[西魏:大統九年 東魏:武定元年 梁:大同九年]

┃高仲密の動揺
 春、正月、壬戌(1日)、東魏が大赦を行ない、年号を興和から武定と改めた《魏孝静紀》

 これより前、東魏の高仲密)は、高歓孝武帝の対立の際に任地の光州から逃亡した(533年参照)のち、歓の元で大行台左丞、尚書を歴任した。仲密は官界を我が物顔にふるまい(原文『当官無所迴避』)、人々を恐れ憚らせた。
 この時、安州(幽州の北)の人々は歓が爾朱氏に反旗を翻してより、僻険の地をたのんでこれに従わずにいた(安州刺史の盧曹の抵抗だと思われる。盧曹はのちに海神の祟りに遭って病死した)。そこで歓は仲密を行台僕射に任じてこれを平定させた(時期は不明だが、太昌元年〈532〉に盧文偉が安州刺史となっているので、これが名目上の任官でなければ、平定はこれ以前に起こったこととなる)。仲密は天平の末(534)に侍中とされ、開府を加えられた。元象の初年(538)に兗州刺史とされた《北斉21高慎伝》
 間もなく中央に召されて御史中尉となったが、御史の多くを親戚や同郷の者から選び、名望のある者を用いなかったため、尚書令で歓の子の高澄に改選を命じられた。

 間もなく中央に召されて御史中尉となったが、御史の多くを親戚や同郷の者から選び、名望のある者を用いなかったので、歓の子で尚書令の高澄に改選を命じられた。
 また、仲密は澄の腹心で吏部郎中の崔暹の妹を妻としていたが、これを離縁してしまい、新たに趙郡の李徽伯の娘の李昌儀を妻に迎えた。
 昌儀は才色兼備であり、文書の作成(書記)や乗馬を得意とした。仲密は滄州刺史だった時、顕公という僧侶を非常に尊重し、毎夜これと談義を行なってなかなか寝床に就こうとしなかった。昌儀はこれを不満に思い、仲密に顕公の悪口を吹き込んでとうとう殺させてしまった。
 澄は昌儀の美しさを耳にすると関係を迫った。昌儀はこれに抵抗し、着衣がボロボロの状態で仲密のもとに逃れ、澄に襲われたことを告げた。仲密はこれ以降、澄への憎しみが募った。また仲密は狷介な性格だったため、暹が〔妹のために〕自分を陥れようと画策しているのではないかと疑い(北斉21高慎伝)、〔暹が望む〕弾劾をほとんど行わなくなり、人が法を犯しても殆ど見てみぬふりをするようになった。高歓がこれを叱責すると、仲密はいよいよ自らの身を案ずるようになり、遂に西魏に投じようと考えるまでになった。

○北斉21高慎伝
 尋徵為御史中尉,選用御史,多其親戚鄉閭,不稱朝望,世宗奏令改選焉。慎前妻吏部郎中崔暹妹,為慎所棄。暹時為世宗委任,〔乃為暹高嫁其妹,禮夕,親臨之。慎後妻趙郡李徽伯女也,豔且慧,兼善書記,工騎乘。慎之為滄州【[三二]慎之為滄州甚重沙門顯公 按下云顯公為慎妻李氏所構,被殺。李氏為慎後妻,必在崔氏被出之後。據本書卷三二崔暹傳云:「避地渤海,依高乾,以妹妻其弟慎。慎後為滄、光二州,啟暹為長史,委以職事。」則當慎為滄州刺史時,與暹相處甚洽,豈得遽棄其妹?且慎為滄州,在中興初見北齊書卷二一高慎傳,為時甚早。此「滄州」當為「兗州」之誤。據北齊書,慎於元象初出為兗州刺史,後方入為御史中尉。與崔暹受高澄重用之時間,正相符合。】,甚重沙門顯公,夜常語,久不寢。李氏患之,構之於慎,遂被拉殺。文襄聞其美,挑之,不從,衣盡破裂。李以告慎,慎由是積憾,且〕慎謂其搆己,性既狷急,積懷憤恨,因是罕有糾劾,多所縱舍。高祖嫌責之,彌不自安。出為北豫州刺史,遂據武牢降西魏。
○北斉30崔暹伝
 暹少為書生,避地渤海,依高乾,以妹妻乾弟慎。慎後臨光州,啟暹為長史。
○北斉34楊愔伝
 有宮人李昌儀者,北豫州刺史高仲密之妻,坐仲密事入宮。

