[西魏:恭帝二年 北斉:天保六年 梁(蕭方智):承聖四年→紹泰元年 梁(蕭詧):大定元年 梁(蕭淵明):天成元年]

┃陳覇先、野心を抱く
 王僧弁は〔司空・南徐州刺史の〕陳覇先と共に侯景を滅ぼして以降、覇先に非常な好意を抱き、廉頗・藺相如のような関係(刎頸の交わり)を結んだ。ある時、僧弁は第三子の王頠と覇先の娘を結婚させようとしたが、たまたま僧弁の母が亡くなり、喪中となったことで立ち消えとなった。しかし友好の感情は変わらず、以前のようにまごころを以て覇先に接した。僧弁の長子の王顗は〔覇先を警戒するよう〕何度も忠告したが、聞き入れられなかった。
 僧弁が貞陽侯淵明天成帝)を迎え入れた時、覇先は何度も使者を派して諌めたが、聞き入れられなかった。覇先は憤りを禁じ得ず、密かに近親の者にこう言った。
武帝の子孫は甚だ多く、天下に藩屏として広く配されたが、帝の仇を討って恥を雪ぎ、国の危難を救ったのはただ元帝のみだった。その功業はまさに、前代未聞の素晴らしいものであった。それなのに、王公(僧弁)はその子息(晋安王方智)を罪無くして廃し、夷狄からやってきた正統でない者を後継に立てた。王公は元帝より重任を託されながら、幾ばくもせずこのような異図を抱いたのである。王公の叛志は明らかだ。」
 かくて密かに数千着の上衣と錦綵・金銀などの賞賜品を用意し〔、僧弁を討つ準備を進め〕た[1]


○陳武帝紀
 初,齊之請納貞陽也,高祖以為不可,遣使詣僧辯苦爭之,往返數四,僧辯竟不從。高祖居常憤歎,密謂所親曰:「武皇雖磐石之宗,遠布四海,至於剋雪讎恥,寧濟艱難,唯孝元而已,功業茂盛,前代未聞。我與王公俱受重寄,語未絕音,聲猶在耳,豈期一旦便有異圖。嗣主高祖之孫,元皇之子,海內屬目,天下宅心,竟有何辜,坐致廢黜,遠求夷狄,假立非次,觀其此情,亦可知矣。」乃密具袍數千領,及錦綵金銀,以為賞賜之具(資)。
○梁45王僧弁伝
 陳霸先時為司空、南徐州刺史,惡其飜覆。
○南63王僧弁伝
 初,僧辯平建鄴,遣陳武守京口,推以赤心,結廉、藺之分。且為第三子頠許娶陳武章后所生女,未昏而僧辯母亡,然情好甚密,其長子顗屢諫不聽。

 ⑴陳覇先…字は興国。幼名は法生。生年503、時に53歳。呉興郡長城県下若里の人。非常に微賤な家(土豪?)の生まれ。若くして人並外れた才気を有し、文武に優れ、高い志を抱いて農業に従事しようとしなかった。成人すると史書や兵書を読むのを好んだ。また、吉凶の占いや武芸の多くを得意とした。また、物事の道理に通じて決断力があったため、衆人から尊敬の対象となった。身長は七尺五寸(約183cm)あり、龍の角のように額の左右がわずかに隆起していて、手を下げれば膝まで届いた。ある日、太陽を口に入れられる夢を見た。初め里司となり、のち上京して油庫吏となった。のち新渝侯暎の部下となり、暎が広州刺史となると中直兵参軍とされ、軍才を認められて西江督護・高要太守に任じられた。のち交州の乱の平定に活躍した。侯景が乱を起こすと嶺南の地から長駆北伐を開始し、僧弁の軍と合流すると建康にて景軍を大破した。555年(2)参照。
 ⑵侯景...東魏→梁に仕え、侯景の乱を起こして建康を占拠し、漢を建国したが、王僧弁に敗れて死んだ。552年(2)参照。
 ⑶王顗...〔人質として?〕江陵に居り、江陵が包囲された時、都督城中諸軍事とされた。
 ⑷武帝...蕭衍。梁の初代皇帝。約半世紀に渡って江南を統治したが、最後は侯景に都の建康を陥とされ、餓死に追い込まれた。549年(4)参照。
 ⑸元帝...蕭繹。梁の四代皇帝。武帝の第七子。侯景を討って皇帝の位に即いたが、最後は西魏に都の江陵を陥とされ、処刑された。554年(4)参照。
 [1]僧弁は正統でない君主を立て、奸雄(覇先)に付け入る隙を与えたのである。
 ⑹晋安王方智…字は慧相、小字は法真。生年543、時に13歳。梁の元帝の第九子。母は夏貴妃。承聖二年(553)に平南将軍・江州刺史とされた。元帝が死ぬと王僧弁に擁立されて梁王となったが、間もなく北斉に擁立された貞陽侯淵明に取って代わられた。555年(1)参照。

