[北周:建徳五年 北斉:武平七年→隆化元年 陳:太建八年 後梁:天保十四年]

●再出陣

 癸巳(11月18日)、北周の武帝が長安に帰り、太廟にて献俘の礼(捕虜の代表を太廟に目通りさせる儀式)を行なった。
 甲午(19日)、詔を下して言った。
「偽斉は盟約を違えるなど、罪悪が限度に達していたため、朕自ら六軍を率い、汾・晋の地を征伐した。すると軍の赴く所、みな勝たざるは無く、賊軍は身の危険を感じて拠点に閉じ籠もった。しかし、我が軍が帰還すると、偽斉は性懲りもなく再び兵を集め、国境の地に蠢動するに至った。朕はそこで今、改めて諸軍を率い、これを根本から討ち滅ぼすことにした。」
 丙申(21日)、北斉の諸城鎮から投降してきた者を帰還させた(北斉の油断を誘うため?[1]
 丁酉(22日)、帝が長安を発った[2]

 この日、陳が江州(柴桑湓城)から晋熙・高唐・新蔡の三郡を割いて晋州を置いた。


 辛丑(26日)、冠軍将軍の廬陵王伯仁を中領軍とした。


 壬寅(27日)武帝が黄河を渡り、諸軍と合流した。
 12月、丁未(3日)、帝が八万の大軍を率いて高顕に到った。この時、斉王憲を先に平陽に向かわせた。
 戊申(4日)、帝が平陽に到った。

○資治通鑑
 癸巳,周主還長安。甲午,復下詔,以齊人圍晉州,更帥諸軍擊之。丙申,縱齊降人使還【縱之使還,齊師知周師將復至而懼,亦以堅晉州守者之心】。丁酉,周主發長安【還長安僅三日,復出師,明引歸者,欲使齊師疲於攻平陽而後取之】。壬寅,濟河,與諸軍合。十二月丁未,周主至高顯【高顯蓋近涑川】。遣齊王帥所部先向平陽。戊申,周主至平陽。
○周武帝紀
 癸巳,至自東伐。獻俘於太廟。甲午,詔曰:「偽齊違信背約,惡稔禍盈,是以親總六師,問罪汾、晉。兵威所及,莫不摧殄,賊眾危惶,烏栖自固。暨元戎反斾,方來聚結,遊魂境首,尚敢趦趄。朕今更率諸軍,應機除剪。」丙申,放齊諸城鎮降人還。丁酉,帝發京師。壬寅,度河,與諸軍合。十二月戊申,次於晉州。
○北斉後主紀
 十二月戊申,周武帝來救晉州。
○陳宣帝紀
 冬十一月…丁酉,分江州晉熙、高唐、新蔡三郡為晉州。辛丑,以冠軍將軍廬陵王伯仁為中領軍。
○周12斉煬王憲伝
 尋而高祖東轅,次于高顯,憲率所部,先向晉州。明日,諸軍總集,稍逼城下。

 ⑴武帝…宇文邕。北周の三代皇帝。在位560~。生年543、時に34歳。宇文泰の第四子。母は叱奴氏。聡明・沈着で将来を見通す識見を持ち、泰に「我が志を達成してくれる者」と評された。文学を愛好した。560年、帝位に即いたが、実権は従兄の晋公護に握られた。572年、自ら護を誅殺して親政を開始した。富国強兵に勤しみ、575年に北斉に親征したが、苦戦と発病により撤退した。今年、再び親征した。576年(3)参照。
 [1]投降者を北斉に送還した…投降者に北周軍が再びやってくることを知らせる事により、北斉軍には恐懼を、晋州の守兵には勇気を与えることができたのである。
 [2]武帝はたった三日しか長安に滞在しなかった。ここから、撤退は計画的なもので、北斉軍が平陽攻めで疲労した所を万全の状態な軍で撃つという目論見のもとで為された事が分かる。
 ⑵廬陵王伯仁…字は寿之。文帝(宣帝の兄)の第八子。母は王充華。565年に廬陵王とされた。565年(2)参照。
 ⑶高顕…《読史方輿紀要》曰く、『平陽府の西南三百四十里→解州の東北百里→夏県の北にある。夏県の西四十里に涑水がある。
 ⑷斉王憲…字は毗賀突。生年544、時に33歳。宇文泰の第五子。武帝の異母弟。母は達步干妃。幼い頃、武帝と一緒に李賢の家で育てられた。宇文泰が子どもたちに好きな良馬を選ばせて与えた時、ひとり駁馬を選び、泰に「この子は頭がいい。きっと大成するぞ」と評された。559~562年に益州刺史とされると真摯に政務に取り組んで人心を掴んだ。564年、雍州牧とされた。洛陽攻めの際は包囲が破られたのちも踏みとどまって戦いを続けたが、達奚武に説得されやむなく撤退した。晋公護に信任され、賞罰の決定に関わることを常に許された。568年、大司馬・治小冢宰とされた。569~570年、宜陽の攻略に赴いた。571年、汾北にて北斉と戦った。護が誅殺されたのちも武帝に用いられたが、兵権は奪われて大冢宰とされた。兵法書の要点をまとめ、《兵法要略》を著した。575年の東伐の際には先行して武済などを陥とした。のち上柱国とされた。576年の東伐の際にも前軍を任され永安などを陥とした。武帝が一時撤退する際、殿軍を務めた。576年(3)参照。

