[西魏:大統八年 東魏:興和四年 梁:大同八年]

┃劉敬躬の乱と王僧弁の登場


 春、正月、丙辰(13日)、散騎常侍の袁狎・通直常侍の賀文発ら梁の使節が東魏の都の鄴に到着した(去年の12月5日に出発していた《魏98島夷蕭衍伝》

 時に、梁の安成郡の望族に劉敬躬宮?)という者がいた。敬躬がある日田んぼの中から白い蛆(ウジ)虫を得ると、蛆虫は金亀に変化した。敬躬がそこでこれを鎖に繋ごうとすると、突如として光を発して部屋中を照らし出したので、敬躬はこれを神として祀った。敬躬がこれに願い事をすると多くがその通りとなったため、次第に無賴の者たちが多く敬躬のもとに集まってくるようになった。敬躬は常々徳のある者が〔幸いを、〕怨恨を受けている者が〔災いを〕必ず受けると考えていたので、遂に梁に叛乱を企てるようになった。
 この月、敬躬が妖術を以て得た信徒らを率いて叛乱を起こした。安成内史の蕭説侻?)は城を棄てて東方に逃れ、郡は敬躬に占拠された。敬躬は年号を永漢と改め、百官を置き、南康・廬陵に進攻して県邑を虐殺・破壊して回った。敬躬の軍は遠近から志願者が相次いだことによって数万の兵に膨れ上がり、豫章郡の新淦県や柴桑(江州)に迫った。
 当時、南方は戦とは無縁であったため、官民はこれを怖がってあちこちに逃げ去った。しかし豫章内史の張綰は逃亡の誘いを断って城の守りを固め、一万余人の義勇兵を募って敬躬に抵抗した。
 綰、字は孝卿は、尚書僕射の張纘539年正月参照)の弟である。
 2月、戊戌(2日)、江州刺史の湘東王繹が司馬の王僧弁・中直兵参軍の曹子郢に敬躬の討伐を命じた。両者は綰の指揮に従った。
 子郢が敬躬軍を撃破すると、敬躬は安成郡に逃げ帰った。
 3月、戊辰(2日)、あらかじめ安成郡に向かっていた僧弁が敬躬軍に奇襲攻撃を仕掛けてこれを大破した。敬躬は捕らえられて建康に送られ、市場にて斬られた。

○資治通鑑
 八年春正月,敬躬據郡反,改元永漢,署官屬,進攻廬陵,逼豫章。南方久不習兵,人情擾駭,豫章內史張綰募兵以拒之。綰,纘之弟也。二月戊戌,江州刺史湘東王繹遣司馬王僧辯、中兵曹子郢討敬躬,受綰節度。三月戊辰,擒敬躬,送建康,斬之。僧辯,神念之子也【天監七年,王神念自魏來奔。】,該博辯捷,器宇肅然,雖射不穿札,而志氣高遠。
○梁武帝紀
 八年春正月,安成郡民劉敬躬挾左道以反,內史蕭說委郡東奔,敬躬據郡,進攻廬陵,取豫章,妖黨遂至數萬,前逼新淦、柴桑。二月戊戌,江州刺史湘東王繹遣中兵曹子郢討之。三月戊辰,大破之,擒敬躬送京師,斬于建康市。是月,於江州新蔡、高塘立頌平屯,墾作蠻田。
○隋天文志
 大同…五年…十一月乙卯,至婁滅。占曰:「天下有謀王者。」其八年正月,安成民劉敬躬挾左道以反,黨與數萬。
○梁34張綰伝
 出為豫章內史。綰在郡,述制旨禮記正言義,四姓衣冠士子聽者常數百人。八年,安成人劉敬宮挾祅道,遂聚黨攻郡,內史蕭侻棄城走。賊轉寇南康、廬陵,屠破縣邑,有眾數萬人,進寇豫章新淦縣。南中久不習兵革,吏民恇擾奔散。或勸綰宜避其鋒,綰不從,仍修城隍,設戰備,募召敢勇,得萬餘人。刺史湘東王遣司馬王僧辯帥兵討賊,受綰節度,旬月間,賊黨悉平。
○梁45・南63王僧弁伝
 王僧辯字君才,右衞將軍神念之子也。以天監中隨父來奔。〔學涉該博,尤明左氏春秋。言辭辯捷,器宇肅然,雖射不穿札,而有陵雲之氣。〕起家為湘東王國左常侍。王為丹陽尹,轉府行參軍。王出守會稽,兼中兵參軍事。王為荊州,仍除中兵,在限內。時武寧郡反,王命僧辯討平之。遷貞威將軍、武寧太守。尋遷振遠將軍、廣平太守,秩滿,還為王府中錄事,參軍如故。王被徵為護軍,僧辯兼府司馬。王為江州〔刺史〕,仍除雲騎將軍司馬(中兵參軍),守湓城。〔時有安成望族劉敬躬者,田間得白蛆化為金龜,將銷之,龜生光照室,敬躬以為神而禱之。所請多驗,無賴者多依之。平生有德有怨者必報,遂謀作亂,遠近響應。元帝命中直兵參軍曹子郢討之,使僧辯襲安成。子郢既破其軍,敬躬走安成,僧辯禽之。又討平安州反蠻,由是以勇略稱。〕俄監安陸郡,無幾而還。尋為新蔡太守,猶帶司馬,將軍如故。王除荊州,為貞毅將軍府諮議參軍事,賜食千人,代柳仲禮為竟陵太守,改號雄信將軍。

