を突くはずだ! 自分が四兄だったら、今頃関西(北周)は滅んでいたであろうに!」

○北斉11安徳王延宗伝
 蘭陵王芒山凱捷,自陳兵勢,諸兄弟咸壯之。延宗獨曰:「四兄非大丈夫,何不乘勝徑入?使延宗當此勢,關西豈得復存。」

 ⑴段韶…字は孝先。?~571。婁太后(後主の祖母)の姉の子。知勇兼備の将だが、好色でケチな所があった。邙山の戦いで高歓を危機から救った。また、東方光の乱を平定し、梁の救援軍も撃破した。560年、孝昭帝の権力奪取に貢献し、武成帝が即位すると大司馬とされた。562年、平秦王帰彦の乱を平定した。のち、563年の晋陽の戦い・564年の洛陽の戦いにて北周軍の撃退に成功し、その功により太宰とされた。567年、左丞相とされた。571年、病の床に就きながらも北周の汾州を陥とした。間もなく死去した。
 ⑵斛律光…字は明月。515~572。北斉の名将。左丞相の斛律金の子。馬面で、彪のような体つきをしていた。生まれつき非凡で知勇に才を示し、寡黙で滅多に笑わなかった。騎射に巧みで、一羽の大鷲(鵰)を射落としたことから『落鵰都督』と呼ばれた。560年、孝昭帝のクーデターに協力した。562年、司空とされた。563年、突厥・北周連合軍が晋陽に攻めてくると、晋州の守備を任された。564年、司徒とされ、突厥を討った。北周が洛陽に攻めてくると五万騎を率いて救援に赴き、これを大破し、王雄を自らの手で射殺した。その功により大尉とされた。565年に大将軍、567年に太保・咸陽王、569年に太傅、570年に右丞相とされた。宜陽が包囲されると救援に赴いた。570~571年、北周領の汾北に侵攻した。琅邪王儼が乱を起こすとその鎮圧に貢献した。571年、左丞相とされた。572年、祖珽の讒言に遭って殺された。572年(4)参照。
 ⑶蘭陵王長恭…高長恭。541~573。本名は肅、或いは孝瓘で、長恭は字。後主の伯父の高澄の第四子。母の詳細は不明。肌が白く、美女のような顔立ちをしていて、声も綺麗だった。しかし、性格は男らしく勇敢で、戦場では威厳をつけるために仮面をつけて戦った。職務に精励し、よく物を分け与えたため兵からの支持がとても厚かった。560年、蘭陵王に封ぜられ、領左右大将軍とされた。孝昭帝が即位すると開府儀同三司・中領軍とされ、561年、武成帝が即位すると并州刺史とされた。563年、領軍将軍とされた。564年、突厥と北周の連合軍を晋陽にて奮戦して撃破した。北周が洛陽に攻めてくると五百騎を率いてこれを救出する大功を立て、尚書令とされた。のち司州牧や青州・瀛州の刺史を歴任し、警戒を解くためわざと賄賂政治を行なった。569年に尚書令、570年に録尚書事とされた。571年、太尉とされ、病気の段韶に代わって汾州を攻略した。572年に大司馬とされ、573年、太保とされた。後主に危険視され、自殺させられた。

┃河間王孝琬の死
〔延宗の兄で尚書令の河間王孝琬は、庶兄の河南王孝瑜和士開ら権臣たちの讒言によって殺されたことを怨み、草()の束で作った人形を射て鬱憤を晴らしていた。士開らは上皇もと武成帝)に讒言して言った。
「草人形は陛下に擬して作ったものです。」
 天統二年(566)5月頃、〕上皇は孝琬の両足を打ち砕いて殺した(享年26)。

〔孝琬の弟の〕安徳王延宗は兄が殺されたことを知ると号泣し、自分も草の束で草人形を作って上皇に見立て、これを鞭打ってこう言った。
「なんで兄貴を殺したのだ!」
 延宗も〔孝琬と同じく〕一個の愚人であった。
 奴隷がこれを密告すると、上皇は延宗をうつ伏せにさせ、馬鞭で二百も打ち据えて半殺しにした。上皇は延宗が何も言わなくなると死んだのかと思い、人に担ぎ出させた。延宗は結局蘇生したが、上皇はこれ以上罪に問わなかった。