●両軍対峙

 これより前、北斉軍は平陽城南の喬山から汾水に至る地帯に塹壕を堀り、北周軍の襲来に備えていた。
 庚戌(12月6日)武帝率いる北周軍が塹壕の手前に到り、東西二十余里に陣を布いた。後主は塹壕の北に陣を布いた。
 帝は斉王憲に偵察に行かせた。憲は帰ってくるとこう言った。
「朝飯前の敵であります。これを撃破してから食事を摂りましょう。」
 帝は喜んで言った。
「お前の言う通りであれば、何の心配もない。」
 憲が退出したのち、内史の柳虯西魏の秘書監の柳虯とは別人)が密かに憲にこう言った。
「賊は小勢でないのに、何故軽んじられるのですか?」
 憲は言った。
「私は〔陛下の臣であり弟であり、〕国と運命を共にすべき間柄であ〔り、闘志は誰よりも高い〕。その私が先鋒を仰せつかった以上、賊徒の掃討など朽ち木を砕くように容易い事である。それに、商・周の事(牧野の戦いの事)は公もよく知っているはず。賊軍がいくら多勢であろうと、我が軍をどうすることもできないだろう。」

 帝は着陣後、常に御馬(皇帝用の馬)に乗り、数人のみを従えて各陣地の様子を見て回り、行く先々で部隊長の姓名を呼んで労苦を労い、励ました。将兵たちは帝が下々の者にまで目をかけてくれていることを知り、感激して奮い立った。
 戦いの直前、帝は担当官に馬を替えるように言われると(平時は脚が遅くても気性が穏やかな馬に乗り、戦時は逃走できるように荒々しくても脚の速い馬に乗る)、こう言って断った。
「朕一人だけが良馬に乗って〔逃れられたとしても、〕一体どこに身の寄せ場があると言うのか?」

 帝は北斉軍と決戦しようとしたが、塹壕の突破方法が見いだせず、攻撃をかけることができなかった。かくて早朝から申の時(午後四時頃)まで睨み合いが続いた。

 後主は〔右丞相・并州刺史・淮陰王の〕高阿那肱にこう尋ねて言った。
「戦うのが良いか? 戦わないのが良いか?」
 阿那肱は答えて言った。
「我が軍は大軍ではありますが、傷病者や包囲に当たる者、炊事に当たる者たちが三分の一を占めており、満足に戦える者は十万以下しかおりません。それに、昔、神武帝高歓)陛下が玉壁をお攻めになった際(546年)、敵の援軍が来たと知るや即座に退却なさったものでしたが、今日の将兵たちは、果たして神武帝陛下の時の将兵たちよりも優れているでしょうか? ここは決戦をせず、高梁橋(平陽の東北三十七里)に退いて守りを固めた方が良いと思います。」
 この時、〔開府の〕安吐根が言った。
「虫けらの如き賊など、瞬殺して汾水に投げ捨てるだけであります!」[1]
 帝が決めかねていると、内参(宦官)たちがこう言った。
「彼の軍の大将も天子、我が軍の大将も天子であります。〔正々堂々と戦わなければなりません。それに、〕彼が遠方より来て疲労しているというのに、我らが堀の中に引きこもったりなどすれば、敵に弱みを示すことになります!」
 帝は言った。
「もっともである。」
 かくて申の時(午後四時頃)に堀に橋を架けて(或いは埋め立てて)南進を開始した。この時、内参に阿那肱を責めさせて言った。
「富貴の身となったから、命が惜しくなったのか!」

○周武帝紀・冊符元亀117
 初,齊攻晉州,恐王師卒至,於城南穿塹,自喬山屬於汾水。庚戌,帝帥諸軍八萬人,置陣東西二十餘里。帝乘常御馬,從數人巡陣處分,所至輒呼主帥姓名以慰勉之。將士感見知之恩,各思自厲。將戰,有司請換馬。帝曰:「朕獨乘良馬何所之?」齊主亦於塹北列陣。〔帝欲薄之,以礙塹遂止。自旦至申,相持不決。〕申後,齊人填塹南引。
○周12斉煬王憲伝
 明日,諸軍總集,稍逼城下。齊人亦大出兵,陣於營南。高祖召憲馳往觀之。憲返命曰:「是易與耳,請破之而後食。」帝悅曰:「如汝所言,吾無憂矣。」憲退,內史柳虯私謂憲曰:「賊亦不少,王安得輕之?」憲曰:「憲受委前鋒,情兼家國,掃此逋寇,事等摧枯。商周之事,公所知也,賊兵雖眾,其如我何。」
○北斉50・北92高阿那肱伝
〔後主至平陽城下,〕後主謂肱曰:「戰是耶,不戰是耶?」肱曰:「〔兵雖多,堪戰者不過十萬,病傷及繞城火頭,三分除一。昔攻玉壁,援軍來,即退。今日將士豈勝神武皇帝時?〕勿戰,卻守高梁橋。」安吐根曰:「一把子賊,馬上刺取擲著汾河中。」帝意未決。諸內參曰:「彼亦天子,我亦天子,彼尚能遠來,我何為守壍示弱?」帝曰:「此言是也。」於是〔橋壍〕漸進。〔使內參讓阿那肱曰:「爾富貴足,惜性命邪!」