┃天の暦数、舜の後に帰す
 これより前(554年)、陳覇先が南徐州刺史だった時、中書侍郎の韋鼎は南徐州に帝王の気が満ちているのを見、遂に覇先に身を寄せてこう言った。
「翌年(555年)に大臣が誅殺され、四年後(558年?)に梁が滅び(557年の事)、天の暦数(天命)は舜の後裔に帰します。昔、周が殷氏を滅ぼした時、媯満(舜の後裔)を宛丘に封じ、その子孫は陳氏を名乗りました。私めが見る限り、明公は天賦の軍才を備えておられ、廃絶した陳氏の祭祀を受け継ぐに相応しいお方であります!」
 覇先はこの時、密かに王僧弁を討とうと考えており、これを聞くと大いに喜び、遂に実行を決断した。

○隋78韋鼎伝
 陳武帝在南徐州,鼎望氣知其當王,遂寄孥焉。因謂陳武帝曰:「明年有大臣誅死,後四歲,梁其代終,天之曆數當歸舜後。昔周滅殷氏,封媯滿于宛丘,其裔子孫因為陳氏。僕觀明公天縱神武,繼絕統者,無乃是乎!」武帝陰有圖僧辯意,聞其言,大喜,因而定策。

┃敵は石頭に在り

 江淮のある者が僧弁にこう報じた。
「斉の大軍が寿春(寿陽、北斉の揚州)にやってきました。」
 僧弁は北斉軍が江東に攻め込んでくると思い、記室参軍で済陽の人の江旰を覇先のもとに派し、〔迎撃のための〕水軍を整えておくよう命じた。覇先は〔謀反の漏洩を防ぐため、〕旰を建康に帰さず、京口に留めた。
 壬寅(9月25日)、覇先は部将〔で蘭陵太守?〕の侯安都・〔晋陵太守?の〕周文育徐度・〔監義興・琅邪二郡?の〕杜稜・〔府司馬の〕沈恪を呼び、僧弁を討つことを打ち明けた。稜が難色を示すと、覇先は稜が計画を漏らすことを恐れ、手拭いで稜の首を絞め、気絶させたのち別室に閉じ込めた。
 覇先は弟の子で著作郎の陳曇朗に京口の留守を任せ、徐度・侯安都に水軍の指揮を任せ、陸軍は自らが指揮し、騎兵は曲阿令の胡穎に率いさせ、江乗県にある羅落橋[1]⑻経由で進軍し、石頭にて水軍と合流することにした。かくて出陣の手筈を整えると、〔用意しておいた〕金帛を将兵に分け与えて〔その士気を上げた〕。
 この日の夜、全軍を出発させた。この時、覇先は杜稜を連れて行った。
 覇先の企みを知る者は安都らのみで、他の者たちはみな、今回の出陣は僧弁の求めに従って北斉軍を迎撃しに行くものだと考え、一切怪しまなかった。