四年(568)12月、辛未(10日)上皇が危篤に陥った。上皇は和士開に後事を託し、その手を握って息絶えた。〕

○北斉後主紀
 五月乙酉,以兼尚書左僕射、武興王普為尚書令。...是歲,殺河間王孝琬。突厥、靺鞨國並遣使朝貢。
○北斉11河間王孝琬伝
 孝琬以文襄世嫡,驕矜自負。...又怨執政,為草人而射之。和士開與祖珽譖之,云:「草人擬聖躬也。…」…帝愈怒,折其兩脛而死。
○北斉11・北52安徳王延宗伝
 河間死,延宗哭之淚亦甚(北史:延宗哭之淚赤)。又為草人以像武成,鞭而訊之曰:「何故殺我兄!」奴告之,武成覆臥延宗於地,馬鞭撾之二百,幾死。
○南北史演義
 河間王孝琬,見時政日非,每有怨語,且用草人書奸佞姓名,彎弓屢射。當由和士開等入白上皇,謂孝琬不法,妄用草人,比擬聖躬,晝夜射箭。湛正慮多病,聽到此言,不覺怒起,又因當時有童謠云:「河南種穀河北生,白楊樹端金雞鳴。」士開即指河南北為河間,金雞鳴三字,隱寓金雞大赦意義,謂謠言當出自孝琬,搖惑人心。湛即擬召訊,可巧孝琬得著佛牙,入夜有光,孝琬用槊懸幡,置佛牙前。孝琬所為,亦多癡呆。…湛怒且益甚,竟用巨杖擊孝琬足,撲喇一聲,兩脛俱斷,孝琬暈死。…「何故殺我兄?」又是一個愚人。不意復為湛所聞,令左右將延宗牽入,置地加鞭,至二百下。延宗殭臥無聲,湛疑他已死,乃令舁出,延宗竟得復蘇,湛亦不再問。

 ⑴河間王孝琬...武成帝の兄の高澄の第三子、嫡子。母は東魏の孝静帝の姉。生年541、時に26歳。中書監や尚書左僕射を歴任した。北周軍が晋陽に迫った際、逃走しようとした武成帝(上皇)を引き止めた。565年、尚書令とされた。565年(2)参照。
 ⑵河南王孝瑜...字は正徳。生年537~563。高澄の長子。母は宋氏。堂々とした容姿と芯の通った精神を備え、控えめで優しく、文学を愛好した。十行を同時に読める速読の才能と抜群の記憶力を有した。上皇(武成帝)の幼馴染で親友。上皇から非常な信頼を受け、鄴の留守を任された。趙郡王叡と和士開に憎まれ、讒言されて殺された。563年(3)参照。
 ⑶和士開...字は彦通。生年524、時に43歳。本姓は素和氏。幼い頃から聡明で、理解が非常に早く、国子学生に選ばれると学生たちから尊敬を受けた。握槊(双六の一種)・おべっか・琵琶が上手く、武成帝に非常に気に入られて世神(下界の神)と絶賛された。565年(1)参照。

┃和士開弾劾
 侍中・尚書右僕射の和士開上皇と昵懇の仲で、気軽に後宮に出入りし、胡太后と関係を持った。上皇が死ぬと、子の後主は父の顧託を受けた士開を非常に信任したので、その権勢はますます盛んとなった。
五年(569)2月、太尉の趙郡王叡が領軍〔・臨淮王〕の婁定遠らの力を借り、和士開の追放を企てた。
 後主胡太后は士開の策を聞き入れ、士開を兗州刺史とすると嘘をつき、油断を誘った。
 甲申(24日)、北斉が上皇の遺体を永平陵に埋葬し、廟号を世祖とした。
 埋葬が終わった数日後、叡は馮翊王潤・安徳王延宗らと共に後主と太后に上奏し、士開の出立を促した。すると太后は言った。
「士開は先帝のお気に入りで、身内も同然である。どうか百箇日(人が亡くなった時、家族は100日後に泣き悲しみから卒業する)が過ぎるまで待ってもらいたい。」
 叡は色をなして拒否した。その後数日間、太后は何度もこの言葉を持ち出して士開の出立を拒んだ。
 叡は定遠らに宮門を固めさせ、士開を皇宮内に入らせないようにした。
 すると士開は美女や玉すだれなど諸珍宝を持って定遠の屋敷に行き、「出立の前に一度だけ二宮(太后と後主)に暇乞いをしに行ってもいいでしょうか」と頼み込み、了承を得ると皇宮に入って太后と後主に会い、こう詔を下すよう言った。
『定遠を青州刺史とする。趙郡王は人臣の分際を超えた振る舞いが多いゆえ、参内して譴責を受けよ。』
 この月、叡は宮殿にて兵士に捕らえられ、劉桃枝に素手で首を締められて殺された(享年36)。

