[隋:開皇九年 陳:禎明三年]

┃逃走の機逸す

 陳軍が敗北を喫すると、任忠は宮殿に馳せ入って後主に謁え、敗北した事を報告した。それからこう言った。
「陛下、身の振り方をお考えください。もはや陥落は時間の問題であります。」
 帝は忠に金が入った袋二つを与え、こう言った。
「朕のために南岸(秦淮河の?)にて募兵してくれ。さすればもう一戦できよう。」
 忠は言った。
「陛下にはただ船に乗って上流の諸軍(周羅睺らの軍)と合流する道しか残されておりません。〔その間、〕臣が死を賭してお守りいたします〔ので、ご安心ください〕。」
 帝はこれを信じ、忠に上流行きの準備をさせた。忠は退出する際こう言った。
「準備が終わりましたら、ただちにお迎えに上がります。」
 帝は宮女に出発の準備を整えさせ、忠が来るのを待ったが、いつまで経ってもやってこなかった。
 この時、〔隋の廬州総管の〕韓擒虎は〔建康の西南十八里の〕新林より進軍して〔建康の南十五里の〕石子崗に到っていた。忠は数騎を引き連れてこれに降り、道案内を買って出た。擒虎はそこで軽騎五百を率いて建康に直進した。

○資治通鑑
 陳主信之,敕忠出部分,令宮人裝束以待之,怪其久不至
○隋文帝紀
 韓擒虎進師入建鄴,獲其將任蠻奴。
○陳・南史陳後主紀
 是時韓擒虎率眾自新林至于石子岡,〔鎮東大將軍〕任忠出降於擒虎。
○隋52韓擒虎伝
 陳叔寶遣領軍蔡徵守朱雀航,聞擒將至,眾懼而潰。任蠻奴為賀若弼所敗,棄軍降於擒,擒以精騎五百,直入朱雀門。
○陳31任忠伝
 及〔軍〕敗,忠馳入臺見後主,言敗狀,啟云:〔「官好住,無所用力。」後主與之金兩縢曰:「為我南岸收募人,猶可一戰。」忠曰:〕「陛下唯當具舟檝,就上流眾軍,臣以死奉衛。」後主信之,勑忠出部分,忠辭云:「臣處分訖,即當奉迎。」後主令宮人裝束以待忠,久望不至。隋將韓擒虎自新林進軍,忠乃率數騎往石子崗降之,仍引擒虎軍共入南掖門。

 ⑴任忠…字は奉誠、幼名は蛮奴。汝陰(合肥)の人。幼い頃に親を喪って貧しい生活を送り、郷里の人から軽んじられたが、境遇にめげることなく努力して知勇に優れた青年に育った。梁の鄱陽王範→王琳に仕え、琳が東伐に向かった際、本拠襲撃を図った陳将の呉明徹を撃破した。王琳が敗れると降伏し、華皎の乱が起こるとこれに加わったが、陳と内通していたため、皎が敗北したのちも引き続き陳に用いられた。のち右軍将軍とされ、北伐が起こるとこれに参加し、歴陽〜合肥方面の城を次々と陥とした。更に霍州も陥とした。578年の北伐軍大敗の際は指揮下の軍を無事帰還させた。間もなく都督寿陽、新蔡、霍州等縁淮諸軍事・霍州刺史・寧遠将軍とされ、淮西の地の軍事を任された。のち中央に戻って左衛将軍とされた。579年、大閲兵式の際に陸軍十万を率いた。北周が淮南に侵攻してくると平北将軍・都督北討前軍事とされ、秦郡に赴いたが結局何もできずに引き返した。580年、南豫州刺史・督縁江軍防事とされ、歴陽を攻めたが撃退された。582年、鎮南将軍とされた。583年、侍中・領軍将軍・梁信郡公とされた。のち孔範の奪兵策に遭い、兵を奪われた。587年頃、呉興内史とされ、東揚州刺史の蕭巖らを監視した。薛道衡に大したことが無いと評された。589年、隋軍が建康に迫ると救援に馳せ参じ、朱雀門の守備を任された。この時、「台城(建康)の守りを固め、北軍(隋軍)が来ても交戦せず、その間に水軍を南豫州と京口(南徐州)に派遣し、糧道と連絡を断つのが良いでしょう」と進言したが聞き入れられなかった。589年(2)参照。
 ⑵陳の後主…陳叔宝。字は元秀。幼名は黄奴。宣帝の嫡長子。母は柳敬言。生年553、時に37歳。在位582~。細部まで技巧が凝らされた詩文を愛した。554年、西魏が江陵が陥とした際に父と共に長安に連行され、父の帰国後も人質として北周国内に留められた。562年、帰国を許され、安成王世子に立てられた。569年、父が即位して宣帝となると太子とされた。のち周弘正から論語と孝経の講義を受けた。582年、宣帝が死ぬと棺の前で弟の叔陵に斬られて重傷を負い、即位後も暫く政治を執る事ができなかった。傷が癒えたのちは弟の叔堅や毛喜を排斥し、『狎客』と呼ばれる側近たちを重用した。自分の過失を人に聞かれるのを嫌い、そのつど孔範に美化した文章を書かせて誤魔化そうとした。また、僭越な振る舞いが多かった陳暄を逆さ吊りにして刃を突きつけたり、もぐさの帽子をかぶせて火をつけたりした。隋と和平を結ぶと外難から解放されて羽目を外し、酒色に溺れ、政務を執る時以外は殆ど宴席に身を置いた。584年、臨春・結綺 ・望仙の三閣を建てた。音楽を愛好し、《玉樹後庭花》などの新曲を作製した。585年頃、直言の士の傅縡を誅殺した。587年、後梁の亡命者を受け入れた。また、直言した章華を誅殺した。588年、太子胤を廃して始安王淵を新たに太子とした。隋が侵攻した際、施文慶らの言を信じて警戒を怠った。589年(2)参照。
 ⑶韓擒虎…宇文擒虎。字は子通。生年538、時に52歳。開府・中州刺史の韓雄の子。あらゆる書物の大要に通じ、宇文泰に才能を認められてその子どもたちの遊び相手とされた。のち儀同・新安太守とされ、父と同じように河南の地で北斉と戦った。伐斉の際、父の宿敵だった独孤永業を説得して降伏させた。のち范陽の平定に参加し、上儀同・永州刺史とされた。578年頃に陳が光州に迫ると行軍総管とされ、これを撃退した。579年、淮南平定に参加し、合州を陥とした。のち和州刺史とされ、陳の侵攻を何度も撃退した。581年、文武両道を評価され、廬州総管とされた。589年、陳討伐に赴き、南豫州を陥とし、建康に向かった。589年(2)参照。
 ⑷石子崗…《読史方輿紀要》曰く、『応天府(建康)の南十五里にある。その地に梓桐山があり、その山北に石子岡がある。《呉志》曰く、建業の南に長い丘陵がある。これは石子岡と名付けられ、ここに墓地が置かれた。孫峻が諸葛恪を殺害した時、屍はここに投げ捨てられた。』『今、応天府の西四里に韓擒虎塁がある。』

┃朱雀門陥落
 この時、後主は〔権知(臨時)中〕領軍の蔡徴に〔建康の南約五里にある〕朱雀航(建康南に流れる秦淮河にある浮き橋。舟橋)を守備させていたが、擒虎軍がやってくるのを聞くと兵たちが恐慌状態に陥って潰走してしまっていた。
 擒虎が朱雀航を渡って〔すぐ北にある〕朱雀門に向かうと、陳兵は迎撃しようとした。すると任忠は陳兵を指差してこう言った。
「この老夫でさえ降ったというのに、諸君は何をしているのか!」
 陳兵はこれを聞くとみな逃げ散った。
 擒虎は南掖門(南正門の脇門より宮城内に侵入した