 ⑴喬山…《読史方輿紀要》曰く、『曲沃県の西北四十五里にある。山の高さは五里で、周長は二十余里あり、襄陵県の境界と接する。その山容は急峻である。西の麓に夢感泉がある。東に蒙坑と接する。
 ⑵後主…高緯。北斉の五代皇帝。在位565~。生年556、時に21歳。四代武成帝の長子。端正な顔立ちをしていて頭が良く、文学を愛好した。また、音楽が好きで、《無愁曲》という様式の曲を多数制作したため、『無愁天子』と呼ばれた。ただ、非常に内向的な性格で、口下手で人見知りが強く、自分の姿を見られるのを極端に嫌った。565年、父から位を譲られて皇帝となった。571年、淫乱な母の胡太后を北宮に幽閉した。お気に入りの家臣や宦官を重用して政治を任せ、自らは遊興に耽って財政を逼迫させた。576年(3)参照。
 ⑶牧野の戦い…周の武王が殷の紂王を伐った戦い。この時、殷は70万の大軍を擁し、周軍よりも多勢だったが、将兵が暴君の紂王のために戦うことを願わなかったため敗れたという。
 ⑷高阿那肱…もとの姓は是樓?で、晋州刺史・常山郡公の高市貴の子。口数少なく、無闇に怒らず、人を陥れるような事をしなかった。騎射と追従を得意とした。550年に庫直都督とされ、契丹・柔然討伐では迅速な行軍ぶりを示した。柔然討伐では寡兵を以て柔然の退路を遮断し、見事大破した。武成帝(上皇)と和士開に大いに気に入られ、565年に開府・侍中・領軍・并省右僕射とされ、『八貴』の一人となった。侍衛を任された関係で、後主にも大いに気に入られた。570年、并省尚書左僕射・淮陰王とされた。のち并省尚書令・領軍大将軍・并州刺史とされ、573年、録尚書事→司徒→右丞相とされ、録尚書事と并州刺史を兼ね、韓長鸞・穆提婆と共に『三貴』と呼ばれた。575年に北周が洛陽に攻めてくると救援に赴いた。576年に北周が晋州に攻めてくると救援軍の先鋒を任された。576年(3)参照。
 ⑸546年に西魏軍が玉壁に救援に赴いたという記述は無い。撤退は苦戦と高歓の発病によるものとされる。
 ⑹安吐根…安息(パルティア)人で、曽祖父の代に入国し、酒泉に居住するようになった。北魏末に柔然に派遣された際、抑留された。天平の初め(534)に正使として東魏に赴いた際、柔然が侵攻を企んでいることを高歓に伝え、気に入られた。物腰が柔らかく、応対が非常に上手だったので、何度も東魏に使者に赴いては歓から手厚くもてなされた。 のち讒言に遭って身の危険を感じ、東魏に亡命した。高澄の代に涼州刺史・率義侯とされ、皇建年間(560~561)に開府とされた。545年(1)参照。
 [1]敵の事を良く調べもせず、これを軽んじて大言をする者は、古来よりみな敗北を喫した。

●決戦


 武帝は北斉軍が出撃してくるのを見ると大いに喜び、諸軍を率いてこれを擊った。
 後主馮淑妃と轡を並べてこれを観戦した。
 戦いが始まると、〔北斉の太尉の〕安徳王延宗が麾下の兵を率いて突入し、次々と周軍を撃破した。延宗は決戦の前にも右軍を率いて戦い、平陽城下にて北周の開府の宗挺を捕らえる戦功を立てていた。
 北周の柱国・隨国公の普六茹堅楊堅は北斉軍と戦おうとしたが、幕僚の陳茂はその強盛さを見て戦うべきでないと考え、強く制止した。堅が耳を貸さずに行こうとすると、茂はクツワを引っ張って無理矢理止めた。堅が怒ってその額を切り、茂の顔には血が流れたが、茂の語気が弱まることは無かった。堅はその意気に感じ入って謝罪し、以後手厚く待遇するようになった。
 茂は河東猗氏の人で、寒門の出身だったが、実直・謙虚な人柄によって地元で尊敬を受けるようになった。堅が隋国公となるとその幕僚とされ、李円通堅の小間使いで参軍事)らと同じ待遇を受けた。堅の家の家事を取り仕切り、その間一度も堅の期待に反するような事をしなかったため、堅に気に入られた。


 間もなく、北斉の東翼(左軍)がやや押され気味になり、大きく後退する者も現れた。淑妃はこれを見るやいなや恐怖してこう言った。
「我が軍が負けました!」
 城陽王の穆提婆もこう言った。
「大家(陛下)、お逃げなされ! 大家、お逃げなされ!」
 後主はそこで即座に淑妃と共に高梁橋に遁走した。この時、開府儀同三司の奚長楽が諫めて言った。
「軍団の一方が進んで一方が退がるというのは、戦いではいつも起こることです。現に今、我が軍は全く整然としており、損害は出ていません。陛下はこれを捨ててどこに行こうとされるのですか﹗ 陛下が一たび動くだけで、将兵の心は大いに乱れ、再起不能になってしまいます。どうか早く軍のもとにお帰りになって、将兵の心を落ち着かせられますよう!」
 武衛将軍の張常山も追いついてきてこう言った。
「軍は間もなく態勢を立て直します。城を包囲している兵たちも動揺しておりません。至尊(後主)よ、お戻りください! 臣の言葉が信じれないのであれば、内参の者に戦場の様子を確認させに行かせてください! それならお信じになられるはずです!」
 帝はこれを聞き入れようとしたが、その時、提婆が帝の肘を引っ張ってこう言った。
「こやつの言葉は信用できません!」
 帝はそこで遂に淑妃と麾下の数十騎を連れて晋陽に逃走した。
 ここにおいて北斉軍は総崩れになり、数百里の間に武器鎧や軍需物資を山のごとく打ち捨てた。稽胡族は火事場泥棒的にこれらを全て我が物とした。北周軍は北斉軍を追撃して一万余の首級を獲た。
 ただ、安徳王延宗だけは麾下の兵に被害を出さずに帰った[1]
 延宗は後主にこう言った。
「大家は本陣から動かないでください。そして兵の指揮権を臣にお与えください。さすれば、臣はきっと賊を破ってみせます。」
 帝はこれを聞き入れなかった。