○北斉武成紀
 廟號世祖。五年二月甲申,葬於永平陵。
○北斉後主紀
 是月,殺太尉、趙郡王叡。
○北斉13趙郡王叡伝
 世祖崩,葬後數日,叡與馮翊王潤、安德王延宗及元文遙奏後主云:「和士開不宜仍居內任。」並入奏太后,因出士開為兗州刺史。太后曰:「士開舊經驅使,欲留過百日。」叡正色不許。數日之內,太后數以為言。…出至永巷,遇兵被執,送華林園,於雀離佛院令劉桃枝拉而殺之,時年三十六。大霧三日,朝野寃惜之。
○北斉15婁定遠伝
 武成大漸,與趙郡王等同受顧命,位司空。趙郡王之奏黜和士開,定遠與其謀,遂納士開賄賂,成趙郡之禍,其貪鄙如此。尋除瀛州刺史。
○北斉38元文遥伝
 至後主嗣位,趙郡王叡、婁定遠等謀出和士開,文遙亦參其議。叡見殺,文遙由是出為西兗州刺史。
○北斉50・北92和士開伝
 趙郡王叡與婁定遠〔、元文遙〕等謀出士開,引諸貴人(任城、馮翊二王及段韶、安吐根)共為計策。…太后及後主召見問士開,士開曰:「先帝羣官(臣)之中,待臣最重,陛下諒闇始爾,大臣皆有覬覦心,〔今〕若出臣,正是剪陛下羽翼。宜謂叡等云:『令士開(文遙與臣同是任用,豈得一去一留,並可以)為州〔且依舊出納,〕待過山陵,然後發遣。』叡等謂臣真出,必心喜之。」後主及太后然之,告叡等如士開旨,以士開為兗州刺史〔,文遙為西兗州刺史〕。山陵畢,叡等促士開就路。…士開載美女珠簾及條諸寶玩以詣定遠,…定遠〔大〕喜,…士開曰:「〕今日遠出,願得一辭覲二宮。」定遠許之。士開由是得見太后及後主,…士開曰:「臣已得入,復何所慮,正須數行詔書耳。」於是詔出定遠青州刺史,責趙郡王叡以不臣之罪,召入。
○南北史演義
 當下令婁定遠等,監住宮門,不準士開復入。