○資治通鑑
 陳人欲戰,忠之曰:「老夫尚降,諸何事!」
○陳・南史陳後主紀
 是時韓擒虎率眾自新林至于石子岡,〔鎮東大將軍〕任忠出降於擒虎,仍引擒虎經朱雀航趣宮城,自南掖門而入。
○隋52韓擒虎伝
 陳人大駭,其將樊巡、魯世真、田瑞等相繼降之。…陳叔寶遣領軍蔡徵守朱雀航,聞擒將至,眾懼而潰。任蠻奴為賀若弼所敗,棄軍降於擒,擒以精騎五百,直入朱雀門。陳人欲戰,蠻奴撝之曰:「老夫尚降,諸君何事!」眾皆散走。
○陳31任忠伝
 仍引擒虎軍共入南掖門。

 ⑴蔡徴…字は希祥。本名は覧。守度支尚書の蔡景歴の子。美男で、弁才があり、優れた見識と並外れた記憶力を有していた。七歲の時に母を亡くした際、喪の服し方が成人のそれと同じだった。継母の劉氏にいじめられたがこれに恭しく接し、王祥の面影を見た父に名を徴、字を希祥に改められた。南徐州刺史の陳覇先(のちの陳の武帝)に仕えて主簿とされ、のち多くの職を歴任したが、どこでも能吏の評を得た。太建年間(569~582)の初めに太子(後主)少傅丞とされ、のち太子中舍人・兼東宮領直とされた。至徳二年(584)、廷尉卿とされ、間もなく吏部郎とされた。のち太子中庶子・中書舍人とされ、詔誥の作成に携わった。間もなく寧遠将軍(五品)・左民尚書とされた。後主に才能を高く評価されて日に日に信任を受け、将軍たちから奪った兵を分け与えられた。588年、吏部尚書・安右将軍(三品)とされた。常に十日に一度東宮に赴き、太子胤に古今の成功失敗の事例や現在の政務について論述した。また、廷尉寺の訴訟案件の判決を大小と無く全て任された。また、募兵を行なって私兵を組織する事を許された。面倒見がよく、人心を掴むのを得意としていたため、1ヶ月の間に1万人近くが集まった。間もなく中書令とされると「閑職に回されたため怨み言を言っている」と讒言を受け、誅殺されかかった。589年、隋軍が建康に迫ると再び起用され、中領軍とされた。589年(1)参照。
 ⑵諸君…《資治通鑑》だと『諸軍』とある。
 ⑶南掖門…《読史方輿紀要》曰く、『正西の門を西明門といい、またの名を白門という。西明門の南にある門を広陽門という。もともと陵陽門といったが、のちに改められた。北にある門を閶闔門という。《建康実録》曰く、『宮城の南面次東にある門を閶闔門といい、のちに南掖門と改めた。』『《宮苑記》曰く、建康城には十二門あり、南の四門は、最西を陵陽→広陽、正門を宣陽、やや東を開陽→津陽、最東を清明といい、東の二門は東を東陽、北を建春→建陽といい、西の二門は南を閶闔、北を西明といい、北の四門は、西を大夏、真ん中を玄武→宣平、やや東を広莫→北捷(陳が改名)、最東を延熹といった。今これを考えるに、正史と記述が合わない。また、《建康実録》と《宮苑記》の記載は互いに齟齬がある。』洛陽城では西面に広陽・西明・閶闔の三門がある。
 ⑷隋52韓擒虎伝には『樊巡、魯世真、田瑞等相繼降之』とある。この時辺りに田瑞が降ったのか?

┃江東の衣冠の道尽く
 ここにおいて朝士たちはみなあちこちに逃げ隠れ、ただ尚書僕射の袁憲と後閤舍人の夏侯公韻のみ後主の傍に残り、尚書令の江総・吏部尚書の姚察・度支尚書の袁権・前度支尚書の王瑗後主の近臣の『狎客』の一人)・侍中の王寛らは役所に留まった。帝は憲にこう言った。
「朕はこれまで卿を特段重用したわけではなかったのに、卿は今朕を見捨てず傍に留まってくれた。まさに『歲寒くして松柏の凋(しぼ)むに後(おく)るるを知る』と言うべきである。今、朕は人を見る目の無かった事を深く恥じている[1]。かように数名しか残らない有り様になったのは、朕が不徳だったからだけでなく、江東の士大夫の道義心が失われていた事にも理由があるのだ。」

○資治通鑑
 陳主謂袁憲曰:「我從來接遇卿不勝餘人,今日但以追愧【此猶劉禪之於郤正也】。」
○陳・南史陳後主紀
 於是城內文武百司皆遁出,唯尚書僕射袁憲〔、後閤舍人夏侯公韻侍側〕在殿內。尚書令江總、吏部尚書姚察、度支尚書袁權、前度支尚書王瑗、侍中王寬居省中。
○陳24・南26袁憲伝
 禎明三年,隋軍來伐,隋將賀若弼進燒宮城北掖門,宮(兵)衛皆散走,朝士稍各引去(朝士各藏),惟(唯)憲衛侍左右。後主謂憲曰:「我從來待卿不先餘人,今日見卿,可謂歲寒知松柏後凋也。〔非唯由我無德,亦是江東衣冠道盡。〕」

 ⑴袁憲…字は徳章。名門陳郡袁氏の出で、故・尚書左僕射の袁枢の弟。生年529、時に60歳。聡明・好学で度量があり、非常な神童ぶりを見せた。貴公子を以て梁の簡文帝の娘を娶った。548年に太子舍人とされ、侯景の乱が起こると呉郡に逃れ、父が亡くなると非常に嘆き悲しんだ。のち陳覇先に仕えて中書侍郎とされた。557年に北斉に派遣されたが抑留を受け、天嘉年間(560~566)の初めにようやく帰国を許された。564年、再び中書侍郎とされ、569年に給事黄門侍郎、570年に吏部侍郎とされた。間もなく太子叔宝に近侍した。571年、御史中丞とされると、皇子であろうと容赦無く弾劾し、人々の襟を正させた。また、法律に詳しかったため、非常に多くの者を冤罪から救った。のち南康内史とされ、577年、兼吏部尚書とされた。581年、尚書右僕射とされ、引き続き人事に関与した。582年、宣帝が死ぬと後事を託された。始興王叔陵の乱が起こるとその鎮圧の指揮を執った。この功により建安県伯・領太子中庶子とされた。重傷を負った後主に後事を託されたが、「人々はただただ聖躬(陛下)のご回復を祈っております。後事の旨はまだ受け入れられませぬ」と断った。間もなく領太子中庶子→太子詹事とされた。585年、引退を求めたが許されなかった。太子胤が訓戒を殆ど守らなかったため、十条に亘る諫言書を渡したが響く事は無かった。蔡徴が太子の廃立を持ち出すとこれを非難し、帝に「袁徳章(憲の字)はまことに硬骨の臣である。」と感嘆された。588年、隋軍が長江に到ると防備を整えるよう進言したが聞き入れられなかった。588年(3)参照。
 ⑵江総…字は総持。名門済陽考城の江氏の出で、西晋の散騎常侍の江統(《徙戎論》の著者)の十世孫。七歲にして父を喪い、母方のもとで育てられた。幼くして聡明で、人情に厚く寛大温厚で善良そのものな性格をしていた。品行は非常に正しく、容姿も抜きん出ていた。舅で当時名声のあった呉平侯勱に可愛がられ、「きっと将来私より有名になるだろう」と言われた。家伝の書物数千巻を一日中読み続けて、手を止めることが無かった。梁の武帝に賞賛を受けるほどの文才を有し、五言詩と七言詩を最も得意とした。尚書侍郎とされると張纘・王筠・劉之遴と忘年の交わりを結んだ。のち太子中舍人とされ、侯景が建康に侵攻してくると小廟を守備した。台城が陥ちると会稽郡に避難し、そこに数年滞在した。第九舅の蕭勃が広州に割拠するとこれを頼った。563年に中書侍郎とされて建康に帰り、のち次第に昇進して太子中庶子・掌東宮管記とされた。のち左民尚書とされた。のち太子叔宝(後主)に太子詹事に推挙された時、吏部尚書の孔奐に「江は潘・陸の様な華やかさはあるが、園・綺のような質実さは無い」と言われて反対を受けたが、結局叔宝のごり押しによって就任する事ができた。のち太子と夜通し酒を飲んだり、太子の側室の陳氏を養女としたり、家に招いて一緒に遊んだりしたため、宣帝の怒りを買い、免官とされたが、間もなく復帰して太常卿とされた。後主が即位すると祠部尚書・領左驍騎将軍とされ、人事に携わった。583年、吏部尚書とされた。584年、尚書僕射とされた。586年、尚書令とされた。588年、中権将軍に進んだ。薛道衡に『詩と酒にうつつを抜かす男で国家経営の才能など無い』と酷評された。隋軍が長江に到ると施文慶に賄賂を貰って袁憲ら防備派の意見を封じた。588年(3)参照。
 ⑶姚察…字は伯審。生年533、時に57歳。隋の上開府の姚僧垣の子。《梁書》《陳書》の編纂者(完成は子の姚思廉)。孝行者・読書家で文才を有した。取り分け人物関連の記録を得意とし、一族の起こりやその支流・官歴・婚姻関係・興衰について論じる際、全く遺漏が無かった。侯景の乱が起こると故郷の呉興に避難した。元帝が即位すると原郷令とされ、善政を行なった。陳が建国されると東宮(後主)学士・知撰梁史事とされ、後主が即位すると秘書監・領著作とされ、588年、度支尚書とされた。間もなく「学識が博く技芸に優れているだけでなく、素行も高潔」と評価を受けて吏部尚書とされた。588年(2)参照。
 ⑷王寛…580年、吏部侍郎に欠員が出た際に登用の候補に挙がった。581年(6)参照。
 ⑸《論語》子罕。冬の寒さが訪れて初めて松や柏が他の木と違い枯れずに残るのが分かる。人もこれと同じで危難の時に初めて真価が分かる。
 [1]劉禅と郤正の関係に似ている(蜀漢が滅ぼされた時、君主の劉禅は洛陽に連行されたが、大臣の中でこれに付いていく者はおらず、ただ秘書令の郤正と殿中督の張通だけが随行した。郤正は良く劉禅を輔導し、劉禅は郤正の才能を認めるのが遅かったと後悔した)。