 ⑴湘東王繹…字は世誠。幼名は七符。508~554。梁の武帝の第七子。生まれつき片目に異常があり、のち失明した。頭の回転が非常に速く博学多才だったが、残忍で疑い深く利己的な性格で、侯景の乱が起こると皇帝になりたいがために武帝と太子を見殺しにし、更に他の兄弟や甥たちも殺害した。552年に侯景を滅ぼし、皇帝に即位して江陵に都したが、554年、西魏の侵攻を受けて捕らえられ、殺された。

●射不穿札
 王僧弁烏丸僧弁)、字は君才は、〔もと北魏の潁川太守で梁の右衛将軍の〕王神念烏丸神念の次子である。天監年間(502~519)に父に従って梁に亡命した(508年)。学識が深く、特に左氏伝に通暁していた。弁才があり、威厳のある性格をしていた。〔父に似ず〕膂力に乏しく、矢を射ても鎧の小札一枚も貫かなかったが、気高い志を抱いていた。
 出仕して湘東王()国左常侍とされ、湘東王繹が丹陽尹とされると府行参軍とされた。繹が会稽太守とされると兼中兵参軍事とされた。繹が荊州刺史とされると(526年)再びこれに従って中兵参軍とされた。武寧郡(江陵の北)が叛乱を起こすと繹に命じられてこれを討伐・平定した。のち貞威将軍・武寧太守とされた。間もなく振遠将軍・広平太守とされ、任期満了となると繹のもとに帰って府中録事とされ、参軍はそのままとされた。繹が中央に召されて護軍とされると(539年)、兼府司馬とされた。繹が江州刺史とされると(540年)雲騎将軍・司馬とされ、湓城を守備した。

○梁39・南63王僧弁伝
 王僧辯字君才,右衞將軍神念之子也。以天監中隨父來奔。〔學涉該博,尤明左氏春秋。言辭辯捷,器宇肅然,雖射不穿札,而有陵雲之氣。起家為湘東王國左常侍。王為丹陽尹,轉府行參軍。王出守會稽,兼中兵參軍事。王為荊州,仍除中兵,在限內。時武寧郡反,王命僧辯討平之。遷貞威將軍、武寧太守。尋遷振遠將軍、廣平太守,秩滿,還為王府中錄事,參軍如故。王被徵為護軍,僧辯兼府司馬。王為江州,仍除雲騎將軍司馬,守湓城。
○旧唐70王珪伝
 王珪字叔玠,太原祁人也。在魏為烏丸氏,曾祖神念,自魏奔梁,復姓王氏。祖僧辯,梁太尉、尚書令。