 後主が洪洞戍(平陽の北五十五里→洪洞県の北六里)に到った時、馮淑妃は鏡を出して化粧を楽しみ始めた。間もなく突然後方から騒音がして周軍がやってきたとの報を受けると、淑妃は慌てて帝と共にまた逃走した。
 これより前、帝は淑妃を左皇后に立てようと考えていたが、〔臣下の反対を心配して実行することができなかった。のち、帝は〕平陽奪還が成功した時に、淑妃の貢献があったとすることで、臣下の賛同を得て淑妃を即座に左皇后に立てようと考えた。そこで、平陽に赴く道中で宦官を晋陽に遣わし、前もって褘翟などの皇后用の衣服を取りに行かせていた。
 現在、宦官が衣服を持ってやってくると、帝は馬を止め、淑妃にこれを着させた。それから再び逃走を開始した。

○資治通鑑
 開府儀同三司奚長諫曰:「半進半退,戰之常體。今兵衆全整,未有虧傷,陛下捨此安之!馬足一動,人情駭亂,不可復振。願速還安慰之!」
 …遣內參詣晉陽取皇后服御褘翟等。
○周武帝紀・冊符元亀117
 申後,齊人填塹南引。帝大喜,勒諸軍擊之,〔兵纔合,〕齊人便退。〔帝逐北,斬首萬有餘級。〕齊主與其麾下數十騎走還幷州。〔於是〕齊眾大潰,軍資甲仗,數百里間,委棄山積。
○北斉後主紀
 庚戌,戰於城南,我軍大敗。帝棄軍先還。
○周12斉煬王憲伝
 既而諸軍俱進,應時大潰。其夜,齊主遁走。
○周49稽胡伝
 建德五年,高祖敗齊師於晉州,乘勝逐北,齊人所棄甲仗,未暇收歛,稽胡乘閒竊出,竝盜而有之。
○北14馮淑妃伝
 稱妃有功勳,將立為左皇后,即令使馳取褘翟等皇后服御。仍與之並騎觀戰,東偏少却,淑妃怖曰:「軍敗矣!」帝遂以淑妃奔還。至洪洞戍,淑妃方以粉鏡自玩,後聲亂唱賊至,於是復走。內參自晉陽以皇后衣至,帝為按轡,命淑妃著之,然後去。
○北斉11安徳王延宗伝
 及平陽之役,後主自禦之,命延宗率右軍先戰,城下擒周開府宗挺。及大戰,延宗以麾下再入周軍,莫不披靡。諸軍敗,延宗獨全軍。後主將奔晉陽,延宗言:「大家但在營莫動,以兵馬付臣,臣能破之。」帝不納。
○北斉50・北92高阿那肱伝
〔後主從穆〕提婆觀戰,東偏頗有退者,提婆去(怖)曰:「大家去!大家去!」帝以淑妃奔高梁關。開府奚長〔樂〕諫曰:「半進半退,戰〔家〕之常體,今兵眾全整,未有傷敗,陛下舍此安之?御馬一動,人情驚亂,且(願)速還安慰之。」武衞張常山自後至,亦曰:「軍尋收回(),甚整頓,圍城兵亦不動,至尊宜迴,不信臣言,乞將內參往視。」帝將從之。提婆引帝肘曰:「此言難信(何可信)。」帝遂北馳。
○隋64陳茂伝
 陳茂,河東猗氏人也。家世寒微,質直恭謹,為州里所敬。高祖為隋國公,引為僚佐,遇待與圓通等。每令典家事,未嘗不稱旨,高祖善之。後從高祖與齊師戰於晉州,賊甚盛,高祖將挑戰,茂固止不得,因捉馬鞚。高祖忿之,拔刀斫其額,流血被面,詞氣不撓。高祖感而謝之,厚加禮敬。

 ⑴馮淑妃…名は小憐。もと穆后の侍女。后によって五月五日に帝に進上され、この経緯から『続命』と呼ばれた。聡明で琵琶や歌舞が上手だったため、帝に非常に気に入られて淑妃とされ、常にその傍に侍った。576年(3)参照。
 ⑵安徳王延宗…生年544、時に33歳。高澄(高歓の長子)の第五子。後主の従兄。母はもと東魏の広陽王〔湛?〕の芸妓の陳氏。幼少の頃から文宣帝に養育され、「この世で可憐と言える者は、この子だけだ」と言われるほど可愛がられた。帝に何王になりたいか問われると「衝天王になりたい」と答えたが、衝天という郡名は無いという理由で結局安徳王とされた。定州刺史となると部下や囚人に狼藉を働き、孝昭帝や武成帝(上皇)に鞭打たれた。側近の者九人が罰として殺されると、以後、行ないを慎むようになったが、兄の孝琬が上皇に誅殺されると憤激し、上皇に擬した藁人形を作ってこれに矢を射、上皇の怒りを買って半殺しにされた。572年、司徒とされた。573年、太尉とされた。573年(3)参照。
 ⑶普六茹堅(楊堅)…幼名は那羅延。生年541、時に36歳。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。落ち着いていて威厳があった。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇に嫁いだ。去年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。今年の討伐の際、右三軍総管とされた。576年(2)参照。
 ⑷穆提婆…もと駱提婆。先祖の姓は他駱抜で、父は駱超、母は陸令萱。父が謀反の罪で誅殺されると官奴とされたが、母が胡太后に取り入って出世すると幼い後主の遊び相手とされ、非常に気に入られた。のち、義妹の弘徳夫人が穆姓を与えられると、自分も姓を穆に改めた。寵用をいいことに身分不相応の贅沢をして琅邪王儼に睨まれ、そのクーデターの際に目標の一人とされた。政治に全く無関心だったが、性格は温厚で、人を傷つけるような事はしなかったので、その点は評価された。573年、左僕射とされた。574年、婁定遠を讒言して死に追い込んだ。575年(1)参照。
 [1]延宗は軍が総崩れになっても良く部下の統率を維持できる得難き才能の持ち主であった。ただ、惜しいことに、もはや天下の大勢は決しており、一人の有能な人材がいてもどうにもならなかったのである。