┃投井醜態
 後主は隋軍がやってくるのを聞くと大いに狼狽し、どこかに逃げ隠れようとした。すると袁憲は顔つきを厳しくして言った。
「北兵がやってきても陛下に手をかけることは絶対にありません。それに、もはや大勢は定まり、どこにも逃げ場所などありません! どうか正装して正殿に正座し、梁武(梁の武帝)が侯景と会った時の故事に倣われますよう(→549年〈2〉参照)。」
 帝は言った。
「賊は今戦ったばかりで殺気立っているゆえ、会うのはまだ早い。それに、朕にはいい考えがあるのだ。」
 かくて椅子から下り、宮女十余人を引き連れて後堂の景陽殿に赴き、井戸[1]の中に逃げ隠れようとした。袁憲夏侯公韻は何度も諌めたが聞き入れられなかった。そこで公韻が身を以て井戸を覆って入れないようにしたが、帝は〔諦める事なく〕暫くの間これと取っ組み合いして〔どかし〕、張貴妃・孔貴嬪と一緒に中に入った。憲はこれを見るとその場に伏して慟哭したのち去った。

 一方、沈后は居所(求賢殿)から逃げず、平然としていた。
 太子淵も十五歳という若さだったのに東宮から逃げず、太子舍人の孔伯魚一人を傍に置いてじっと座って隋兵を待ち受けた。やがて兵士が門を叩いて押し入ってくると、淵は〔臆することなく〕ゆったりと座りながら、伯魚に命じて彼らにこう労いの言葉をかけさせた。
「道中、さぞ苦労したであろう?」
 兵士たちは〔その堂々とした態度に〕みな敬意を抱いた。

 隋との戦いの際、建康にいる陳の宗室王侯は百余人を数えたが、帝は彼らが何か事変を起こす事を恐れ、みな呼び出して朝堂に住まわせ、豫章王叔英に密かに監視をさせていた。陳軍が敗れると、叔英は彼らを連れて投降した。

 擒虎軍は皇宮内で大略奪を行なった。
 間もなく夜になると、隋兵が井戸にやってきて中を覗き込み、誰かいないか声をかけた。しかし返事が無かったため石を落とそうとすると、ようやく中から叫び声が聞こえてきた。そこで縄を投げ入れて引っ張り上げたが、予想外の非常な重さに驚いた。〔そこで数人がかりで〕引っ張ると、後主張貴妃・孔貴嬪の三人が一緒に縄に掴まって出てきた。〔兵士たちはこれを見ると大いに笑った(南史演義)。〕
 隋の文帝はこれを聞くと大いに驚いた。
 開府の鮑宏は言った。
「東井(星座の一つ。今の双子座)は秦の分野に属し、今、王都(大興。もと長安)はその秦の地(関中)にございます。叔宝(後主)が井戸に身を投じたのは天意ではないでしょうか。」

 これより前、江東では王献之東晋の書家)が作った《桃葉辞》が大いに流行ったが、その文章にはこんな事が書かれていた。
「桃葉よ桃葉よ、川(秦淮河)を渡るのに檝(かい)はいらない。心配せずに渡ってきなさい、私がお前を迎えに行くから。」
『桃葉』は晋王広が駐屯したのは六合鎮にある桃葉山に応じ、広は陳が滅びると陳船に乗って長江を渡った。また、『迎えに行く』は韓擒虎が長江を渡ったのち、大将の任忠が投降して道案内をしたのに応じていた。

 また、陳の初めにこのような童歌が流行った。
『黄班青驄馬、寿陽の涘(ほとり)より発す。来たる時は冬気の末、去る日は春風の始め。』
『黄班』は韓擒虎の『虎』を指し、『青驄馬』は擒虎が乗っていた馬を指し、往反の時節はみな相い応じていた(擒虎は冬の終わりの12月末に建康遠征に向かい、春の初めの正月に帰った)。

 蔡東藩曰く…陳叔宝後主)の悪行は劉子業劉宋の前廃帝。後見人三人を殺害し、淫乱だった)や蕭宝巻南斉の廃帝、東昏侯。大臣を次々と殺害した)ほどではなく、子業は宗族を屠滅し(孝武帝の諸子を皆殺しにした明帝の誤り?)、宝巻は社会の秩序を乱したが、叔宝はそういった事はしなかった。ただ、叔宝は美しい妃にいれこみ、お気に入りの臣をえこひいきし、諌臣を殺害した。この悪行のうち一つ犯すだけでも国が滅ぶ可能性があるというのに、叔宝は三つとも犯してしまったのだから、陳が滅びたのも当然のことだった。隋軍が大挙として渡江し、長江沿岸の守備兵たちが次々と戦わずに逃げ散る中、叔宝はなおも政権を小人どもに委ね、音楽や女色に溺れ、戦うべき時に戦わず、戦うべきでない時に戦い、甚しきに至っては、敵が城下にいる時になお蕭摩訶の妻と姦通するのをやめなかった。このような淫乱な者がどうして滅ばずにいられるだろうか?