┃高仲密叛す

 仲密は北豫州(治所 虎牢)刺史とされると、勃海の人の李棠、字は長卿を掾(属官)にすることを求め、許可された。この時、歓は仲密を疑い(資治通鑑)、鎮城【防城都督のようなもの】の奚寿興に北豫州の軍務を司らせ、仲密には政務だけを司らせた。仲密は任地に赴くと、棠と寿興を捕らえる計画を練った。その結果、仲密は酒宴を行なうという名目で寿興を呼び、やってきたところを伏せていた壮士に捕らえさせることにした。しかし寿興は出席を辞退して赴こうとしなかった。棠はそこでこれに会って言った。
「公と高公は道義上兄弟のようなもので、今日の酒宴は公が主賓です。賓客がみな集まる中で、その主賓たる公が何の理由もなく出席を拒否なされば、公は天下の人々から訝しまれることになるでしょう。」
 寿興がそこで棠と共に酒宴の場に赴くと、仲密は直ちに壮士を発してこれを捕らえた。
 2月、壬申(12日)、仲密は寿興の兵を指揮下に収めて州城を占拠すると、帰順の意志を示すために棠を西魏に派遣した。西魏の丞相の宇文泰時に37歳)はこれを喜び、棠を衛将軍・右光禄大夫・広宗県公とした。しかし棠はこれを固辞してこう言った。
「臣は代々朝恩を蒙った身であり、道義上、国恩に報いなければならぬ身であります。それなのに臣は先帝の西巡の際、逆臣に留められたとはいえ、これに付き従いませんでした。今日ここにやってきましたのは、その罪が赦される可能性を求めてきたもの。このようなつまらぬ働きで、罪が赦されるどころか爵位をいただくというのは、滅相もない事であります。」
 棠は再三辞退したが、文帝時に37歳)はこれを聞き入れなかった《周46李棠伝》
 また、仲密を侍中・司徒・勃海郡公とした《北史西魏文帝紀》

┃崔暹を守れ
 東魏の丞相の高歓時に48歳)は仲密が叛した理由が崔暹にあることを知ると、これを殺そうとした。しかし澄が暹を匿って助命を何度も願ってくると、歓はこう言った。
「お前に免じて命は許してやるが、杖打ちにだけは遭ってもらうぞ。」
 澄はそこで暹を歓に引き渡したが、一方で大行台都官郎の陳元康孫搴が死ぬとこれに代わって歓の片腕となった。533年参照)にこう言いつけた。
「崔暹への杖打ちを絶対に阻止せよ。失敗したら二度と顔を合わせるな。」
 元康が歓のもとに駆けつけたとき、暹は歓の前に引き立てられ、服を脱がされて今にも杖打ちを受ける所だった。元康はまず兵士に声をかけて杖打ちをやめさせてから、階段を上って歓にこう言った。
「大王殿下は天下を世子(澄。北斉24では『大将軍』。澄が大将軍に任じられたのは武定二年〈544〉)に託されたはず。その世子が崔暹の杖打ちすら撤回できぬなら、群臣はみな殿下に何も言えなくなるでしょう!」
 歓はこれを聞くと暹への杖打ちをやめ、こう言った。
「元康がいなければ、暹は今頃百回の杖打ちに遭っていただろう。」

○北斉24・北55陳元康伝
 高仲密之叛,高祖知其由崔暹故也,將殺暹。世宗匿而為之諫請。高祖曰:「我為舍(不殺)其命,〔然〕須與苦手。」世宗乃出暹而謂元康曰:「卿若使崔得杖,無相見也(不須見我)。」〔及〕暹在廷〔見神武〕,解衣將受罰。元康趨入,〔止伍伯,因〕歷階而昇,且言曰:「王方以天下付大將軍(世子),〔世子〕有一崔暹不能容忍(免其杖)〔,父子尚爾,況世間人〕耶?」高祖從(意解曰:「不由元康,崔暹得一百。」)而宥(乃捨之)焉。