●追撃に決す

 辛亥(12月7日)武帝が平陽に入った。守将の梁士彦は帝に会うと、帝の髭を撫でて泣きながらこう言った。
「もう陛下に会えないかと思っておりました!」
 帝もまた涙を流した。

 帝はこの時、将兵の疲労を理由に長安に帰ろうと考えていた。すると士彦は帝の乗馬を叩き、こう諫めて言った。
「今、斉軍が大敗を喫した事で、斉の人心は動揺しております。その動揺に付け入って攻めこめば、必ず滅ぼす事ができましょう。」
 帝はこれを聞き入れ、その手を取ってこう言った。
「晋州は斉平定の根拠地であり、固守できなければ大事を成すことはできない。朕が心配するのは、前方の斉軍ではなく、後方に変事が起こる事なのだ。汝は良くよく用心してこの地を守り、朕の心配を杞憂にせよ!」[1]
 かくて諸軍を率いて斉軍の追撃に赴いた。諸将が西還を強く求めると、帝はこう言った。
「敵を逃せばのちのち禍いが生じる。卿らが成功を疑うなら、朕一人で行く。」
 諸将は〔帝の強い決心を知ると、〕これ以上何も言わなかった。

 帝は斉王憲に軽騎兵を与えて先行させた。憲は永安(平陽の北百四十五里)にまで到り、そこで後からやってきた武帝と合流した。
 癸丑(9日)、帝が汾水関(明の平陽府の北百四十五里→霍州の北百里→霊石県の西南)に到った。

○周武帝紀・冊符元亀117
 辛亥,帝幸晉州,仍率諸軍追齊主。諸將固請還師,帝曰:「縱敵患生。卿等若疑,朕將獨往。」諸將不敢言。〔癸丑,軍次汾水關。
○周12斉煬王憲伝
 其夜,齊主遁走,憲輕騎追之。既及永安,高祖續至。
○周31・隋40梁士彦伝
 武帝大(六)軍亦至,齊師圍解〔,營於城東十餘里〕。士彥見帝,捋(持)帝鬚〔〕泣〔曰:「臣幾不見陛下!」〕,帝亦為之流涕。時帝〔以將士疲倦,意〕欲班師,士彥叩馬諫〔曰:「今齊師遁,眾心皆動,因其懼也而攻之,其勢必舉。」〕,帝從之〔,大軍遂進〕。〔帝〕執其手曰:「朕(余之)有晉州,為平齊之基,〔若不固守,則事不諧矣。朕無前慮,惟恐後變,〕宜善〔為我〕守之。」

 ⑴梁士彦…字は相如。生年515、時に62歳。安定烏氏の人。若い頃は不良で州郡に仕えず、剛毅果断な性格で悪人を懲らしめる事を好んだ。また、読書家で、特に兵法書を好んだ。武帝に勇猛果断さを評価されて九曲(洛陽の西南)鎮将・上開府・建威県公とされ、のち熊州刺史とされた。帝が北斉の晋州を陥とすと晋絳二州諸軍事・晋州刺史とされ、北斉の猛攻に耐え切った。576年(3)参照。
 [1]戦いをする際に後方を気にかける事ができる者は良将である。

●臆病天子
 この日(12月9日)後主が晋陽に帰った。帝は憂いと恐れの余り、周章狼狽して為す所を知らなかった。
 甲寅(10日)、大赦を行なった。帝は朝臣にこう諮って言った。
「周軍は非常に強盛である。一体どう対処すればよいか?」
 群臣はみな口を揃えてこう言った。
「天はまだ斉を見捨ててはおりません。古来より、どの国家でも勝つ事もあれば負ける事もございました。〔今もし〕税を全て一時停止して官民の心を摑み、残兵を収容して、城を背にして力を尽くして戦えば、国家を存続させることができるでしょう。」
 しかし、帝は周軍と戦うことを恐れ、〔太尉の〕安徳王延宗と〔大司馬の?〕広寧王孝珩らに晋陽の防衛を任せ、自分は北朔州(馬邑。明の大同府の西南二百八十里)に逃げて、晋陽が陥落したら即座に突厥に亡命しようと考えた。群臣はみな反対したが、帝は聞かなかった。
 この時、開府儀同三司〔で中領軍〕の賀抜伏恩、武衛大将軍の封輔相、慕容鍾葵、〔領軍・王の〕乞伏貴和、〔右衛将軍・宜民郡王の〕乞伏令和ら宿衛の近臣三十余人が周軍のもとに行って投降した。帝は輔相を上柱国・郡公とした。

○北斉後主紀
 癸丑,入晉陽,憂懼不知所之。甲寅,大赦。帝謂朝臣曰:「周師甚盛,若何?」羣臣咸曰:「天命未改,一得一失,自古皆然。宜停百賦,安慰朝野,收拾遺兵,背城死戰,以存社稷。」帝意猶豫,欲向北朔州。乃留安德王延宗、廣寧王孝珩等守晉陽。若晉陽不守,即欲奔突厥。羣臣皆曰不可,帝不從其言。開府儀同三司賀拔伏恩、封輔相、慕容鍾葵等宿衞近臣三十餘人西奔周師。
○北斉19乞伏貴和・令和伝
 貴和及令和兄弟,武平末,並開府儀同三司。令和,領軍將軍。幷州未敗前,…武衛大將軍封輔相相繼投周軍。…輔相, 上柱國,封郡公。