 ⑴胡太后…もと上后。魏の中書令・兗州刺史の胡延之の娘。母は范陽の盧道約の娘。550年に武成帝(上皇)に嫁いだ。568年(3)参照。
 ⑵後主…高緯。北斉の五代皇帝の後主。556~577。在位565~576。四代武成帝の長子。端正な顔立ちをしていて頭が良く、文学を愛好した。また、音楽が好きで、《無愁曲》という様式の曲を多数制作したため、『無愁天子』と呼ばれた。ただ、非常に内向的な性格で、口下手で人見知りが強く、自分の姿を見られるのを極端に嫌った。565年、父から位を譲られて皇帝となった。お気に入りの家臣や宦官を重用して政治を任せ、自らは遊興に耽って財政を逼迫させた。576年、北周の武帝が親政してくると自ら兵を率いて迎撃したが、すぐに臆病風に吹かれて遁走し、大敗のきっかけを作った。そののち晋陽でも敵前逃亡し、鄴に着くと幼子に帝位を譲って上皇となった。周軍が来ると再び逃亡し、間もなく青州にて捕らえられた。577年、山椒を口に詰め込まれて殺された。577年(4)参照。
 ⑶趙郡王叡…高歓の弟の子。生年534、時に36歳。身長七尺の美男子。幼くして父の処刑に遭い、歓に引き取られて育てられた。常に深夜まで勉学に励み、定州刺史とされると良牧の評価を受けた。のち、長城の建設の監督を命じられた。孝昭帝が亡くなると、遺託を受けて武成帝を迎えた。562年、尚書令とされた。突厥・北周連合軍が攻めてくると迎撃の総指揮を任された。564年に録尚書事、565年に司空、567年に大尉とされた。568年(3)参照。
 ⑷婁定遠…婁昭(上皇の母の同母弟)の次子。外戚の中でもっとも上皇に気に入られ、臨淮郡王とされ、若くして顕官を歴任した。567年、尚書左僕射とされた。領軍〔大将軍?〕として近衛兵を統領した。568年(3)参照。
 ⑸馮翊王潤...字は子沢。生年543、時に27歳。高歓の第十四子で、上皇(武成帝)の異母弟。母は鄭大車。美男子。歓に「我が家の千里の駒」と評された。14、5歳になるまで母と一緒に眠り、けじめの無さを非難されたが、長じると生真面目で慎み深く、政治に明るい青年に育った。東北道行台・兼尚書左僕射・定州刺史とされると、不正を厳しく取り締まった。のち、更に都督定瀛幽南北営安平東燕八州諸軍事を加えられた。武成帝に信頼され、河陽行台尚書令とされ、566年に太尉、567年に大司馬とされた。567年(2)参照。
 ⑹劉桃枝…高歓の時からいる高家の家奴。声相見から、『非常に富貴な身分となるが、多くの王侯将相を殺すだろう』と予言された。のち、その予言通りに永安王浚・上党王渙・高徳政・平秦王帰彦・趙郡王叡・胡長仁・琅邪王儼・斛律光の殺害に関わった。572年(4)参照。

┃琅邪王、宮城に迫る

武平二年(571)7月、庚午(25日)、北斉の琅邪王儼が鄴にて挙兵し、権臣の和士開を殺害した。儼の目的はただ士開を殺すことだけにあり、事が成ると兄の後主のもとに出頭して謝罪しようとした。しかし、部下たちは誅殺を恐れ、儼に「皇宮に突入し、君側の奸を除いて陛下の目を醒まさせてから謝罪するよう」求めた。かくて儼は京畿の兵三千余人を率い、宮殿の西北角にある千秋門に進んだ。〕
 この時、広寧王孝珩安徳王延宗がたまたま西方よりやって来た。二人は儼の一挙に助勢しようとしてこう言った。
「どうして宮城に突入しないのか?」
 中常侍の劉辟強は言った。
「兵が少ないからです。」
 延宗は兵を顧みてこう言った。
孝昭帝楊遵彦を誅殺なさった時[→560年⑵参照]、その兵は八十人だけだった。今、貴君らの兵は数千もいる。これでどうして少ないなどというのか?」
 しかし、儼はとうとう突入を決断することができなかった。孝珩はそこで延宗にこう言った。
「この者たちと心中する必要は無いだろう。」
 かくてその場を去った→571年⑵参照

9月、己未(14日)、北斉の名将の段韶が逝去した。
 武平三年(572)、丙辰(14日)、北周の武帝が権臣の晋公護を誅殺し、親政を開始した。
 7月、戊辰(28日)、北斉の名将の斛律光劉桃枝に弓の絃で絞め殺された。〕

○北斉12琅邪王儼伝
 儼徒本意唯殺士開,及是,因逼儼曰:「事既然,不可中止。」儼遂率京畿軍士三千餘人屯千秋門。…廣寧、安德二王適從西來,欲助成其事,曰:「何不入?」辟疆曰:「人少。」安德王顧眾而言曰:「孝昭帝殺楊遵彥,止八十人,今乃數千,何言人少?」
○北史演義
 儼本意唯殺士開,入朝謝罪。其黨懼誅,共逼之曰:「事已如是,不可中止,宜引兵入宮,先清君側之惡,然後圖之。」…儼不能決。孝珩謂延宗曰:「此未可與同死。」遂去之。