○資治通鑑
「北兵之入,必無所犯。大事如此,陛下去欲安之!臣願陛下正衣冠,御殿,依梁武帝見侯景故事。」…從宮人十餘後堂景陽殿。…【祝穆曰:景陽井在法寶寺。或云,白蓮閣下有小池,面方丈餘。或云,在保寧寺覽輝亭側。舊傳云:欄有石脈,以帛拭之,作臙脂痕,一名臙脂井,又名辱井。】
○陳・南史陳後主紀
 後主聞兵至,〔憲勸端坐殿上,正色以待之。後主曰:「鋒刃之下,未可及當,吾自有計。」乃〕從宮人十餘出後堂景陽殿,將自投于井,袁憲(二人)侍側,苦諫不從,後閤舍人夏侯公韻又以身蔽井,後主與爭久之,方得入焉。〔沈后居處如常。太子深年十五,閉閤而坐,舍人孔伯魚侍焉。戍士叩閤而入,深安坐勞之曰:「戎旅在塗,不至勞也。」〕及夜,〔既而軍人窺井而呼之,後主不應。欲下石,乃聞叫聲。以繩引之,驚其太重,及出,〕為隋軍所執。〔乃與張貴妃、孔貴人三人同乘而上。隋文帝聞之大驚。開府鮑宏曰:「東井上於天文為秦,今王都所在,投井其天意邪。」先是江東謠多唱王獻之桃葉辭,云:「桃葉復桃葉,度江不用檝,但度無所苦,我自接迎汝。」及晉王廣軍於六合鎮,其山名桃葉,果乘陳船而度。〕
○隋五行志詩妖
 陳初,有童謠曰:「黃班青驄馬,發自壽陽涘。來時冬氣末,去日春風始。」其後陳主果為韓擒所敗。擒本名擒獸,黃班之謂也。破建康之始,復乘青驄馬,往反時節皆相應。
 陳時,江南盛歌王獻之桃葉之詞曰:「桃葉復桃葉,渡江不用楫,但度無所苦,我自迎接汝。」晉王伐陳之始,置營桃葉山下,及韓擒渡江,大將任蠻奴至新林以導北軍之應。
○隋52韓擒虎伝
 遂平金陵,執陳主叔寶。時賀若弼亦有功。…先是,江東有謠歌曰:「黃斑青騘馬,發自壽陽涘,來時冬氣末,去日春風始。」皆不知所謂。擒本名豹,平陳之際,又乘青騘馬,往反時節與歌相應,至是方悟。
○陳24袁憲伝
 後主遑遽將避匿,憲正色曰:「北兵之入,必無所犯,大事如此,陛下安之。臣願陛下正衣冠,御前殿,依梁武見侯景故事。」後主不從,因下榻馳去,憲從後堂景陽殿入,後主投下井中,憲拜哭而出。
○陳28陳君範伝
〔鄱陽王伯山〕長子君範,太建中拜鄱陽國世子,尋為貞威將軍、晉陵太守,未襲爵而隋師至。是時宗室王侯在都者百餘人,後主恐其為變,乃竝召入,令屯朝堂,使豫章王叔英總督之,而又陰為之備。及六軍敗績,相率出降,因從後主入關。
○陳28豫章王叔英伝
 及六軍敗績,降于隋將韓擒虎。
○陳28・南65皇太子深伝
 三年,隋師濟江,六軍敗績,隋將韓擒虎自南掖門入,百僚逃(奔)散。深時年十餘歲,閉閤而坐,舍人孔伯魚侍焉,隋軍排閤而入,深使宣令勞之曰「軍旅在途(道),不乃勞也?」軍人咸〔致〕敬焉。
○陳7張貴妃伝
 及隋軍陷臺城,妃與後主俱入于井,隋軍出之。
○旧唐69侯君集伝
 近隋新義郡公韓擒虎平陳之日,縱士卒暴亂叔寶宮內,文帝亦不問罪。
○南史演義
 時隋兵入宮,執內侍問曰:「爾主何在?」內侍指井曰:「在是。」窺之正黑,呼之不應,欲下石,乃聞叫聲。以繩引之,怪其太重,及出,乃與張貴妃、孔貴嬪同束而上。眾大笑。
○南北史演義
 臺城已無守吏,一任隋軍馳入。韓擒虎既至殿中,令部眾搜尋叔寶,四覓無著,及見景陽井上,有繩系著,趨近探視,見下面有人懸住,連呼不應,乃拾石投入,才聞有號痛聲。原來井中水淺,不致溺斃,隋軍引繩而上,勢若甚重,經數人提起,始見有一男二女,男子便是陳叔寶,當然大喜,即牽送至韓擒虎處,聽候發落。…叔寶之惡,不如子業、寶卷之甚。子業屠滅宗族,寶卷瀆亂天倫,而叔寶無是也。但寵艷妃,嬖狎客,殺諫臣,有一於此,未或不亡,況並三者而具備耶。隋軍大舉,鼓檝渡江。沿江各戍,望風奔潰,叔寶尚委政宵小,恣情聲色,可戰不戰,不可戰而戰,甚至敵臨城下,猶奸通蕭摩訶妻,如此淫肆,欲不亡得乎?

 [1]祝穆の《方輿勝覧》曰く、『景陽井は法華(胡注では『宝』。建康の近北)寺にある。またの名を胭脂井・辱井という。
 ⑴張貴妃…張貴妃…名は麗華。生年560、時に30歳。貧しい兵家の娘。容姿端麗で漆黒の七尺の長髪と聡明な精神を備え、立ち居振る舞いに品があった。後主が太子とされた時(569年)に龔貴嬪の給仕として後宮に入り、のち一目で気に入られて寵愛を受け、妊娠して陳淵を産んだ(575年)。帝が即位すると貴妃とされた。話上手で記憶力に優れ、帝の気持ちを良く汲み取る事ができた。また、気遣いができたため他の宮女からの評判も良かった。584年、後主が臨春・結綺 ・望仙の三閣を建てると結綺閣に住んだ。588年、子の淵が太子とされた。589年(2)参照。
 ⑵孔貴嬪…陳の後主に寵愛を受け、第十子の呉郡王蕃を産んだ。584年、望仙閣が建てられるとそこに住んだ。都官尚書の孔範と義兄妹の関係を結んだ。589年(2)参照。
 ⑶沈后…沈婺華。陳の尚書右僕射・領吏部・駙馬都尉の沈君理(525~573)の娘。母は陳の武帝の娘の会稽穆公主。幼い時に母が亡くなると非常に嘆き悲しみ、喪が明けた後も毎月の一日と十五日に一人位牌の前に座って涙を流した。お淑やかで欲が薄く、識見と度量があり、聡明で記憶力に優れ、大の読書家で立派な文章を書いた。569年、太子叔宝(のちの後主)の妃とされた。叔宝に嫌われ、叔宝が即位して後主となると求賢殿に別居して暮らした。倹約に努め、読書や読経をして過ごし、何度も帝を諌めた。子が無かったため、孫姫の子の陳胤を引き取って養子とした。588年(1)参照。
 ⑷太子淵…字は承源。生年575、時に15歳。後主の第四子。若年の頃から頭が良く、志操堅固で、立ち居振る舞いには威厳があり、いつも傍にいる従者でさえ彼の感情の変化を見た事が無かった。張貴妃の子であることを以て帝に特に可愛がられた。583年、始安王とされた。588年、陳胤に代わって太子とされた。588年(1)参照。
 ⑸豫章王叔英…字は子烈。宣帝の第三子。後主の異母弟。母は曹淑華。幼少の頃からおおらかで優しかった。560年に建安侯とされ、569年に都督東揚州諸軍事・東揚州刺史・豫章王とされた。法律を守らず、人や馬を勝手に自分のものにしたため、弾劾を受けて官位を剥奪された。573~4年、南徐州刺史とされた。579年、江州刺史とされた。582年に後主が即位すると征南将軍・開府儀同三司とされた。583年、中衛大将軍とされた。586年、驃騎将軍とされた。587年、驃騎大将軍・司空(司徒?)とされた。589年、隋が侵攻してくると知石頭軍戍事とされ、間もなく朝堂の守備を任された。589年(1)参照。
 ⑹隋の文帝…楊堅。普六茹堅。幼名は那羅延。生年541、時に49歳。隋の初代皇帝。在位581~。父は故・隨国公の楊忠。母は呂苦桃。妻は独孤伽羅。落ち着いていて威厳があった。若い頃は不良で、書物に詳しくなかった。振る舞いはもっさりとしていたが、優れた頭脳を有した。宇文泰に「この子の容姿は並外れている」と評され、名観相家の趙昭に「天下の君主になるべきお方だが、天下を取るには必ず大規模な誅殺を行なわないといけない」と評された。また、非常な孝行者だった。晋公護と距離を置き、憎まれた。568年に父が死ぬと跡を継いで隨国公とされた。573年、長女が太子贇(のちの宣帝)に嫁いだ。575年の北斉討伐の際には水軍三万を率いて北斉軍を河橋に破った。576年の北斉討伐の際には右三軍総管とされた。577年、任城王湝と広寧王孝珩が鄴に侵攻すると、斉王憲と共にこれを討伐した。のち定州総管とされた。577年、南兗州(亳州)総管とされた。578年、宣帝が即位すると舅ということで上柱国・大司馬とされた。579年、大後丞→大前疑とされた。580年、揚州総管とされたが、足の病気のため長安に留まった。間もなく天元帝が亡くなるとその寵臣の鄭訳らに擁立され、左大丞相となった。間もなく尉遅迥の挙兵に遭ったが、わずか68日で平定に成功した。間もなく大丞相とされた。581年、禅譲を受けて隋を建国した。583年、大興に遷都し、北伐を行なって突厥を大破した。また、天下の諸郡を廃した。585年、功臣の王誼を自殺させた。義倉を設置した。突厥の沙鉢略可汗を臣従させた。587年、後梁を滅ぼした。588年、陳討伐の軍を起こした。589年(1)参照。
 ⑺鮑宏…字は潤身。もと梁の臣。兄は鮑泉。文才があり、湘東王繹(のちの梁の元帝)に気に入られて中記室とされた。西魏が江陵が陥とすと長安に連行された。のち、北周の明帝から非常な礼遇を受け、麟趾殿学士とされた。のち、次第に昇進して遂伯下大夫とされ、陳に使者として赴き、北斉攻めの約束を取り付けた。武帝が北斉を攻める際、洛陽よりも晋陽を攻めるべきだと進言した。北斉を滅ぼしたのち、少御正・上儀同とされた。580年、使者として潼州に赴いた際、可頻謙に捕らえられたが、従う事を拒否した。謙が敗れると解放され、楊堅(のちの隋の文帝)に金帯を褒賞として与えられた。隋が建国されると開府・利州刺史・公とされ、のち卭州刺史とされた。580年(5)参照。
 ⑻《古今楽録》曰く、『桃葉歌は晋の王子敬(献之の字)が作ったものである。桃葉は子敬が深く愛していた妾の名である。』