 ⑴広寧王孝珩(コウ)…高澄(高歓の長子)の第二子。後主の従兄。母は王氏。読書家で文章を書くことを趣味とし、絵画の才能は超一流だった。568年に尚書令→録尚書事とされた。570年に司空→司徒とされた。のち、徐州行台とされた。571年、録尚書事→司徒とされた。572年、大将軍とされた。573年(3)参照。
 ⑵賀抜伏恩…中領軍。572年、斛律光誅殺の際に幽州刺史の斛律羨の逮捕に赴いた。573年、陳が寿陽に攻めてくると景和と共に十万の兵を率いて救援に赴いたが失敗した。573年(4)参照。
 ⑶封輔相…鮮卑人でもと是賁氏? 高歓からの譜代の臣で、軍功を挙げて領軍とされた。572年、北周に使者として派遣された。573年、陳が淮南に侵攻してくると派兵を主張し、五万の兵を率いて和州の救援に赴いたが、小峴山にて大敗を喫した。573年(2)参照。
 ⑷乞伏貴和…代々第一領民酋長を務めた家柄の出。もと爾朱兆の配下。兆が高歓に滅ぼされると歓に従った。のち、弟の慧(字は令和)と共に栄達し、開府・王とされた。565年に独孤永業に代わって河陽行台尚書とされた。575年、北周軍が洛陽の攻略に失敗して撤退する際に追撃しなかった。575年(2)参照。
 ⑸乞伏令和…本名は慧。令和は字。乞伏貴和の弟。弓馬を匠に扱い、鷹や犬を好んだ。高澄の時に行台左丞とされ、のち右衞将軍・太僕卿とされ、永寧県公から宜民郡王に昇った。

●追撃
 これより前、北斉は右丞相の高阿那肱が一万の兵を率いて高壁嶺を、他の者が洛女砦を守っていた。
 この日、帝が自ら軍を率いて高壁に迫ると、阿那肱は戦わずして逃亡した。また、洛女砦も斉王憲の攻撃によって陥落した。

 後主が晋陽に逃亡した時、雷相という兵士が密告して言った。
「阿那肱は密かに臣に西軍を招き入れるよう命じました。ただ、臣は文侯城(玉壁の東北十三里→稷山県の西北)に到った所で事が成就しないことを恐れ、戻って今報告いたしました。」
 帝は侍中〔・義寧王〕の斛律孝卿に真偽を調査させた。すると孝卿はこう強く主張して言った。
「この者は賊に降ろうとして文侯城まで行ったものの、そこで道に迷って失敗し、戻ろうにも処刑が待っていることを恐れて、このようなでまかせを言ったのです。」
 帝が晋陽に帰ると、今度は阿那肱の腹心の馬子平が阿那肱の謀叛を告げたが、帝はこれも虚妄の言と断じ、子平を斬刑に処した。

 乙卯(11日)、募兵の詔を下し、安徳王延宗を左広、広寧王孝珩を右広とした。延宗がやってくると、帝は北朔州に避難することを告げた。延宗は泣いて諫めたが、帝は聞き入れず、密かに〔新蔡王の〕王康徳と宦官の斉紹らに胡太后太子恒を先に北朔州に送らせた。

 丙辰(12日)武帝斉王憲の軍が介休にて合流した。介休の守将で開府儀同三司・領軍大将軍・定南王の韓建業は城と共に降伏した。帝は建業を上柱国・郇(シュン)国公とした。

 この日、後主が城南軍のもとに赴き、将兵を労った。
 その夜、逃亡しようとしたが、諸将に反対され思いとどまった。

○周武帝紀・冊符元亀117
 甲寅,齊主遣其丞相高阿那肱〔率兵一萬〕守高壁。帝麾軍直進,那肱望風退散。丙辰,師次介休,齊將〔開府〕韓建業舉城降,以為上柱國,封郇國公。
○北斉・北史北斉後主紀
 乙卯,詔募兵,遣安德王延宗為左〔廣〕,廣寧王孝珩為右〔〕。延宗入見,帝告欲向北朔州。延宗泣諫,不從。帝密遣王康德與中人齊紹等送皇太后、皇太子於北朔州。丙辰,帝幸城南軍,勞將士,其夜欲遁,諸將不從。
○周12斉煬王憲伝
 齊人收其餘眾,復據高壁及洛女砦。高祖命憲攻洛女,破之。明日,與大軍會於介休。
○北斉19乞伏貴和・令和伝
 幷州未敗前,與領軍大將軍韓建業、武衛大將軍封輔相相繼投周軍。
○北斉50・北92高阿那肱伝
 有軍士〔雷相,〕告稱「〔阿〕那肱遣臣招引西軍,〔行到文侯城,恐事不果,〕今故〔還〕聞奏。後主令侍中斛律孝卿,〔令其〕檢校。孝卿〔固執〕云:「此人〔自欲投賊,行至文侯城,迷不得去,畏死〕妄語〔也〕。」還至晉〔陽〕,那肱腹心〔人馬子平〕告〔〕肱謀反,又以為〔〕妄,斬之(子平)。
○北53韓建業伝
 從神武出山東,又有…韓建業…,並以軍功至大官,史失其事。建業、輔相俱不知所從來。建業位領軍大將軍、并州刺史。