┃誠実の人・陳元康
 これより前、歓が澄に怒り、口汚く罵りながら殴る蹴るの暴行を加えたことがあった。歓がこの事を元康に伝えると、元康は地面に泣き伏してこう言った。
「王は世子へのしつけが厳しすぎます!」
 すると歓はこう言った。
「わしはせっかちだから、いつもこういう風に阿恵(澄。恵ちゃん、恵坊)に怒ってしまうのだ。」
 それを聞くと元康は号泣してこう言った。
「ひとたび度を過ぎたことをなされましたら、以降ずっとそのようになさるようになるでしょう!」
 また、こう言った。
「王が世子をしつける方法にも作法というものがございます。人々の手本となられるべきお方が、このようなことをしていいものでしょうか。」
 歓はこれを聞き入れ、以後怒りを極力抑えるようになった。それでも我慢できずに鞭打ってしまった時は、澄にこう口止めをした。
「元康には言うでないぞ。」
 歓が元康を敬い憚ることはこのようであった。
 また、歓は左右の者にこう言ったことがあった。
「元康は誠実の塊だから、必ず我が子と生死を共にしてくれるだろう。」

○北斉24・北55陳元康伝
 高祖嘗怒世宗,於內親加毆蹋,極口〔肆〕罵之,出以告元康。元康〔俯伏泣下霑地〕諫曰:「王教訓世子,自有禮法,儀刑式瞻,豈宜至是。」言辭懇懇,至于流涕。〔神武曰:「我性急,瞋阿惠,常如此。」元康大啼曰:「一度為甚,況常然邪!」〕高祖從此為之懲忿。時或恚撻,輒曰:「勿使元康知之。」其敬憚如此。〔又謂左右曰:「元康用心誠實,必與我兒相抱死。」〕

┃高季式従わず
 仲密は叛すると弟で散騎常侍の高季式済州の統治や河橋の戦いに活躍し、のち行晋州事とされた。537年〈4〉・538年〈1〉参照)に手紙を送り、共に西魏に付くように言った。このとき季式は永安戍(晋州の北)の守備をしていたが、兄の手紙を受け取るや慌てふためいてすぐに歓に知らせに行った。歓は季式の忠誠を信じ、今まで通りの待遇を与えた《北斉21高季式伝》

●宇文泰出陣

 宇文泰は仲密が叛したことを聞くとその救援に赴こうとしたが、歓がはや河陽に兵を進めていることと、虎牢が関中から遠いことが気にかかり、決断できないでいた。諸将もみなこれに躊躇いの色を見せた。そのとき太子少師の李遠侯莫陳悦討伐・沙苑の戦いに活躍。泰に気に入られ、『我が手足』と称される。雍州に遷った王羆に代わって?河東を統治した)が口を開いて言った。
「北豫が遠く賊領にあること、高歓が河陽に兵を進めていることは、こたびの救援を明らかに困難なものにさせています。ただ、戦いというのは迅速さや時機に適っているかで大きく左右されるものであり、古人も『虎穴に入らずんば虎子を得ず』と言っているように、もし奇兵を以てその不意を突けば、成功しないとも限りません。また、失敗したとしても、それは戦えば当たり前に起こること。問題にするに足りませぬ。〔今、劣勢なのは我々の方です。〕果敢に仕掛けていかねば、平定はいつまで経っても成らぬでしょう。」
 泰はこの言葉に喜んで言った。
「李万歲(遠の字)の言葉は人の闘志を奮い立たせる。」(原文『「李万歲所言、差強人意。」』
 かくて泰の意は救援に決した。泰は兄の子で太子少保の宇文導趙青雀の乱が起こった際、華州の兵を率いてこれを鎮圧した。538年〈2〉参照)を大都督・華東雍二州諸軍事・行華州刺史として華州の留守を任せると(周10宇文導伝)、李遠を行台尚書として先鋒とし、その後に皇太子欽周10宇文導伝)や諸将を連れて進発した《周25李遠伝》
 また、大都督の趙剛字は僧慶。河南にて侯景と戦いを繰り広げた。542年参照)を兼大行台左丞・持節とし、潁川の義勇軍の指揮をさせた《周33趙剛伝》