 ⑴琅邪王儼…字は仁威。558~571。後主の同母弟。母は胡太后。564年に東平王とされた。567年、司徒とされた。上皇と胡太后に可愛がられ、京畿大都督・領軍大将軍・御史中丞も兼任した。勝ち気な性格をしていて、喉の持病(ぜんそく?)を治すために鍼(はり)治療をしてもらった時、痛みを我慢し、目を見開いて一度も瞬きをしなかった。上皇と胡太后は後主を廃して儼を立てようと考えたが、結局実行しなかった。568年に大将軍とされ、569年に琅邪王・大司馬とされた。571年、太保とされた。のち挙兵して和士開を討ち、宮城に迫ったが鎮圧された。間もなく劉桃枝に締め殺された。571年(3)参照。
 ⑵広寧王孝珩…高澄(高歓の長子)の第二子。後主の従兄。母は王氏。読書家で文章を書くことを趣味とし、絵画の才能は超一流だった。568年に尚書令→録尚書事とされた。570年に司空→司徒とされた。のち、徐州行台とされた。571年、録尚書事→司徒とされた。572年、大将軍とされた。のち大司馬とされた。後主が晋陽から鄴に逃亡する際、これに随行した。577年、太宰とされた。高阿那肱の殺害を図ったが空振りに終わった。後主に危険視され、北周迎撃軍の指揮権を求めても拒否され、滄州刺史に左遷された。577年(1)参照。
 ⑶晋蕩公護伝には『三月十八日』とある。今は周武帝紀の記述に従った。
 ⑷武帝…宇文邕。543~578(在位560~578)。北周の三代皇帝。宇文泰の第四子。母は叱奴氏。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いたが、実権は従兄の晋公護に握られた。572年、自ら護を誅殺して親政を開始した。富国強兵に勤しみ、575年に北斉に親征したが、苦戦と発病により撤退した。576年、再び親征して晋州を陥とし、後主率いる援軍も大破し、晋陽を陥とした。577年、鄴も陥とし、青州にて後主を捕らえて北斉を滅ぼした。578年、突厥親征を目前にして死去した。578年(2)参照。

┃叙任
武平三年(572)8月、庚寅(21日)、北斉が安徳王延宗を司徒とした。
四年(573)4月戊申(13日)、北斉が司徒の安徳王延宗を太尉とした。


○北斉後主紀
 八月庚寅,…安德王延宗為司徒。…夏四月戊午,…安德王延宗為太尉。
○北斉11安徳王延宗伝
 後歷司徒、太尉。

 ⑴庚寅…通鑑では庚午(2日)。

┃蘭陵王の死
 武平四年(573)、5月、弟で太保の蘭陵王長恭が死を賜った。
 長恭が死んだのち、妃の鄭氏は頸珠(ネックレス)を寺に布施しようとした。〔長恭の兄の〕広寧王孝珩がこれを買おうとすると(芸術品に目が無かった?)、〔長恭の弟の〕安徳王延宗は自ら手紙を書いて諫めた。その手紙は涙で濡れそぼっていた。

10月、辛丑(9日)、漢人の党である文林党が一掃された。
 乙巳(13日)、陳の北伐により揚州(寿陽)が陥落した。〕

○北斉後主紀
 是月,殺太保、蘭陵王長恭。
○北斉11安徳王延宗伝
 及蘭陵死,妃鄭氏以頸珠施佛。廣寧王使贖之。延宗手書以諫,而淚滿紙。
○蘭陵忠武王碑
 五言、王、第五弟太尉公安德王経墓興感:夜台長自寂,泉門無復明。独有魚山樹,鬱鬱向西傾。睹物令人感,目極使魂驚。望碑遥堕泪,墓転傷情。軒丘終見毁,千秋空建名。

┃平陽の決戦

武平六年(575)、7月、壬午(30日)、北周の武帝自ら六軍の兵六万を率い、河陰に直進した。
 9月、辛酉(9日)、帝は病気になったこともあり、撤退した。

 武平七年(576)、10月、北周の武帝が再度東伐に赴き、晋州城(平陽)を陥とした。
 北斉の後主が自ら十万の兵を率いて晋州に迫った。
 帝は一時退却してその鋭鋒を避けることに決め、梁士彦に晋州を任せて撤退した。
 11月後主が平陽に猛攻を仕掛けたが、士彦の激しい抵抗に遭い、長期戦となった。
 武帝が再度長安を出立し、晋州の救援に向かった。〕