┃最後の抵抗
 一方、賀若弼は陳軍を大破したのち、勝利の勢いに乗じて〔建康の東北の〕楽遊園に到った。魯広達はこの時まだ残兵を率いて戦い続け、首級・捕虜数百人を得たが、日が暮れると武器を捨てて抵抗をやめ、宮城の方を向いて再拝して慟哭し、部下にこう言った。
「私は国家を救うことができなかった! その罪はまことに深い!」
 兵士たちはみな涙を流し、啜り泣いた。ここにおいて広達は従容と縛に就いた。

 広達軍には楊孝弁という隊主がおり、この一連の戦いにおいて子と共に奮戦し、自ら刃を振るって隋兵十余人を殺傷したが、やがて力尽き、父子ともに戦死した。

○陳後主紀
 弼乘勝至樂遊苑,魯廣達猶督散兵力戰,不能拒。
○陳31魯広達伝
 及弼攻敗諸將,乘勝至宮城,燒北掖門,廣達猶督餘兵,苦戰不息,斬獲數十百人。會日暮,乃解甲,面臺再拜慟哭,謂眾曰:「我身不能救國,負罪深矣。」士卒皆涕泣歔欷,於是乃就執。…廣達有隊主楊孝辯,時從廣達在軍中,力戰陷陣,其子亦隨孝辯,揮刃殺隋兵十餘人,力窮,父子俱死。

 ⑴賀若弼…字は輔伯。生年544、時に46歳。父は北周の開府・中州刺史の賀若敦。若年の頃から気骨があり文武に才能があった。父が愚痴を言って晋公護の怒りを買い、自殺させられた際、江南平定の夢を託された。また、錐で舌を刺されて口を慎むよう戒められた。のち斉王憲に用いられて記室とされ、間もなく当亭県公・小内史とされた。烏丸軌(王軌)と一緒に太子贇(天元帝)の悪行を告発した時、途中で態度を変えて軌に詰られた。579年の淮南平定の際には多くの計策を立てて成功に大きく貢献し、その功により揚州総管・揚州刺史とされ、襄邑県公に改められた。尉遅迥が挙兵したのに乗じて陳が侵攻してくるとこれを撃退したが、丞相の楊堅(のちの隋の文帝)に疑われて無理矢理交代させられた。581年、呉州総管とされた。「騏驎〔閣〕上に我ら二人の名を無からしむるなかれ」と気概を持ち、陳攻略十策を進言して帝に褒め称えられ、宝刀を授けられた。589年、行軍総管とされて陳討伐に赴き、長江を渡って南徐州を陥とし、白土岡にて陳軍を大破した。589年(2)参照。
 ⑵魯広達…字は遍覧。群雄の魯悉達の弟。生年約531、時に約59歳。王僧弁の侯景討伐に従軍した。562年、周迪討伐に参加し、一番の武功を立てて呉州刺史とされた。567年、南豫州刺史とされた。華皎との決戦の際には先陣を切って奮戦し、戦後に巴州刺史とされた。570年、青泥にある後梁・北周の船を焼き払った。巴州では善政を行ない、官民の請願によって任期が二年延長された。北伐では大峴城にて北斉軍を大破し、西楚州を陥として北徐州刺史とされた。のち右衛将軍とされ、576年に北兗州刺史とされ、のち晋州刺史とされた。578年、合州刺史とされた。のち仁威将軍・右衛将軍とされ、579年、北周が淮南に侵攻してくると救援に赴いたが何もできずに引き返し、免官とされた。580年、北周の郭黙城を陥とした。間もなく平西将軍・都督郢州以上十州諸軍事とされ、隋の南伐時には溳口を守備したが、元景山に敗れ逃走した。のち(?)都督縁江諸軍事とされた。582年、安左将軍とされた。583年、平南将軍・南豫州刺史とされた。584年、安南将軍とされた。間もなく中央に呼ばれて侍中・安左将軍・綏越郡公とされた。周羅睺が讒言されると弁護した。588年、中領軍とされた。589年、隋軍が建康に迫ると都督とされ、白土岡の南を守備した。白土岡の決戦では奮戦し、賀若弼を一時退けた。589年(2)参照。

┃賀若弼入城
 陳の諸門の衛士たちは〔軍の敗北を聞くと〕みな逃げ去った。賀若弼の行軍総管の黄昕は建康城下に馳せ到り、夜に北掖門に火を放って城内に侵入した
 しかし、この時既に韓擒虎陳叔宝後主)を捕らえてしまっていた。弼は建康に到ってこの事を知ると叔宝を呼びつけ、叔宝かどうか確認した。叔宝は恐懼して冷や汗を流し、震えながら弼に再拝した。弼は叔宝に言った。
「小国の君主は大国の大臣に相当するゆえ、私に拝礼をするのは礼儀にかなっている。また、都に行っても帰命侯[1]とされるのは間違いないゆえ、びくびくする事はない。」
 間もなく弼は叔宝を捕らえられなかった事で功が擒虎よりも下になるのに気づいて憤懣やる方なく、ここにおいて擒虎と口論になり、刀を抜き放って睨み合った。それから部屋から出ると蔡徴に叔宝の投降書を作らせ、騾馬が引く車に乗せて自分の軍営に投降しに来させようとしたが、結局果たせずに終わった。

○資治通鑑
 諸門衛皆走,弼燒北掖門入。韓擒虎已得陳叔寶。…弼謂之曰:「小國之君當大國之卿,拜乃禮也。」
○陳後主紀
 弼進攻宮城,燒北掖門。
○隋52韓擒虎伝
 弼至夕,方扣北掖門,臣啟關而納之。
○隋52・北68賀若弼伝
 從北掖門而入。時韓擒已執陳叔寶。弼至,呼叔寶視之。叔寶惶懼流汗,股慄再拜。弼謂之曰:「小國之君,當大國卿,拜,禮也。入朝不失作歸命侯,無勞恐懼。」既而弼恚恨不獲叔寶,功在韓擒之後,於是與擒相訽,挺刃而出。〔令蔡徵為叔寶作降牋,命乘騾車歸己,事不果。〕
○南67蕭摩訶伝
 諸門衞皆走,黃昕馳燒北掖門而入。