 ⑴王神念(烏丸神念)…451~525。太原の人。学問を好み、内典(仏典)に詳しかった。また、騎射を得意とした。北魏に仕え、503年に大峴・東関などを攻め、潁川などを陥として潁川太守となったが、508年に郡と共に梁に降った。このとき烏丸から王に改姓した。509年、北魏の南兗州を攻めた。516年、硖石の救援に向かったが失敗した。青冀二州刺史とされると邪教撲滅に力を注いだ。のち北伐に参加したが、525年、寿陽付近にて慕容儼に撃破された。

●西魏、六軍を設置
 この月、梁は越州刺史の陳侯・羅州刺史の寧巨・安州刺史の李智・愛州刺史の阮漢らに交州叛賊の李賁541年参照)を討たせた《梁武帝紀》

 この月、西魏が初めて〔正式に?〕六軍を置いた(六軍は『周礼』に記載された皇帝直属の軍隊。一軍につき一万二千五百人が配された。のち皇帝の軍隊を慣例的にそう呼称するようになった。今回の六軍は孝武の西遷以後未整備のままであったものを完備したものか。李弼・于謹・趙貴・独孤信・侯莫陳崇・李虎ら六将を基幹とする新軍団なのかもしれない。府兵制の端緒か?《北史西魏文帝紀》
 夏、4月、西魏の丞相の宇文泰時に36歳)が諸軍を馬牧に集め、大閲兵式を挙行した《周文帝紀》

○梁武帝紀
 是月,於江州新蔡、高塘立頌平屯,墾作蠻田。遣越州刺史陳侯、羅州刺史寧巨、安州刺史李智、愛州刺史阮漢,同征李賁於交州。

●二貴転落
 丙寅(1日)、東魏が兼散騎常侍の李繪を梁に聘問の使者として派遣した《魏孝静紀》。繪、字は敬文は、李元忠高歓が爾朱氏に反旗を翻す際、多大な貢献をした)の従子である《北33李繪伝》

 辛巳(16日)、東魏の丞相の高歓時に47歳)が鄴の朝廷に赴き、孝静帝時に19歳)に対し、百官と毎月面と向かって政事を視る機会を設けること、微賤な者からでも賢人と見れば抜擢すること、諫言を容れて佞臣を退けること、親しく訴訟を審理すること、精勤している者を賞し怠惰な者を罰すること、州刺史・郡太守に過失があれば、その配下の者たちも段階的に連座させること(原文『節級相坐』)、後宮(椒掖)の后妃のもとに訪う時は等級順に訪うこと、宮廷の御苑で飼っている鷹犬をことごとく放すことを求めた《魏孝静紀・北斉神武紀》

 これより前、司徒の孫騰四貴の一人。興和元年〈539〉正月に司徒とされていた)は、北辺に争乱が起こった際に娘と離れ離れになっていた。騰はのち栄達するに及んで人をやって娘を探し求めさせたが、とうとう見つからなかったため、次第に誰かの下女になっているのではないかと考えるようになった。そこで騰は司徒になると、娘といつか巡り合うことを願って、奴婢の訴良(良民であったのに無理矢理奴隷にさせられたと訴えること)があれば真偽を充分に審議することなくみな認めて解放してしまった。これを問題視した側近が入朝してきた高歓にこのことを告発すると、歓は激怒して騰を司徒から罷免した《北斉18孫騰伝》
 乙酉(20日)、大尉の彭城王韶を録尚書事とし、侍中の広陽王湛を太尉とし、尚書右僕射の高隆之四貴の一人)を司徒とした《魏孝静紀》