 12月、庚戌(6日)武帝率いる北周軍と後主率いる北斉軍が平陽の南にて激突した。
 後主馮淑妃と轡を並べてこれを観戦した。
 戦いが始まると、〔北斉の太尉の〕安徳王延宗が麾下の兵を率いて突入し、次々と周軍を撃破した。延宗は決戦の前にも右軍を率いて戦い、平陽城下にて北周の開府の宗挺を捕らえる戦功を立てていた。
 間もなく、北斉の東翼(左軍)がやや押され気味になり、大きく後退する者も現れた。淑妃はこれを見るやいなや恐怖してこう言った。
「我が軍が負けました!」
 城陽王の穆提婆もこう言った。
「大家(陛下)、お逃げなされ! 大家、お逃げなされ!」
 後主はそこで即座に淑妃と麾下の数十騎を連れて晋陽に遁走した。
 ここにおいて北斉軍は総崩れになった。ただ、安徳王延宗だけは麾下の兵に被害を出さずに帰った[1]。延宗は太っていて人々の笑いものになっていたが、〔戦う時になると〕かっと奮い立ち、並外れた気力を発揮して、まるで飛んでいるかのような敏捷さを示した。
 延宗は後主にこう言った。
「大家は本陣から動かないでください。そして兵の指揮権を臣にお与えください。さすれば、臣はきっと賊を破ってみせます。」
 帝は聞き入れなかった[→576年⑷参照]。

○周武帝紀・冊符元亀117
 申後,齊人填塹南引。帝大喜,勒諸軍擊之,〔兵纔合,〕齊人便退。〔帝逐北,斬首萬有餘級。〕齊主與其麾下數十騎走還幷州。〔於是〕齊眾大潰,軍資甲仗,數百里間,委棄山積。
○北斉後主紀
 庚戌,戰於城南,我軍大敗。帝棄軍先還。
○周12斉煬王憲伝
 既而諸軍俱進,應時大潰。其夜,齊主遁走。
○北14馮淑妃伝
 仍與之並騎觀戰,東偏少却,淑妃怖曰:「軍敗矣!」帝遂以淑妃奔還。
○北斉11安徳王延宗伝
 及平陽之役,後主自禦之,命延宗率右軍先戰,城下擒周開府宗挺。及大戰,延宗以麾下再入周軍,莫不披靡。諸軍敗,延宗獨全軍。後主將奔晉陽,延宗言:「大家但在營莫動,以兵馬付臣,臣能破之。」帝不納。…延宗容貌充壯,坐則仰,偃則伏,人〔皆〕笑之,乃(及是,)赫然奮發。氣力絕異,馳騁行陣,勁捷若飛。
○北斉50・北92高阿那肱伝
〔後主從穆〕提婆觀戰,東偏頗有退者,提婆去(怖)曰:「大家去!大家去!」帝以淑妃奔高梁關。…帝遂北馳。

 ⑴馮淑妃…名は小憐。もと穆后の侍女。后によって五月五日に帝に進上され、この経緯から『続命』と呼ばれた。聡明で琵琶や歌舞が上手だったため、帝に非常に気に入られて淑妃とされ、常にその傍に侍った。576年(3)参照。
 ⑵穆提婆…もと駱提婆。先祖の姓は他駱抜で、父は駱超、母は陸令萱。父が謀反の罪で誅殺されると官奴とされたが、母が胡太后に取り入って出世すると幼い後主の遊び相手とされ、非常に気に入られた。のち、義妹の弘徳夫人が穆姓を与えられると、自分も姓を穆に改めた。寵用をいいことに身分不相応の贅沢をして琅邪王儼に睨まれ、そのクーデターの際に目標の一人とされた。政治に全く無関心だったが、性格は温厚で、人を傷つけるような事はしなかったので、その点は評価された。573年、左僕射とされた。574年、婁定遠を讒言して死に追い込んだ。575年(1)参照。
 [1]延宗は軍が総崩れになっても良く部下の統率を維持できる得難き才能の持ち主であった。ただ、惜しいことに、もはや天下の大勢は決しており、一人の有能な人材がいてもどうにもならなかったのである。