 ⑴高壁嶺…《読史方輿紀要》曰く、『平陽府の北百四十五里→霍州の北百里→霊石県の東南二十五里にある。韓信嶺ともいう。最も堅固で、北は雀鼠谷と接している。』
 ⑵洛女砦…《読史方輿紀要》曰く、『霊石県の南にある。
 ⑶斛律孝卿…東夏州刺史の斛律羌挙の子。若年の頃から聡明で、物腰に気品があり、高官を歴任した。武平(570~576)の末に侍中・開府儀同三司・義寧王に昇り、門下省の事務と外兵・騎兵の機密に携わった。南安王思好の乱が平定されると、叱奴世安を出し抜いて先に後主に報告し、賞された。575年(3)参照。
 ⑷左・右広…親衛隊の左右長官。《春秋左氏伝》宣公十二年に曰く『楚子の親衛隊は左広・右広の戦車隊から成る。一広は三十輌の戦車から成る。右広は早朝になると馬を戦車に繋ぎ、正午に外す。次いで左広が正午から馬を戦車に繋ぎ、日没に外した。右広の指揮車は許偃が御し、養由基がその車右を務めた。左広の指揮車は彭名が御し、屈蕩が車右を務めた。乙卯の日、王は左広の指揮車に乗った。』《北斉書》では単に『左・右』としか書かれていない。山西と山東の募兵を任せたともとれる。
 ⑸王康徳…高歓時代からの旧臣。多くの戦功を立てて新蔡王に昇った。575年、宿預にて陳将の蕭摩訶に撃破された。575年(1)参照。
 ⑹斉紹…高歓時代からの宦官。
 ⑺胡太后…もと上后。魏の中書令・兗州刺史の胡延之の娘。母は范陽の盧道約の娘。550年に後主の父の武成帝(上皇)に嫁いだ。淫乱で、和士開などと関係を持った。571年、北宮に幽閉された。575年(1)参照。
 ⑻太子恒…生年570、時に7歳。後主の長子で、母は穆后。570年、太子とされた。570年(3)参照。
 ⑼介休…《読史方輿紀要》曰く、『太原府(晋陽)の西南二百里→汾州府の東南八十五里にある。

●またもや敵前逃亡
 丁巳(13日)、周軍〔の前軍〕が晋陽に到った。
 武帝は北斉の王公以下に詔を下して言った。
『そもそも、天が君主を立てて人民を治めさせるのは、思うに人民を苦しみから救わせるためであった。朕は天下を治めるにあたり、目標を『天下を統一して、万民を救ってその生活を豊かにし、彼らを長生きさせること』に置いた。しかし、彼の斉趙のみ我が民と為して救うことができず、悶々とする日々を過ごした。彼の偽主(後主)は早くから醜聞が聞こえ、長じると酒色や遊興に耽溺した。また、宦官を宰相に、胡人を側近の地位に置いた。また、国家の柱石となるべき者や硬骨の者を仇敵のように見なして殺害し、狐偃・趙衰共に亡命中の晋の文公を良く助けて覇者まで登りつめさせた名臣)の如き功臣の子孫を顕貴の身分から落として奴隷とした。また、民にも一度も思いやりを見せた事はなく、ただ搾取する対象としか見なかった。ただ、朕は偽主がいずれ改心すると信じて、これを法網の範囲外に置き、和平を結んで民力の休養に努めるようにさせた。
 しかし、彼の偽主と偽相は朕の深慮を汲み取ることなく、民草を塗炭の苦しみに陥れ、虐げ続けた。我が国中の者たちはこれを聞くや憤激して討伐を求め、謀臣は乱れた国を討つよう進言し、武臣は大いなる勇気を奮い立たせ、食糧や武器鎧を自ら用意し、その様はまるで自分の仇を討ちに行くかのようだった。このように正義の心に燃えた軍であったため、征伐するやたった一戦にて晋州を平定し、次の戦いでは賊徒の軍を撃滅するに至った。偽丞相の高阿那肱は残兵を駆り立てて高壁に、偽定南王の韓建業は介休に立て籠って抵抗を図ったが、我が軍が少し兵威を示しただけで、彼らはたちまち総崩れになり、阿那肱は身一つで夜逃げし、建業は面縛(両手を後ろ手にして縛り、顔を前に突き出してさらすこと)して軍門に降った。これは汝らも逃亡兵から聞き知っている事であろう。
 もし遠方の者を懐けることを徳と言うなら、彼の国は〔徳を欠いているため〕徳を用いて安んずることは難しく、隣を良く択んで共生することを義と言うなら、彼の国は〔義を欠いているため〕義を用いて服することは難しい。そもそも、天の与えた機会を利用しないのは、道家の忌避する行為であり、君主が無道で乱れている国を攻めるのは、兵家が上策とするものである。かくて朕は今、勇士たちを率いて親征を行なったのである。広げた旗を持つ、万を数える部隊で編成された朕直属の軍の勢いは雷や電と威を争えるほどで、その闘気は風雲を全て追い払えるほどであり、早くも晋陽の近郊にまで達した。救世主の到来を待ち望んでいた民たちは皆これを喜び、救済された人々は我が国の誠実ぶりに感動している。
 今、偽主がもし良く人智を尽くし、深く天命を察して、羊を牽いて(人のしもべになることを指す)道の左側に立ち、口中に璧を含んで(降伏儀礼)我が軍門に降るなら、その縛めを解き、棺を焼いて(死を免じて)列侯としよう。偽将相王公以下、衣冠士民の族に至るまでの者も、今もし最善の道を選び取り、我が朝に帰順して功を立てるなら、今よりも高い官爵を与えよう。しかし、もし下愚は移らず(愚かな者は愚かなまま変わらないという事)の言葉通り、改心せず帰順しないのであれば、その身を司法に委ね、刑法を正しく執行することにする。ああ汝ら庶士よ、どうして自分の身を粗末にするのだ。我らは、我が将兵で彼の逆朝(北斉)に逃亡した者がいても、貴賤を問わず、皆その罪過を赦すのだぞ。皆、より多くの幸福が手に入る道を選び、後悔を残すことの無いようにせよ。この璽書を受け取った者は、周りの者全員によくよく内容を周知するようにせよ。』
 これ以後、北斉の将軍たちの投降が相次いだ。もと北斉の特進・開府の賀抜伏恩を郜国公とし、その他の者にもそれぞれ差をつけて官爵を授けた。