 これより前、太傅の尉景四貴の一人。538年正月参照)は歓の姉の常山君を妻としていて歓と親戚であることから、同じ立場の厙狄干歓の妹の夫)と共に大軍の指揮を任されていた。しかし、蓄財にあくせくするのをやめることができず、常に歓から注意を受けていた。のち冀州刺史となると、大いに賄賂を受け取るばかりか、猟をする際に民を徴発して三百人を死に至らしめなどの悪行を行なった。厙狄干は景と共に歓と同座した時、御史中尉(官吏の弾劾を行なう役職)にしてほしいと歓に頼み込んだ。歓は不思議に思ってこう言った。
「自ら卑官になりたいとは、どういう風の吹き回しだ?」
 干は答えて言った。
「尉景を捕らえるためであります。」
 歓はこれを聞いて大笑し、芸人の石董桶に景をからかわせた。董桶は景の衣を剥ぎ取ってこう言った。
「公が人民のものを奪っているのに、私が公のものを奪っていけないわけがございますか?」
 歓は景にこう戒めて言った。
「〔これに懲りたら、もう民から〕貪ってはなりませんぞ。」
 すると景は歓にこう言い返した。
「わしとお前ではどっちが財産がある。わしはただ民から貪っているだけだが、お前は天子が得るはずだった調絹(税として納められた絹)を貪っているではないか。」
 これには歓も苦笑するしかなかった。
 のち長楽郡公に封ぜられ、太保・太傅を歴任した。

 これより前、〔高歓の姉の夫の〕尉景は果下馬(三尺の高さしか無く、果樹の下でも乗ることができた。珍しい)を持っていた。高澄がこれを求めると、景は断ってこう言った。
「土塀は土を時間をかけて盛って初めてできる。王の位は人と時間をかけて協力し合って初めて得ることができる。この馬も、この二者と同じく、時間をかけて養育して初めて得ることができるのだ。求めれば得られるものではない!」
 歓は景からこの事を聞くと、景と常山君歓の姉)の前で澄を杖打ちの刑に処させた。常山君が泣いてこれをかばうと、景はこう言った。
「この小僧っ子はこうでもしないとますますつけ上がる! それなのに、なんでお前は泣いてまでして止めだてするのだ!」

 その景が、現在(542年)、逃亡者を匿った罪で高澄により拘禁とされた。景は大行台左丞・吏部郎の崔暹に澄へこう言伝を頼んだ。
「阿恵(高澄の字は子恵。恵坊と言っているようなもの)よ、お前が富貴でいるのは誰のおかげか! 恩人のわしを殺すつもりか!」
 高歓は景が命の危険に晒されているのを聞くや、孝静帝に涙ながらにこう言った。
尉景がいなければ、臣は死んでおりました!」
 かくて歓が三たび助命を求めると、帝はこれを許した。

 丁亥(4月22日)、景は助命はされたものの、驃騎大将軍・開府儀同三司のみに降格された。
 歓が景のもとに訪れると、景はふて寝をして起き上がらず、こう叫んだ。
「わしを殺しに来たのか!」
 常山君は歓にこう言った。
「老い先短い年寄りを、そう急いて殺すことは無いでしょう!」
 それから歓に自分の掌を見せてこう言った
「私の手のタコは、むかしお前のために水を汲んだからできたのですよ。〔お前はその夫を殺そうというのですか?〕」
 歓は景のもとに行くと、膝を曲げてその体を撫で、謝った。