●柏谷塢の戦い

 洛陽に到ると泰は太子太師の于謹泰の譜代で智謀に優れた名将。劉平伏の乱を平定した。542年参照)・開府儀同三司の怡峯潁川の戦いの際、軽騎五百で任祥の軍一万余と渡り合い、大いに武名を挙げた。のち、于謹と共に劉平伏の乱を平定した。542年参照)・正平郡守の楊檦西魏に河東一帯を任されていた)らに柏谷塢(洛陽と虎牢の中間にある)を攻めさせた《周文帝紀・周15于謹伝・周17怡峯伝》。洛州(治 上洛)刺史の泉仲遵537年〈3〉参照)は力戦して真っ先に城壁を乗り越え、東魏の将の王顕明を捕らえた。かくて柏谷塢は陥落した《周44泉仲遵伝》。泰は楊檦にその守備を任せた《周34楊檦伝》

●虎牢接収と陽城の戦い
 また、先鋒の李遠は潜行して虎牢に到り、仲密を連れて泰のもとに帰還した(詳細な時期は不明《周25李遠伝》

 また、泰は要衝である陽城(洛陽の東南)を攻めた。時に西魏軍の勢いは非常に盛んであったため、東魏の陽城郡長史の麻休は征西将軍・領陽城郡守の陸騰に投降するよう勧めた。しかし騰は戦うことを選択し、一ヶ月以上も抵抗し続けたのちに捕らえられた。泰は騰の縄を解いて礼を以て接し、東部の事について尋ねると、騰は語気豊かに東部の人物を褒め上げ、かつ時事について述べた。泰はこれを聞いて笑って(北史では『感嘆して』)言った。
「卿は人の根本に背かぬ真の男だ!」
 かくてただちに騰を帳内大都督とした。
 陸騰は字を顕聖といい、北魏の東平成王の陸俟458年3月参照)の曾孫である。若くして熱い心を持ち、気骨があった。爾朱栄が入洛すると(528年)通直散騎侍郎・帳内都督とされ、葛栄の平定に従って清河県伯に封ぜられた。普泰の初めに朱衣直閤に進み、東萊王貴平孝武帝と親しく、その西遷後に侯淵に斬られた。534年〈5〉参照)の娘の安平公主を娶った。孝武帝は貴平の邸宅を訪れたさい騰と話をして気に入り、貴平にこう言った。
「阿翁(年長者への敬称)は真に良い婿を得られましたな。」
 孝武帝が西遷した時、騰は青州にいたため(青州刺史の貴平に付いていった?)、これに付いていくことができず、東魏の臣となった。東魏の興和(539~542)の初めに征西将軍・領陽城郡守とされた《周20陸騰伝》

●河橋の攻防
 3月、壬辰(2日)、泰は河橋南城を包囲した(魏孝静紀では『庚申(10日)』《北斉神武紀》。歓は阜城侯の斛律金沙苑に大敗した際、負けを認めずその場から動こうとしなかった歓を無理矢理引き返させた)に劉豊536年に西魏から東魏に寝返り、河橋の戦いでは一番の手柄を立てた。538年〈1〉参照)や太安の人の步大汗薩ら将軍と数万の兵を率いさせてこれを防がせた《北斉17斛律金伝》