 この日後主は再び大赦を行ない、年号を武平から隆化に改めた。
 また、安徳王延宗を相国・并州刺史・総山西兵事とし、こう言った。
「并州は阿兄(兄さん。延宗は後主の従兄)が治めてくれ。児()は逃げる!」
 延宗は言った。
「陛下は国のためにここから動いてはなりませぬ! 臣は陛下のために死力を尽くして戦い、必ずや勝利してみせまする。」
 すると穆提婆がこう言った。
「至尊(陛下)の考えはもう決まったのです。王よ、邪魔だてなさらぬよう!」
 この日の夜、帝は五龍門から撃って出て突厥領に向かおうとしたが、従者の多くが〔帝を見捨てて〕逃げ散った。領軍の梅勝郎高歓時代からの家奴)が帝の馬を叩いて諫めると、帝は考えを変えて鄴に向かった。この時、帝に付いていった者は高阿那肱と宦官ら十余騎だけで、後から付いてきた者も広寧王孝珩・襄城王彦道ら数十人のみだった。

 彦道は常山王演孝昭帝。高歓の第六子。後主の伯父)の第二子である。本名は亮で、彦道は字。天保二年(551)に亡くなった襄城王淯高歓の第八子。後主の伯父)に子がいなかったため、その養子となって襄城王を継いだ。美男で慎み深く、孝行者で、文学を好んだ。徐州刺史とされると、商人の財物を奪った廉で免官処分とされた。

 穆提婆が北周に投降した。母の陸令萱は自殺した。後主は提婆の子孫を大小問わずみな斬首し、市場に晒した。また、親族や家財もみな官府に没収した。北周は提婆を柱国・宜州(もと北雍州)刺史とした。

○周武帝紀・冊符元亀117・164
 丁巳,大軍次幷州,齊主留其從兄安德王延宗〔等〕守幷州,自將輕騎走鄴。是日,詔〔齊王公以下〕曰:
〔夫樹之以君,司牧黔首,蓋以除其苛慝,恤其患害。朕君臨萬國,志清四海,思濟一世之人,寘之仁壽之域。嗟彼齊趙,獨為匪民,乃睠東顧,載深長想。偽主涼德早聞,醜聲夙著,酒色是耽,盤游是悅。閹豎居阿衡之任,胡〕人寄喉脣之重。棟梁骨鯁,翦為仇讐;狐、趙緒餘,降成皁隸。民不見德,唯虐是聞。朕懷茲漏網,置之度外,正欲各靜封疆,共紓民瘼故也。
 爾之主相,曾不是思,欲構厲階,反貽其梗。我之率土,咸求倳刃,帷幄獻兼弱之謀,爪牙奮干戈之勇,贏糧坐甲,若赴私讐。是以一鼓而定晉州,再舉而摧逋醜。偽丞相高阿那肱驅逼餘燼,竊據高壁;偽定南王韓建業作守介休,規相抗擬。聊示兵威,應時崩潰,那肱則單馬宵遁,建業則面縛軍和,爾之逃卒,所知見也。
 若其懷遠以德,則爾難以德綏;處隣以義,則爾難以義服。且天與不取,道家所忌,攻昧侮亡,兵之上術。朕今親馭羣雄,長驅宇內,六軍舒斾,萬隊啟行。勢與雷電爭威,氣逐風雲齊舉。王師所次,已達近郊,望歲之民,室家相慶,來蘇之后,思副厥誠。偽主若妙盡人謀,深達天命,牽羊道左,銜璧轅門,當惠以焚櫬之恩,待以列侯之禮。偽將相王公已下,衣冠士民之族,如有深識事宜,建功立効,官榮爵賞,各有加隆。若下愚不移,守迷莫改,則委之執憲,以正刑書。嗟爾庶士,胡寧自棄。或我之將卒,逃彼逆朝,無問貴賤,皆從蕩滌。善求多福,無貽後悔。璽書所至,咸使聞知。
 自是齊之將帥,降者相繼。封其特進、開府賀拔伏恩為郜國公,其餘官爵各有差。
○北斉後主紀
 丁巳,大赦,改武平七年為隆化元年。其日,穆提婆降周。詔除安德王延宗為相國,委以備禦,延宗流涕受命。帝乃夜斬五龍門而出,欲走突厥,從官多散,領軍梅勝郎叩馬諫,乃廻之鄴。時唯高阿那肱等十餘騎,廣寧王孝珩、襄城王彥道續至,得數十人同行。
○北斉10襄城王亮伝
 襄城景王淯,…天保…二年春,薨。…無子,詔以常山王演第二子亮嗣。亮字彥道,性恭孝,美風儀,好文學。為徐州刺史,坐奪商人財物免官。後主敗奔鄴,亮從焉。
○北斉11安徳王延宗伝
 及至并州,又聞周軍已入雀鼠谷,乃以延宗為相國、并州刺史,總山西兵事。謂曰:「并州,阿兄自取,兒今去也。」延宗曰:「陛下為社稷莫動,臣為陛下出死力戰。」駱提婆曰:「至尊計已成,王不得輒沮。」後主竟奔鄴。
○北斉50・北92穆提婆伝
 晉州軍敗,後主還鄴,提婆奔投周軍,令萱自殺,子孫大小皆棄市,籍沒其家。〔周武帝以提婆為柱國、宜州刺史。〕
○北斉50・北92高阿那肱伝
 乃顛沛還鄴,侍衞逃散,唯那肱及內官(閹寺)數十騎從行。

 ⑴陸令萱…母は元氏。駱超の妻で、穆提婆の母。夫が謀叛の罪で誅殺されると後宮の下女とされた。頭の回転が早く、あらゆる手を使って胡太后に取り入り、後主が産まれるとその養育を任された。やがて後主の信頼を勝ち取り、後宮内で絶大な権勢を誇るようになった。後主が弘徳夫人(穆后)を寵愛するようになるとこれに近付き、自分の養女とした。571年、琅邪王儼がクーデターを起こした時、標的の一人に挙げられた。のち、斛律光の誅殺や弘徳夫人の皇后即位に関わった。576年(2)参照。


 576年(5)に続く