 辛卯(26日)、太保の厙狄干を太傅とし、領軍将軍の婁昭を大司馬とし、行済州事の封祖裔封隆之)を尚書右僕射とした。

 6月、甲辰(10日)、歓が晋陽に帰った。
〔この間に東魏の使者の李繪らが建康に到着? 梁から答礼の使者として劉孝勝らが出発?〕

○魏孝静紀
 夏四月丙寅,遣兼散騎常侍李繪使于蕭衍。乙酉,以侍中、廣陽王湛為太尉,以尚書右僕射高隆之為司徒,以太尉、彭城王韶為錄尚書事。丁亥,太傅尉景坐事降為驃騎大將軍、開府儀同三司。辛卯,以太保厙狄干為太傅,以領軍將軍婁昭為大司馬,封祖裔為尚書右僕射。五月辛巳,齊獻武王來朝,請令百官月一面敷政事,明揚仄陋,納諫屏邪,親理獄訟,褒黜勤怠;牧守有愆,節級相坐;椒掖之內,進御以序;後園鷹犬,悉皆放棄。
○北斉神武紀
 四年五月辛巳,神武朝鄴,請令百官每月面敷政事,明揚側陋,納諫屏邪,親理獄訟,褒黜勤怠;牧守有愆,節級相坐;椒掖之內,進御以序;後園鷹犬悉皆棄之。
○北斉15尉景伝
 改長樂郡公。歷位太保、太傅,坐匿亡人見禁止。使崔暹謂文襄曰:「語阿惠兒,富貴欲殺我耶!」神武聞之泣,詣闕曰:「臣非尉景 ,無以至今日。」三請,帝乃許之。於是黜為驃騎大將軍、開府儀同三司。神武造之,景恚臥不動,叫曰:「殺我時趣耶!」常山君謂神武曰:「老人去死近,何忍煎迫至此。」又曰:「我為爾汲水胝生。」因出其掌。神武撫景,為之屈膝。先是,景有果下馬,文襄求之,景不與,曰:「土相扶為牆,人相扶為王,一馬亦不得畜而索也。」神武對景及常山君責文襄而杖之。常山君泣救之。景曰:「小兒慣去,放使作心腹,何須乾啼濕哭不聽打耶!」

 ⑴5月…魏孝静紀には『4月』とあるが、542年4月に丙寅・乙酉・丁亥は存在しない。5月なら全て存在する。よって今5月に改めた。
 ⑵尉景…字は士真。もと尉遅氏。高歓の姉の夫。歓が幼くして母を喪うと引き取って養育した。歓が爾朱氏に対して兵を挙げるとこれに従い、鄴の留守を任されるなどした。親族であることから重用されたが、金に汚かったためよく叱責された。
 ⑶高歓は幼くして母と死別すると、姉の夫の尉景の家で育てられた。つまり、景がいなければ歓は生きるを得ず、その子の澄も生きて富貴の身分を謳歌することができなかったのである。

●侯景の河南行台就任と河南の攻防
 秋、8月、庚戌(16日)、東魏が開府儀同三司・吏部尚書の侯景滏口の戦いにて葛栄を捕らえて大いに武名を挙げた。のち高歓に付き、三荊の攻略を狙ったが独孤如願らに阻止された。539年参照)を兼尚書僕射・河南行台とし、河南の軍事を委任した《魏孝静紀》
 景が鄴より魯陽(広州。洛陽と荊州の間)に侵入すると、西魏の大都督の趙剛字は僧慶。538年〈2〉参照)は十三日に渡ってこれと戦いを繰り広げ、宜陽に退却させた(540年に侯景が荊州に侵攻を試みた時のことか?)。
 当時、河南の城邑はあっちに付いたりこっちに付いたりしていた。剛が再び伊・洛地方に出陣すると、侯景も再び黄河を渡って城を築いた。剛は前後の戦いで景指揮下の三郡を陥とし、郡守一人を虜にした。また、別に東魏の行台の梅遷の軍を破り、千余級の首を得た。剛は尚書金部郎中とされた(詳細な時期は不明。538年から542年の間の事だと思われる《周33趙剛伝》

 この月、西魏が大尉の王盟宇文泰の母の兄)を太保とした(周20王盟伝ではこれを玉壁の戦いののちの事としている《北史西魏文帝紀》

┃玉壁の戦い

 高歓が西魏討伐の軍を起こし、汾・絳経由で長安に攻め入らんとした。その軍営は四十里に連なった。宇文泰都督汾晋并三州諸軍事・并州刺史・東道行台の王思政に玉壁城[1]を守らせ、その経路を遮断していた。歓は投降を誘う書簡を思政に送り、こう言った。
「もし降るなら、并州刺史に任じよう。」[2]
 思政は長史の裴侠に返書を書かせて言った。
可朱渾道元道元は元の字)は、降っても(535年〈1〉参照)并州刺史とされなかったではないか!」
 宇文泰はその激烈なる文章を褒めてこう言った。
魯連魯仲連。戦国斉の人で、弁舌・文章に優れる)でもこれ以上のものは書けまい。」
 冬、10月、己亥(6日)、歓は玉壁を囲み、泰がこれを救いに来るのを待ったが、泰はその手には乗らなかった(魏孝静紀では甲寅〈21日〉?)。