○陳武帝紀
 九月壬寅,高祖召徐度、侯安都、周文育等謀之,仍部列將士,分賞金帛,水陸俱進。是夜發南徐州討王僧辯。
○陳文帝紀
 高祖之將討王僧辯也,先召世祖與謀。時僧辯女婿杜龕據吳興,兵眾甚盛,高祖密令世祖還長城,立柵以備龕。
○梁45王僧弁伝
 與諸將議,因自京口舉兵十萬,水陸俱至,襲于建康。
○陳8侯安都伝
 除蘭陵太守。高祖謀襲王僧辯,諸將莫有知者,唯與安都定計,仍使安都率水軍自京口趨石頭,高祖自率馬步從江乘羅落會之。
○陳12胡穎伝
 除曲阿令。尋領馬軍,從高祖襲王僧辯。
○陳12徐度伝
 高祖平王僧辯,度與侯安都為水軍。
○陳12杜稜伝
 稜監義興、琅邪二郡。高祖誅王僧辯,引稜與侯安都等共議,稜難之。高祖懼其泄己,乃以手巾絞稜,稜悶絕于地,因閉於別室。軍發,召與同行。
○陳12沈恪伝
 尋為府司馬。及高祖謀討王僧辯,恪預其謀。
○陳14南康愍王曇朗伝
 高祖誅王僧辯,留曇朗鎮京口,知留府事。
○南63王僧弁伝
 至是,會江淮人報云「齊兵大舉至壽春」,僧辯謂齊軍必出江表,因遣記室參軍江旰以事報陳武,仍使整舟艦器械。陳武宿有圖僧辯志,乃聞命,留旰城中,銜枚而進。知謀者唯侯安都、周文育而已,外人但謂江旰徵兵扞北。

 ⑴侯安都...字は成師。始興郡の名族の出。隸書に巧みで、琴を弾くのが上手く、古典を読み漁り、非常に清新で華麗な五言詩を作った。そのうえ騎射も得意であったため、郷里の指導者となった。侯景の乱が起こると義勇兵を募って三千人を集めた。551年(1)参照。
 周文育...字は景徳。元の姓名は項猛奴。貧しい家の生まれだったが身体能力に優れ、陳覇先自慢の猛将となった。552年(1)参照。
 ⑶徐度...字は孝節。さっぱりとした性格で、容貌はいかつく、酒と博打を好み、いつも召し使いに肉や酒の商いをさせた。始興の諸山洞を討って以降、驍勇なことで世に知られるようになり、覇先から丁重な招きを受けてその配下となった。巧みな術策を考え出し、覇先の勝利に貢献した。また、部隊を率いても活躍した。石頭の戦いでは強弩兵を率い、侯景を大破するのに大きく貢献した。552年(3)参照。
 杜稜...字は雄盛。呉郡の名家の生まれで、非常な読書好きだったが、幼い頃に家が没落した。覇先に従って書記となり、侯景の乱が起こると将軍とされた。551年(1)参照。
 ⑸沈恪...字は子恭。沈着冷静で物事を上手く処理する才能があった。広州刺史の新渝侯瑛の主簿・兼府中兵参軍となった。覇先とは同郡の生まれだったため非常に仲が良く、覇先が李賁を討つ際、妻子を託されてこれを無事故鄉にまで送り届けた。のち建康の防衛に参加し、陥落すると故郷に逃亡した。覇先が南徐州の鎮守を任されると、そのもとに赴き、即日都軍副とされた。552年(2)参照。
 ⑹陳曇朗...覇先の同母弟の陳休先の子。幼い頃に父が亡くなると覇先に引き取られ、溺愛を受けた。胆力があり、兵の統率を得意とした。東方光が宿豫にて北斉に叛き、梁に付くとその救援に赴いた。554年(2)参照。
 ⑺胡穎...字は方秀。姿形が立派で、寛大・温厚な性格をしていた。陳覇先に早くから仕え、同郷であったために厚遇を受けた。数々の戦いに活躍し、東関の戦いでは覇先に精鋭三千を託され、侯瑱と共に郭元建を破った。554年(2)参照。
 [1]羅落橋...羅落橋は京口から建康に向かう大道に在り、劉裕が桓玄を討つ時もこの橋を通った。404年3月1日参照。
 ⑻羅落橋…《読史方輿紀要》曰く、『建康の東北四十里にある(南徐州までは二百里)。
 ⑼全軍...梁45王僧弁伝はその数を十万とする。