 ⑴韓擒虎の上奏文には『弼が夕方になってようやく北掖門を叩いたので、臣(擒虎)は門を開いてこれを城内に入れた』とある。
 [1]帰命侯…孫皓が西晋に降った時、帰命侯とされた。
 ⑵騾車に乗せて…《晋諸公賛》曰く、『劉禅が鄧艾に降った時、騾馬が引く車に乗って出向いた』とある。

┃和解
 賀若弼陳叔宝を徳教殿に置き、兵に監視させた。この時、蕭摩訶が弼にこう願い出て言った。
「今、私は虜囚の身となり、いつ死んでもおかしくありません。どうか一度旧主に会わせてください。さすれば、死んでも心残りはございません。」
 弼は憐れに思ってこれを許した。摩訶は叔宝に会うとひれ伏して号泣し、次いでもと宮殿の厨房から食事を取ってきた食事を進めたのち、別れの言葉を述べて去った。これを見ていた衛兵たちはみな涙を流し、顔を上げられる者はいなかった。隋の文帝は摩訶が弼に意見したのを聞いてこう言った。
「壮士である。これまた御しがたい人物であるな。」

○陳31・南67蕭摩訶伝
 及京城陷,賀若弼置後主於德教殿,令兵衛守,摩訶請弼曰:「今為囚虜,命在斯須,願得一見舊主,死無所恨。」弼哀而許之。摩訶入見後主,俯伏號泣,仍於舊廚取食而進之,辭訣而出,守衛者皆不能仰視。〔隋文帝聞摩訶抗答賀若弼,曰:「壯士也,此亦人之所難。」

 ⑴蕭摩訶…字は元胤。生年532、時に58歳。口数が少なく、穏やかで謙虚な性格だったが、戦場に出ると闘志満々の無敵の猛将となった。もと梁末の群雄の蔡路養の配下で、陳覇先(陳の武帝)が路養と戦った際(550年)、少年の身ながら単騎で覇先軍に突撃して大いに武勇を示した。路養が敗れると降伏し、覇先の武将の侯安都の配下とされた。556年、幕府山南の決戦では落馬した安都を救う大功を挙げた。のち留異・欧陽紇の乱平定に貢献し、巴山太守とされた。573年、北伐に参加すると、北斉の勇士を次々と討ち取って決戦を勝利に導く大功を挙げた。その後も数々の戦功を立てた。578年、呉明徹が大敗を喫した際、騎兵を率いて包囲を突破した。579年、北周が淮南に侵攻してくると歴陽に赴いたが、結局何もできずに引き返した。北周が乱れると和州・呉州に侵攻したが撃退された。581年、長江以北の地を攻めた。582年、宣帝が死に、始興王叔陵が叛乱を起こすと後主に付き、平定に大きく貢献した。この功により車騎大将軍・南徐州刺史・綏建郡公とされ、更に叔陵が蓄えていた巨万の金帛を全て与えられた。587年、侍中・驃騎大将軍・左光禄大夫とされ、特別に黄色の門と門前の馬柵、庁舎と官邸に鴟尾を使用することを許された。また、娘が皇太子妃とされた。薛道衡に大したことが無いと評された。589年、隋軍が建康に迫ると皇畿大都督とされた。妻を後主に寝取られたため白土岡の決戦では積極的に戦わず、敗北して捕らえられた。589年(2)参照。
 ⑵もう後主に妻と密通されることは無くなったため、感情のしこりの部分が無くなり、決戦の際に積極的に戦わなかった悔恨だけが残ったのだろうか。

┃張貴妃の死
 建康が陥落すると、元帥府長史の高熲が行軍元帥の晋王広に先んじて建康に入った。
 この時、熲の次子の高弘徳《通鑑》では徳弘)は広の記室参軍を務めていた。広は弘徳を熲のもとに急派し、叔宝のもと貴妃の張麗華を妃にしたい旨を伝えた。すると熲は言った。
「昔、太公望は顔を覆い隠して妲己殷の紂王の妃。美貌で紂王をたぶらかした悪女とされる)を斬ったというのに、今どうして麗華を生かす事ができようか!」
 かくて麗華を斬首し、青溪(蒋山から建康の東を通って秦淮河に流れる水路。241年開削)中橋にぶら下げて晒した。弘徳が帰ってこの事を報告すると、広は怒って言った。
「昔の人はこう言った。『徳(恩義)には報いざること無し』(《詩経》大雅抑)と。私はきっと高公に報いることだろう!」
 以後、広は熲を恨むようになった[1]

○資治通鑑
 高熲先入建康,熲子德弘為晉王廣記室,廣使德弘馳詣熲所,令留張麗華,熲曰:「昔太公蒙面以斬妲己,今豈可留麗華!」乃斬之於青溪。德弘還報,廣變色曰:「昔人云,『無德不報』,【詩大雅抑之辭】我必有以報高公矣!」由是恨熲【使高熲留麗華而廣納之,文帝必怒,安得成他日奪嫡之謀,是誠宜德之也,顧恨之邪!史為廣殺熲張本】。
○隋41高熲伝
 及陳平,晉王欲納陳主寵姬張麗華。熲曰:「武王滅殷,戮妲己。今平陳國,不宜取麗華。」乃命斬之,王甚不悅。…其子盛道,官至莒州刺史,徙柳城而卒。次弘德,封應國公,晉王府記室。
○陳7張貴妃伝
 晉王廣命斬貴妃,牓於青溪中橋。

 ⑴高熲…字は昭玄。独孤熲。生年541、時に49歳。またの名を敏という。父は北周の開府・治襄州総管府司録の高賓。幼少の頃から利発で器量があり、非常な読書家で、文才に優れた。武帝の治世時(560~578)に内史下大夫とされた。のち、北斉討平の功を以て開府とされた。578年、稽胡が乱を起こすと越王盛の指揮のもとこれを討平した。この時、稽胡の地に文武に優れた者を置いて鎮守するよう意見して聞き入れられた。楊堅が丞相となり、登用を持ちかけられると欣然としてこれを受け入れ、相府司録とされた。尉遅迥討伐軍に迥の買収疑惑が持ち上がると、監軍とされて真贋の見極めを行ない、良く軍を指揮して勝利に導いた。この功により柱国・相府司馬・義寧県公とされた。堅が即位して文帝となると尚書左僕射・兼納言・渤海郡公とされた。帝に常に『独孤』とだけ呼ばれ、名を呼ばれないという特別待遇を受けた。左僕射の官を蘇威に譲ったがすぐに復職を命ぜられた。また、新律の制定に携わった。間もなく伐陳の総指揮を任された。陳の宣帝が死ぬと喪中に攻め込むのは礼儀に悖るとして中止を進言し聞き入れられた。のち北辺に赴いて突厥対策に当たった。間もなく営新都大監とされ、新都の建設の差配を行なった。間もなく行軍元帥とされ、寧州道より討伐に赴いた。585年、左領軍(十二軍の戸籍・賦役・訴訟を司る)大将軍とされ、輸籍法を提案した。また、宇文忻に兵権を与えぬよう進言した。587年頃に阿波可汗が捕らえられると生かすよう進言した。後梁を廃した際には長江・漢水一帯の地の安撫を任された。588年、元帥府長史とされて陳討伐に赴き、実際の総指揮を執った。588年(3)参照。
 ⑵晋王広…楊広。別名は英、幼名は阿〔麻+女〕。生年569、時に21歳。隋の文帝の第二子。母は独孤伽羅。美男で幼少の頃から利発で、学問を好み、文才に優れ、落ち着いていて威厳があり、上辺を飾るのが上手かったので、両親から特に可愛がられ、官民からも将来を期待された。北周の代に父の勲功によって雁門郡公とされた。帝が即位すると晋王・并州総管とされた。582年、上柱国・河北道行台尚書令とされた。目付役の王韶を恐れはばかり、常に可否を尋ねてから行動した。韶の出張中に壮大な庭園を作ろうとしたが、帰ってきた韶に諌められると非を認めて工事を中止した。また、後梁の明帝の娘を妃とした。584年、突厥が和平を求めてくると、弱っているのに乗じて攻め込むよう進言したが、聞き入れられなかった。文帝が蘭陵公主の再婚先を探した時、自分の妃の弟の後梁の義安王瑒に嫁がせるよう進言し、聞き入れられた。585年、沙鉢略可汗の救援に当たった。586年、雍州牧とされた。588年、淮南道行台尚書令・行軍元帥とされ、陳討伐の総指揮官とされた。589年(1)参照。
 ⑶陳7張貴妃伝では晋王広の命令という事になっている。こちらが事実のような気もする。
 [1]高熲がもし麗華を生かし、広がこれを妃とすれば、文帝に必ず激怒され、のちの奪嫡の謀も成功しなかっただろう。これこそまことに徳(恩義)に感じるべきものであるのに、どうして却って逆恨みしてしまったのだろうか!