 甲寅(21日)、梁の散騎常侍の劉孝勝・通直常侍の謝景らが鄴に到着した《魏98島夷蕭衍伝》

 この月、西魏の太子欽が蒲阪守備の任に就いた。王盟が左軍大都督となってこれを補佐した《周20王盟伝》

 11月、癸未(21日)、歓軍はおよそ九日に渡って大雪に遭い、多くが飢えや凍えによって死んだ。歓はそこで囲みを解いて撤退した(魏孝静紀では壬午〈20日〉)。
 宇文泰は蒲阪より出撃し、皂莢(ソウキョウに到った所で歓の撤退を聞くと、太師の賀抜勝を前軍大都督として(周14賀抜勝伝)汾水の向こうまで追撃させたが、結局捕捉することができなかった。
 王思政は玉壁を守りきった功により、驃騎大将軍・開府儀同三司の官を授けられた。
 
 この月出典不明)、東魏が可朱渾道元を并州刺史とした【王思政の書に刺激されたものであろう】。
 また、驃騎大将軍・開府儀同三司・青州刺史の西河王悰が逝去した《魏孝静紀》

 12月、西魏の文帝時に36歳)が華陰にて狩猟を行ない、将兵に大いに酒食をふるまった。宇文泰は諸将をひきつれてこれに赴き、帝に拝謁した《周文帝紀》。また、万寿殿を沙苑の北に建てた《北史西魏文帝紀》

 辛亥(19日)、兼通直散騎常侍の陽斐字は叔鸞)を正使・兼通直散騎常侍の崔侃北24崔侃伝)を副使とした東魏の使節が建康に到着した(資治通鑑の記述に拠る。魏孝静紀ではこの日に梁に派遣したとしか書いていない。梁紀・南史紀には東魏の使者が来訪したという記述は無い。ただ羊侃伝に『大同年間に陽斐が来訪した』と書かれている《魏孝静紀》

○資治通鑑
 東魏丞相歡擊魏,入自汾、絳,連營四十里,丞相泰使王思政守玉壁以斷其道。歡以書招思政曰:「若降,當授以并州。」【高歡以晉陽為根本,并州之任要重於諸州】思政復書曰:「可朱渾道元降,何以不得?」冬十月己亥,歡圍玉壁,凡九日,遇大雪,士卒飢凍,多死者,遂解圍去。魏遣太子欽鎮蒲坂。丞相泰出軍蒲坂,至皂莢,聞歡退渡汾,追之,不及。十一月,東魏以可朱渾道元為并州刺史【激於王思政之書也】。十二月,魏主狩於華陰,大享將士,丞相泰帥諸將朝之。起萬壽殿於沙苑北。
○魏孝静紀
 冬十月甲寅,蕭衍遣使朝貢。齊獻武王圍寶炬玉壁。十有一月壬午,班師。驃騎大將軍、開府儀同三司、青州刺史、西河王悰薨。十有二月辛亥,遣兼散騎常侍陽斐使于蕭衍。是歲,蠕蠕、高麗、吐谷渾國並遣使朝貢。
○周文帝紀
 冬十月,齊神武侵汾、絳,圍玉壁。太祖出軍蒲坂,將擊之。軍至皂莢,齊神武退。太祖度汾追之,遂遁去。十二月,魏帝狩於華陰,大饗將士。太祖率諸將朝於行在所。
○北斉神武紀
 九月,神武西征。十月己亥,圍西魏儀同三司王思政於玉壁城,欲以致敵,西師不敢出。十一月癸未,神武以大雪,士卒多死,乃班師。
○北史西魏文帝紀
 冬十月,詔皇太子鎮河東。十二月,行幸華州,起萬壽殿於沙苑北。
○周18・北62王思政伝
 八年,東魏〔復〕來寇,思政守禦有備,敵人晝夜攻圍,卒不能克,乃收軍還。以全城功,受驃騎大將軍〔、開府儀同三司〕。
○周35・北38裴侠伝
 王思政鎮玉壁,以俠為長史。未幾為齊神武所攻。神武以書招思政,思政令俠草報,辭甚壯烈。太祖善之,曰:「雖魯〔仲〕連無以加也。」