┃王僧弁の死
 甲辰(9月27日)侯安都が水軍を率いて石頭に到着した。この時、覇先は進軍しようとしなかった。仰天した安都は覇先のもとに赴き、こう罵って言った。
「我らの造反はもはや既成の事実であり、無かったことにはできません! 生死はまさにここで決まるのであって、将来に望みを持ってはなりません! こたびの一挙が失敗すれば、死が待っているだけです。それとも、何か、ぐずぐずしていたら死を免れるとでも思っているのですか!」
 覇先は答えて言った。
「安都がわしに怒りおった!」
 かくて進軍を開始した[1]。安都は石頭城北に到ると、船を棄てて上陸を開始した。石頭城の北面はなだらかな丘陵に接していたため、あまり城壁を登るのにさしたる困難は無かった。兵士たちは甲冑と長刀を身に着けた安都を抱え上げ、女牆(胸壁。城の最上部に設けられた背の低い壁面)の中に投げ入れた。安都は兵を引き連れて僧弁の寝室に向かった。この時、覇先も南門より城内に侵入した。
 庁舎にて政務を執っていた僧弁は、南門より敵兵が侵入してきたとの報告を受けて〔仰天した所に、〕更に舎内より安都の兵の攻撃を受け、堪らず遁走した。僧弁は第三子の王頠と途中合流すると、共に庁舎の敷地から出、左右数十人と共に庁舎前にて戦った。しかし間もなく覇先の大軍が到ると、衆寡敵せず、遂に南門の高楼の上に逃げて命乞いをした。しかし覇先は〔これを聞かず、〕放火する姿勢を示したので、僧弁は遂に頠と共に高楼を下り、縛に就いた。覇先は僧弁にこう言った。
「私に何の罪があって、公は斉軍と共に私を討とうとしたのですか?」
 また、こう言った。
「〔斉軍が攻めて来ているというのに、〕どうして全く警戒していなかったのですか?」
 僧弁は答えて言った。
「公に北門[2]を任せていましたのに、警戒していなかったと言うのですか?」
 この夜、覇先は僧弁父子を縊り殺した。
 それから間もなく、北斉軍の来攻は誤報だということが分かった。しかしこれは覇先の計略ではなく、天が与えた絶好の好機というべきものだった。
 前青州刺史の程霊洗は兵を率いて僧弁を救いに向かい、石頭の西門にて力戦したが、敗退した。覇先が使者を派して説得すると、暫くして降った。覇先は霊洗の義心を気に入り、蘭陵太守として京口の守りの助けとした《陳10程霊洗伝》
 乙巳(28日)、覇先が天下に布告を出し、僧弁の罪状を列挙すると共に、こう言った。
「誅殺の対象はただ王僧弁父子兄弟だけであり、その親族与党の者には一切罪を問わぬ。」《出典不明》


○資治通鑑
【霸先控馬踟躕,以觀安都之意,見安都決死前向,乃進。
○陳武帝紀
 甲辰,高祖步軍至石頭前,遣男(勇)士自城北踰入。時僧辯方視事,〔聞〕外白有兵。俄而兵自內出,僧辯遽走,與其第三子頠相遇,俱出閤,左右尚數十人,苦戰。高祖大兵尋至,僧辯眾寡不敵,走登城南門樓,高祖因風縱火,僧辯窮迫,乃就擒。是夜縊僧辯及頠。
○陳8侯安都伝
 安都至石頭北,棄舟登岸,僧辯弗之覺也。石頭城北接崗阜,雉堞不甚危峻,安都被甲帶長刀,軍人捧之投於女垣內,眾隨而入,進逼僧辯臥室。高祖大軍亦至,與僧辯戰于聽事前,安都自內閤出,腹背擊之,遂擒僧辯。
○梁45・南63王僧弁伝
 於是水軍到,僧辯常處于石頭城,是日正視事,軍人已踰城北而入,南門又馳白有兵來。僧辯與其子頠遽走出閤,左右心腹尚數十人。眾軍悉至,僧辯計無所出,乃據南門樓乞命(求哀)拜請。霸先因命縱火焚之,方共頠下就執。霸先曰:「我有何辜,公欲與齊師賜討。」又曰:「何意全無防備。」僧辯曰:「委公北門,何謂無備?」爾夜斬之(是夜,及子頠俱被絞殺)。
〔…安都舟艦將趣石頭,陳武控馬未進。安都大懼,乃追陳武罵曰:「今日作賊,事勢已成,生死須決,在後欲何所望?若敗俱死,後期得免斫頭邪?」陳武曰:「安都嗔我。」乃敢進,遂剋之時壽春竟無齊軍,又非陳武之譎,殆天授也。