┃五佞誅戮


 丙戌(正月22日)晋王広が建康に入城した。
 広は陳の湘州刺史の施文慶・散騎常侍の沈客卿・太市令の陽恵朗・刑法監の徐哲・尚書金倉都令史の暨慧景を『陳の五佞人』と称して捕らえ、文慶を『信任を受けたのに不忠で、本心を隠しておもねりへつらい、陳叔宝の耳目を覆って誤らせた』罪で、客卿を『民から搾取して歳入を増やし、叔宝を増長させた』罪で、慧朗・哲・慧景を『民を苦しめた』罪でみな石闕の下にて斬首し、江南の人心の収攬を図った。

 また、広は高熲と元帥府記室の裴世矩に陳が所蔵していた図書を接収させたが、財物が入っている蔵には封印をして一切手を出さなかったので、天下の人々から賢明さを称賛された。

○隋煬帝紀
 及陳平,執陳湘州刺史施文慶、散騎常侍沈客卿、市令陽慧朗、刑法監徐析【[三]南史沈客卿傳作「哲」】、尚書都令史暨慧,以其邪佞,有害於民,斬之右闕下,以謝三吳。於是封府庫,資財無所取,天下稱賢。
○陳後主紀
 景戌,晉王廣入據京城。
○隋67裴矩伝
 既破丹陽,晉王廣令矩與高熲收陳圖籍。
○陳31・南77施文慶伝
 陳亡,〔隋晉王廣以文慶受委不忠,曲為諂佞,以蔽耳目,比黨數人,〕並戮之於前(石)闕〔前斬之,以謝百姓。〕
○南77沈客卿伝
 臺城失守,隋晉王以客卿重賦厚斂,以悅於上,與文慶、暨慧景、陽惠朗等,俱斬於石闕前。
○南77徐哲伝
 徐哲,不知何許人,施文慶引為制局監,掌刑法,亦與客卿同誅。

 ⑴施文慶…呉興烏程の人。微賤の吏門の出。頭の回転が速く記憶力が良く、勉強家・読書家だった。太子時代の後主に仕えて事務処理能力を認められ、主書(東宮主書?もしくは即位後の中書主書?)に抜擢され、帝が即位すると中書舍人とされた。この時、始興王叔陵が乱を起こし、隋軍が国境に迫るという難局にあり、迅速な事務処理が求められたが、これを良く取り捌いてみせたので、帝から寵用を受けるに至った。また、宣帝が即位して以降弛緩していた政治を引き締め直し、官吏たちに全力で仕事に当たらせた。沈客卿らを推挙した功により、朝廷内外の事務を一任された。のち太子左衛率とされ、舍人はそのままとされた。585年頃、傅縡を死に追いやった。588年、湘州刺史とされたが、赴任する前に隋の侵攻に遭い、沙汰止みにならないよう後主に非常事態ではないと嘘をついて警戒を怠らせた。隋軍が上陸してくると大監軍とされた。自分を憎んでいる諸将が功を立てるのを恐れ、帝に彼らの言葉を聞き入れないよう進言した。白土岡の決戦の前に楽游苑に駐屯するよう命じられた。589年(2)参照。
 ⑵沈客卿…呉興郡武康県の人。美男で頭が良く、弁才があり読書家で、施文慶と幼馴染で仲が良かった。陳に仕え、次第に昇進して尚書儀曹郎とされた。非常に故事に通じ、人々が朝廷の制度や儀礼で判断に迷うことがあると自分の意見を押し通した。至徳年間(583~586)の初めに中書舍人・兼步兵校尉とされ、金帛局(中書省二十一局の一つ)を司った。後主が宮殿の造営を盛んに行なうなどして財政が悪化すると、そのつど臨時の税を作って人民から搾り取ることに血道を上げ、結果、税収をこれまでの数十倍にした。これにより帝に大いに気に入られて左衛将軍とされ、舍人はそのままとされた。白土岡の決戦の前、文慶を宮外に出して政権を一手に収めた。589年(2)参照。
 ⑶陽恵朗…下級官吏を出す低い家柄の出。沈客卿に登用を受けて太市令とされた。細々とした事にあくせくして大局観が無く、帳簿に全く誤りが無いように厳しく追及・督促して税金を取り立てる事にのみ精を出したので、官民から大いに怨まれた。歳収をこれまでの数十倍にし、その功により奉朝請とされた。584年(3)参照。
 ⑷徐哲…出身不詳。施文慶に登用されて制局監とされ、刑法を司った。584年(3)参照。
 ⑸暨慧景…下級官吏を出す低い家柄の出。沈客卿に登用を受けて尚書金・倉都令史とされた。細々とした事にあくせくして大局観が無く、帳簿に全く誤りが無いように厳しく追及・督促して税金を取り立てる事にのみ精を出したので、官民から大いに怨まれた。歳収をこれまでの数十倍にし、その功により奉朝請とされた。584年(3)参照。
 ⑹裴世矩…字は弘大。名門の河東聞喜裴氏の人。祖父は北魏の荊州刺史の裴他。父は北斉の太子舍人の裴訥之。赤子の時に父を喪ったが挫けることなく、学問に励み、詩文を非常に好む頭の切れる青年になった。北斉に仕えて高平王文学とされ、北斉が滅ぶと無職となったが、隋の文帝が北周の定州総管とされると(577年)招かれて記室参軍とされ、非常な親愛と礼敬を受けた。帝が丞相となると(580年)急いで呼び出され、参相府記室事とされた。隋が建国されると(581年)給事郎・奏舍人事とされた。伐陳の際には晋王広の元帥府記室参軍とされた。588年(2)参照。

┃褒詔
 晋王広賀若弼が軍命に違反して期日よりも早く決戦したのを咎め、逮捕して刑吏の手に委ねた。
 文帝は早馬を晋王広のもとに送り、弼と韓擒虎を呼び寄せた。また、詔を下して言った。
賀若弼韓擒虎の二公は共に深謀大略を有し、東南の賊徒対策を任されると、良く辺境を守り民の暮らしを安定させ、ことごとく朕の期待に沿った。九州(中国)が統一されぬこと既に数百年の長きに亘ったが、彼ら名臣の功によって遂に太平の業を成す事ができた。天下の盛事も、これ以上の物は無いであろう! 朕は平定の報を聞くや嬉しくて嬉しくて堪らなかった。江南を平定できたのは、まことに二人のおかげである!」
 かくて二人に反物一万段を与えた。また、褒詔を送って言った。
「国威を万里の先まで轟かし、教化を江南の一隅にまで広め、東南の民たちを艱難辛苦より救い、数百年に亘ってのさばった賊徒を旬日(短時日)にして一掃したのは、公ら二人だけの功績である。ここまで名声が宇宙(天地)に満ち満ち、盛んなる功業が天壌(天地)に光り輝いたのは、古今を通じて見ても稀である。公らが凱旋する日はそう遠くないのは知っているが、余りに会いたい気持ちが強すぎて、ほんのわずかな時間でも一年のように待ち遠しく感じられる。」