 ⑴王思政…字は思政。太原王氏の出で、後漢の司徒の王允の後裔とされる。姿形が逞しく立派で、知略に優れていた。孝武帝と即位前から親しく、即位後は側近とされ、祁県侯・武衛将軍→中軍大将軍とされ、禁軍の統率を任された。高歓が帝と対立し洛陽に迫ると、関中の宇文泰を頼るよう帝に勧めて聞き入れられた。入関すると太原郡公・光禄卿・并州刺史とされ、更に散騎常侍・大都督を加えられた。帝が崩御すると樗蒲の遊戯の際に泰に至誠を示して気に入られた。537年、独孤如願らと共に洛陽を陥とし、538年の河橋の決戦の際には奮戦し、瀕死の重傷を負った。のち東方の守備を任されると玉壁に注目し、ここに要塞を築いた。
 [1]玉壁…杜佑曰く、玉壁城は〔唐の〕絳州稷山県の西南十二里にある。
 [2]并州は歓の根拠地で、他州よりも重要な地であった。
 ⑵皂莢…《読史方輿紀要》曰く、『臨晋県(蒲阪の東北)の南に皂莢戍がある。胡氏曰く、蒲阪の東にある。』

●李賁討伐
 この月大越史記外記4)、梁が高州刺史の孫冏と新州刺史の盧子雄に、交州叛賊の李賁を討伐するように命じた。その時ちょうど春草が芽吹き始めた頃おいで、瘴気が発生する時分だったので、冏らはこれを避けるため、広州刺史で新渝侯暎)に討伐を秋まで延期してくれるよう求めた。しかし暎と武林侯諮字は世恭。武帝の弟の子で、鄱陽王範の弟。交州にて苛政を行ない、李賁の乱を招いた。541年参照)の反対に遭うと、やむなく軍を進めたが、案の定、合浦に到った所で冏らの軍は南方特有の熱病によって死者が続出し、6・7割を戦わずして喪う有様となった。冏らの兵はこれで李賁の軍と戦っても死ぬだけだと考えて次々と逃亡した。冏らはこれをとどめることができず、遂に残兵を連れて退却した。すると諮が武帝にこう上奏した。
「冏らは賊に内通し、わざと留まって進軍しようとしませんでした。」
 武帝は二人を広州にて自殺させた《陳8杜僧明伝》
 新渝侯暎は、字を文明といい、始興王憺武帝の弟】の子である(南52蕭暎伝)。

●突厥撃退
 この年、西魏が行汾州事の宇文測汾州を良く治め、今羊祜と称賛された。541年参照)を行綏州事とした。
 ここ数年、綏州は黄河に氷が張るとすぐに遊牧民族の突厥(トックツ。厥は『九勿(キュウ+フツ=クツ)』の反切である)の侵入に遭っていたため、州民は氷が張る前に城や砦に避難していた。測は赴任すると、州民に対し以前の生活に戻すことを約束した。測は要路数百ヶ所に多くの薪を積ませておくと共に、遠方にまで斥候を遣って突厥の動静を探らせた。
 この月、突厥が連谷より侵入し、州境まで数十里の所にまで迫った。測はこれを察知すると、積ませておいた薪に一斉に火を放たせた。突厥はこれを見て西魏の大軍がやってきたと思い、仰天して互いに踏みにじり合いながら遁走した。遺棄された家畜や軍需物資は数え切れなかった。測は悠々とこれを鹵獲し、州民たちに分け与えた。これ以降、突厥は二度と来寇しないようになった。測は朝廷に許可を得て各所に戍兵(防人)を置き、再度の来寇に備えた《周27宇文測伝》