 ⑴原文『「今日作賊,事勢已成,生死須決,在後欲何所望?若敗俱死,後期得免斫頭邪?」』
 [1]かくて進軍を開始した...覇先が進軍を躊躇ったのは、安都が本当に叛乱に加担するか分からなかったからだった。安都から決死の言葉を聞いたことで、覇先は安心して進軍することができたのである
 [2]北門...京口のことを建康の北門と言ったのである。
 ⑵程霊洗…字は玄滌。時に42歳。新安にて粘り強く侯景に抵抗した。江陵が包囲されると、侯瑱の指揮のもとその救援に向かった。554年(2)参照。

●敬帝の即位
 丙午(9月29日)、覇先が天成帝貞陽侯淵明)を退位させ、皇宮から邸宅に遷した。それから、百官に上表させ、晋安王方智に皇帝の位に即くよう勧めた。
 冬、10月、己酉(2日)、方智が帝位に即いた[1]。〔これが梁の敬帝である。〕帝は大赦を行ない、年号を承聖から紹泰に改めた。また、文武百官の〔勲等を〕一等進めた。また、貞陽侯淵明を司徒とし、建安公に封じた。
 覇先は北斉に使者を派してこう言った。
「僧弁が密かに篡逆を企てたため、誅殺しました。我らは従来通り、斉に臣と称し、とこしえに藩国となることを希望します。」
 北斉は行台の司馬恭を派遣し、歴陽(北斉の和州)にて誓いを交わさせた。

 辛亥(4日)文宣帝が鄴より晋陽に赴いた《北斉文宣紀》

 壬子(5日)、梁が司空〔・南徐州刺史〕の陳覇先を尚書令・都督中外諸軍事・車騎将軍・揚、南徐二州刺史とした。持節・司空・班剣・鼓吹はそのままとした。また、武装した兵士百人を引き連れて朝廷に出入りすることを許した。

○梁敬帝紀
 紹泰元年冬十月己巳,詔曰:「王室不造,嬰罹禍釁,西都失守,朝廷淪覆,先帝梓宮,播越非所,王基傾弛,率土罔戴。朕以荒幼,仍屬艱難,泣血枕戈,志復讐逆。大恥未雪,夙宵鯁憤。羣公卿尹,勉以大義,越登寡闇,嗣奉洪業。顧惟夙心,念不至此。庶仰憑先靈,傍資將相,克清元惡,謝冤陵寢。今墜命載新,宗祊更祀,慶流億兆,豈予一人。可改承聖四年為紹泰元年,大赦天下,內外文武賜位一等。」以貞陽侯淵明為司徒,封建安郡公,食邑三千戶。壬子,以司空陳霸先為尚書令、都督中外諸軍事、車騎將軍、揚南徐二州刺史,司空如故。
○陳武帝紀
 景午,貞陽侯遜位,百僚奉晉安王上表勸進。十月己酉,晉安王即位,改承聖四年為紹泰元年。壬子,詔授高祖侍中、大都督中外諸軍事、車騎將軍、揚南徐二州刺史,持節、司空、班劔、鼓吹竝如故。仍詔高祖甲仗百人,出入殿省。
○北斉33蕭明伝
 冬,霸先襲殺僧辯,復立方智,以明為太傅、建安王。霸先奉表朝廷,云僧辯陰謀篡逆,故誅之。方智請稱臣,永為藩國,齊遣行臺司馬恭及梁人盟於歷陽。

 [1]考異曰く、『梁書(梁敬帝紀)には「九月、丙午、敬帝が皇帝の位に即いた。十月、己巳、大赦・改元を行なった」とある。長暦から考えるに、丙午は九月二十九日で、己巳は十月二十二日である。どうして即位してから二十四日も経ってようやく改元・大赦を行なおうか! 恐らく丙午は梁王の位に復しただけで、帝位に即いたのは十月だったのであろう。また、典略には「丁未(30日)、貞陽侯を廃して身柄を皇宮から邸宅に遷した」とある。今は共に陳書(陳武帝紀)の記述に従った。
 ⑴司馬恭...東魏の東雍州刺史。沙苑の戦いののちに西魏軍の攻撃に遭うと、城を棄てて逃走した。537年(4)参照。


 555年(4)に続く