○資治通鑑
 違軍令,以屬吏。上驛召之,詔廣曰:「平定江表,弼與韓擒虎之力也。」
○隋52韓擒虎伝
 遂平金陵,執陳主叔寶。時賀若弼亦有功。乃下詔於晉王曰:「此二公者,深謀大略,東南逋寇,朕本委之,靜地恤民,悉如朕意。九州不一,已數百年,以名臣之功,成太平之業,天下盛事,何用過此!聞以欣然,實深慶快。平定江表,二人之力也。」賜物萬段。又下優詔於擒、弼曰:「申國威於萬里,宣朝化於一隅,使東南之民俱出湯火,數百年寇旬日廓清,專是公之功也。高名塞於宇宙,盛業光於天壤,逖聽前古,罕聞其匹。班師凱入,誠知非遠,相思之甚,寸陰若歲。」
○隋52賀若弼伝
 上聞弼有功,大悅,下詔褒揚,語在韓擒傳。晉王以弼先期決戰,違軍命,於是以弼屬吏。上驛召之。

┃復讐
 陳が滅びると、隋の開府の王頒は密かに父(梁の太尉の王僧弁。555年に陳覇先〈陳の武帝〉に殺された)に仕えた兵士たちを呼び集めた。千余人がこれに応えて集まると、頒は彼らの前で涙を流した。その内の壮士の一人が頒にこう尋ねて言った。
「郎君は陳国を滅ぼし、復讐を果たされたはずであります。それなのに悲しみがやまないのは、真の仇である覇先(→555年〈3〉参照)が既に死んでいて(559年没)、自ら手を下す事ができなかったからではありませんか? それならば、代わりにその墓(万安陵)を暴き、棺を斬って骨を焼いてはいかがでしょうか。さすれば、〔鬱憤を晴らす事もできるし、〕孝心を天下に示す事もできましょう。」
 頒は額を地に打ちつけて感謝し、額全てから血を流しながらこう答えて言った。
「帝王の陵墓というのは非常に大きいゆえ、一夜で屍の所まで掘る事ができずに朝を迎え、失敗してしまう危険性がある。どうしたらいいだろうか?」
 兵士たちは鍬(クワ)や鋤(スキ。スコップ)などの工具を用意するように求め、一日で全員ぶんを集め終わった。かくて夜に覇先の陵墓を発掘すると、見事に棺を探し当てることに成功した。頒がこれを切り開きくと、覇先の屍から髭は抜け落ちておらず、みな骨の中から出ていた。頒は骨を焼いて灰にし、これを水に入れて飲みほした。それから間もなく自ら縛に就き、晋王広に自首した。広がこれを文帝に報告すると、帝はこう言った。
「朕は〔江南の民を救うという〕義心に突き動かされて陳を平定した。王頒のやった事も孝から出た義心に突き動かされたものである。朕はこれを処罰する事はできぬ!」
 かくて釈放して不問とした。

 また、帝は陳の高祖文帝)・世祖文帝)・高宗宣帝)の陵墓(文帝は永寧陵、宣帝は顕寧陵)を五戸の家に手分けして守らせた。

○南史陳後主紀
 隋文帝詔陳武、文、宣三帝陵,總給五戶分守之。
○隋72王頒伝
 及陳滅,頒密召父時士卒,得千餘人,對之涕泣。其間壯士或問頒曰:「郎君來破陳國,滅其社稷,讎恥已雪,而悲哀不止者,將為霸先早死,不得手刃之邪?請發其丘壟,斵櫬焚骨,亦可申孝心矣。」頒頓顙陳謝,額盡流血,答之曰:「其為帝王,墳塋甚大,恐一宵發掘,不及其屍,更至明朝,事乃彰露,若之何?」諸人請具鍫鍤,一旦皆萃。於是夜發其陵,剖棺,見陳武帝鬚並不落,其本皆出自骨中。頒遂焚骨取灰,投水而飲之。既而自縳,歸罪於晉王。王表其狀,高祖曰:「朕以義平陳,王頒所為,亦孝義之道也,朕何忍罪之!」舍而不問。

 ⑴王頒…字は景彦。梁の太尉の王僧弁の子。若年の頃から才気並み外れ、文武に優れた。父の僧弁が侯景の平定に赴く際(551年)、人質として江陵に留められ、江陵が西魏に陥とされると関中に連行された。のち、父が陳覇先に殺された(555年)のを聞くと、泣き叫んで気絶した。間もなく目を覚ましたものの、絶え間なく泣き続け、骨と皮だけになるまで痩せ細った。喪が開けたのちも常に質素な生活を続け、藁の上で眠った。のち、儀同・漢中太守とされた。隋が建国されると蛮族平定に功を挙げ開府・蛇丘県公とされた。のち、取陳の策を献じると、文帝にその内容の非凡さを認められて呼び出され、直接話をした。陳討伐が実施されると参加を志願して許され、数百人の兵を率いて韓擒虎軍の先鋒を務めた。上陸戦の時に奮戦し、重傷を負ったが、薬を貰う夢を見ると痛くなくなった。589年(1)参照。
 
┃許善心の忠義
〔これより前、隋の文帝は陳使の許善心を陳に帰さず、客館に拘留していた(→588年〈2〉参照)。〕陳が滅亡すると、帝は善心に陳が滅亡した事を伝えた。すると善心は喪服を着て宮殿に到り、西階の下にて泣き叫んだのち、草を敷いてそこに東向きに座って(建康は大興の東南方にある)三日三晩〔泣き続けた〕。帝は勅書を下してその心を慰めた。翌日、また詔を下して客舘に戻るよう命じた。また、通直散騎常侍とし、朝服一式を与えた。善心は慟哭して悲しみを尽くしたのち、部屋に入って朝服に着替え、今度は北面して立ち、涙を流しながら再拝して詔を受けた。翌日、参内すると、階下にてひれふして涙を流し、悲しみの余り起き上がることができなかった。帝は傍の者にこう言った。
「朕は陳国を平定し、ただこの人のみを得た。ここまで旧君の事を想うなら、これからはきっと朕にも忠義を尽くしてくれる事であろう。」
 かくて本官を以て門下省の職務に当たらせた[1]。また、反物千段・草馬(牝馬)二十頭を与えた。

○隋58許善心伝
 及陳亡,高祖遣使告之。善心衰服號哭於西階之下,藉草東向,經三日。勑書唁焉。明日,有詔就舘,拜通直散騎常侍,賜衣一襲。善心哭盡哀,入房改服,復出北面立,垂涕再拜受詔。明日乃朝,伏泣於殿下,悲不能興。上顧左右曰:「我平陳國,唯獲此人。既能懷其舊君,即是我誠臣也。」勑以本官直門下省,賜物千段,草馬二十匹。

 ⑴許善心…字は務本。生年558、時に31歳。高陽許氏の出。父は陳の衛尉卿の許亨。九歲の時に父を亡くすと(570年。13歳?)、母の范氏に養育された。幼い頃から利発で、論理的に考える事ができ、聞けばすぐに暗誦する事ができた。また、家にあった万余巻の蔵書を全て読破した。ある時、父の友人の徐陵に手紙を渡すと、「この子の文才は極めて優れている。神童である」と絶賛された。のち太子詹事の江総に秀才に挙げられ、試験で優秀な成績を修めた事で度支郎中とされた。のち侍郎・撰史学士とされた。588年、兼通直散騎常侍とされて隋に使者として赴いたが、ちょうど隋が伐陳を始めようとしていた頃だったため、客館に拘留された。588年(2)参照。
 ⑵西階…《礼記》曲礼上曰く、『主人は東階より、客人は西階より登る。』
 [1]通直散騎常侍はもともと門下省に属している。


 589年⑷に続く