●司馬裔の入朝
 この年宇文泰の妻の馮翊公主534年に孝武帝が長安に避難した際、泰に嫁いだ)が華州の官舎にて第三子となる宇文覚、字は陁羅尼を産んだ《周孝閔紀》
 また、西魏の北徐州刺史(名目?)の司馬裔字は遵胤。537年に河内温城と共に西魏に付き、以後その方面の経略を任された。540年参照)が義軍を率いて入朝した。宇文泰はこれを褒め、特に手厚くもてなした。間もなく河内郡から四千余家が西魏に帰順してきたが、そのどれもが裔の古くからの知り合いであったため、西魏は裔を前将軍・太中大夫・領河内郡守とし、流民の安撫をさせた《周36司馬裔伝》

●自由人、李元忠
 この年(興和の末)、東魏が光州刺史の李元忠高歓が爾朱氏に反旗を翻す際、多大な貢献をした。531年〈2〉〜532年〈2〉参照)を侍中とした。
 元忠は要職に就いても職務に精励することなく(原文『不以物務干懐』)、家の事にも一切関わらず、音楽と酒にうつつを抜かし、大体いつも酔っ払っていた。庭は全て果樹や漢方薬のもとになる植物類で満たし、親しい者が来ると必ずこれを家に泊めて共に酒を飲み明かした。また、常に携行用の琴や酒壺を持って民間を遊び歩き、偶然親しい者と出会うと酒を飲み交わし(原文『遇会飲酌』。折を見ては酒を飲む?)、それで満足していた《北斉22李元忠伝》。また、常にこう言っていた。
「わしは何も食べずとも生きていられるが、酒を飲まずに生きるのは絶対に無理だ。阮步兵(曹魏の阮籍。竹林の七賢の一人。阮步兵というのは、歩兵校尉だったことから。喪中にも関わらず酒を飲み肉を食らい、仕事中も常に酔っ払っていた)こそ我が師であり、孔少府(後漢の孔融。孔子の子孫で、建安の七子の一人。少府に任じられたのでそう呼ばれる。生真面目であったが、曹操の禁酒令に反対することもしている)こそ信用の置ける者だ(孟子滕文公上1に曰く、『文王は我が師なり、周公豈に我を欺かんや』)。」
 これより前に中書令となったのに再び太常卿(儀礼を管轄)にしてくれるように求めたのは(534年)、そちらの方が音楽があって、美酒が多かったからであった。高歓が元忠を尚書僕射に任用しようとすると、尚書令の高澄はいい加減な酔っぱらいに尚書省を任せることはできないと言って反対した。元忠の子の李搔、字は徳況はこれを伝え聞くと、父に節酒を勧めた。すると元忠はこう言った。
「わしは僕射になるより、酒を飲むことの方が何よりも大事だ。ただ、お前は僕射の方が大事なようだから、お前は酒を飲むのではないぞ。」《北33李元忠伝》

○北斉22・北33李元忠伝
 尋兼中書令。天平初,復為太常。…興和末,拜侍中。元忠雖居要任,初不以物務干懷,唯以聲酒自娛,大率常醉。家事大小,了不關心。園庭之內,羅種果藥,親朋尋詣,必留連宴賞。每挾彈攜壺,敖遊里閈,遇會飲酌,蕭然自得。〔每言寧無食,不可使我無酒,阮步兵吾師也,孔少府豈欺我哉。後自中書令復求為太常卿,以其有音樂而多美酒故。神武欲用為僕射,文襄言其放達常醉,不可委以臺閣。其子搔聞之,請節酒。元忠曰:「我言作僕射不勝飲酒樂;爾愛僕射時,宜勿飲酒。」〕

●柔然、東魏に婚姻を求む
 この年、柔然の頭兵可汗が孫娘の叱地連高歓の第九子の長広公湛の縁組を提案した。東魏はこれを許可し、準備を始めた。

○北98蠕蠕伝
 四年,阿那瓌請以其孫女號隣和公主妻齊神武第九子長廣公湛,靜帝詔為婚焉。