┃臆病天子
 癸丑(12月9日)後主が晋陽に帰った。帝は憂いと恐れの余り、周章狼狽して為す所を知らなかった。
 甲寅(10日)、大赦を行なった。帝は朝臣にこう諮って言った。
「周軍は非常に強盛である。一体どう対処すればよいか?」
 群臣はみな口を揃えてこう言った。
「天はまだ斉を見捨ててはおりません。古来より、どの国家でも勝つ事もあれば負ける事もございました。〔今もし〕税を全て一時停止して官民の心を摑み、残兵を収容して、城を背にして力を尽くして戦えば、国家を存続させることができるでしょう。」
 しかし、帝は周軍と戦うことを恐れ、〔太尉の〕安徳王延宗と〔大司馬の?〕広寧王孝珩らに晋陽の防衛を任せ、自分は北朔州(馬邑。明の大同府の西南二百八十里)に逃げて、晋陽が陥落したら即座に突厥に亡命しようと考えた。群臣はみな反対したが、帝は聞かなかった。
 乙卯(11日)、募兵の詔を下し、安徳王延宗を左広、広寧王孝珩を右広とした。延宗がやってくると、帝は北朔州に避難することを告げた。延宗は泣いて諫めたが、帝は聞き入れず、密かに胡太后太子恒を先に北朔州に送らせた。

 丁巳(13日)、周軍〔の前軍〕が晋陽に到った。
 この日、後主は再び大赦を行ない、年号を武平から隆化に改めた。
 また、安徳王延宗を相国・并州刺史・総山西兵事とし、こう言った。
「并州は阿兄(兄さん。延宗は後主の従兄)が治めてくれ。児()は逃げる!」
 この日の夜、帝は五龍門から撃って出て突厥領に向かおうとしたが、従者の多くが〔帝を見捨てて〕逃げ散った。領軍の梅勝郎高歓時代からの家奴)が帝の馬を叩いて諫めると、帝は考えを変えて鄴に向かった。〔広寧王孝珩はこれに付き従った。〕

○北斉後主紀
 癸丑,入晉陽,憂懼不知所之。甲寅,大赦。帝謂朝臣曰:「周師甚盛,若何?」羣臣咸曰:「天命未改,一得一失,自古皆然。宜停百賦,安慰朝野,收拾遺兵,背城死戰,以存社稷。」帝意猶豫,欲向北朔州。乃留安德王延宗、廣寧王孝珩等守晉陽。若晉陽不守,即欲奔突厥。羣臣皆曰不可,帝不從其言。…乙卯,詔募兵,遣安德王延宗為左〔廣〕,廣寧王孝珩為右〔廣〕。延宗入見,帝告欲向北朔州。延宗泣諫,不從。帝密遣王康德與中人齊紹等送皇太后、皇太子於北朔州。丙辰,帝幸城南軍,勞將士,其夜欲遁,諸將不從。丁巳,大赦,改武平七年為隆化元年。其日,穆提婆降周。詔除安德王延宗為相國,委以備禦,延宗流涕受命。帝乃夜斬五龍門而出,欲走突厥,從官多散,領軍梅勝郎叩馬諫,乃廻之鄴。
○北斉11安徳王延宗伝
 及至并州,又聞周軍已入雀鼠谷,乃以延宗為相國、并州刺史,總山西兵事。謂曰:「并州,阿兄自取,兒今去也。」…後主竟奔鄴。

 ⑴左・右広…親衛隊の左右長官。《春秋左氏伝》宣公十二年に曰く『楚子の親衛隊は左広・右広の戦車隊から成る。一広は三十輌の戦車から成る。右広は早朝になると馬を戦車に繋ぎ、正午に外す。次いで左広が正午から馬を戦車に繋ぎ、日没に外した。右広の指揮車は許偃が御し、養由基がその車右を務めた。左広の指揮車は彭名が御し、屈蕩が車右を務めた。乙卯の日、王は左広の指揮車に乗った。』《北斉書》では単に『左・右』としか書かれていない。山西と山東の募兵を任せたともとれる。


 安徳王延宗伝⑵に続く