 高歓軍の先鋒は太傳で大都督の厙狄干歓の妹の夫。河橋の決戦の際に唯一敗退するという失態を演じていた)だった。干は出撃すると脇目も振らずに進軍を続け、途中民家があっても立ち寄らず、侯景滏口の戦いにて葛栄を捕らえて大いに武名を挙げ、去年8月に高歓に河南の軍事権を委任された。542年参照)と会っても会食せず、後から騎兵を派されて食べ損ねた食事を送り届けられるほどだった。やがて黄河の北岸に到達した干は、洛陽に進出していた西魏軍の威容に怯む諸将を尻目に、渡河を決断した《北斉15厙狄干伝》
 東魏軍(『資治通鑑』では「高歓が十万の兵を率いて」とある)が黄河の北岸にやってくると、泰は瀍水のほとりまで後退し(東魏軍を誘引するためだったという《周文帝紀》、火船を上流より放って河橋を焼き払おうとした。東魏の行台郎中の張亮爾朱兆に最後まで付き従い、兆が自殺するとこれに覆いかぶさって泣いた。533年参照)は小艇百余艘を用意してこれを待ち受けた。火船がやってくると亮は小艇をこれに漕ぎ寄せさせ、載せていた長鎖を投げつけさせた。この長鎖の先端には釘が取り付けてあり、火船はその釘に全て捕らえられた。亮はこれを岸辺まで引っ張って行かせ、一艘も河橋に近づけなかった。〔かくして泰は河橋の破壊に失敗し、歓の渡河を許すことになった〕《北斉25張亮伝》

◆邙山の決戦 
◎黄色の旗
 厙狄干が率先して黄河を押し渡ると、高歓の大軍が陸続としてこれに続いた《北斉15厙狄干伝》
 このとき、両軍の旗幟は、歓軍は赤、泰軍は黒で統一されていた。歓お抱えの道士の綦母懐文はこれを見て歓にこう言った。
「赤は火の色で、黒は水の色(深淵は黒い)であります。水は火を消すことができますゆえ、赤を以て黒と対するのは宜しくありません。ここは水に克つことのできる土の色、つまり黄色に改めるべきでありましょう。」
 歓はそこで自軍の旗幟を全て赭黄色(赤みがかった黄色、あるいは黄色がかった茶色)に改めた。この色の幟を、人々は河陽幡(旗・幟の意)と言った《北斉49綦母懐文伝》

◎奇襲策破れる
 歓は渡河すると邙山に陣地を構え、数日に渡って動こうとしなかった。〔この膠着状態を破ったのは泰だった。〕泰は輜重を瀍曲(瀍水の屈曲部)【或いは瀍西】に残すと、兵馬に枚(声を出さないように口にくわえる箸状の道具)を咥えさせ、夜陰に紛れて歓の陣に接近した《周文帝紀》
 この時、東魏の国子祭酒の李業興天文などに詳しく、興光暦を作った。歓は出陣する際、術数に明るい業興を常に連れて行って助言を求めた。539年参照)が西方より風が吹いているのを察して歓にこう言った。
「小人の風が吹いています。大勝を博しましょう。」
 歓は答えて言った。
「もし勝ったなら、本州の刺史にしよう。」《北69李業興伝》
 翌朝、東魏の斥候の騎兵が歓にこう注進して言った。
「賊軍はいま洛陽から(『資治通鑑』では「ここから」)四十余里の地点におり、夜明けよりも前に食事を済ませ、こちらに向かっております!」
 歓は言った。
「のこのこと殺されにやってきたぞ!」(原文『「自応渴死、何待我殺!」』
 かくて陣を整えてその来攻を待ち受けた《北53彭楽伝》
 戦いがまさに始まらんとする頃、歓軍は布陣図をどこかに無くしてしまった。陳元康は危険を冒してこれを探し求め、無事回収することができた《北55陳元康伝》

◎彭楽の突撃
 戊申(18日)、黎明、泰軍は歓軍と激突した。東魏の将軍の彭楽韓陵の戦いでは先陣に立って爾朱氏の軍を大破したが、沙苑の戦いでは侮りから重傷を負った。歓に言いつけられてその息子たちに襲いかかり、その度胸を試したこともある。537年〈3〉参照)は右翼の数千騎を率いて北側より西魏軍に突っ込み、立ち塞がる西魏兵を次々と蹴散らしてそのまま宇文泰のいる陣屋に突入した。この時、ある者が歓にこう注進した。
「彭楽が裏切りました!」
 歓はこれを聞くと非常に怒ってこう言った。
「楽めは初め韓樓北魏末の群雄の一人、葛栄の残党。528・529年参照)を棄てて爾朱栄に仕え、次に爾朱氏に背いてわしに付いたが、いままた更に西に奔った。だが、勝敗は楽一人によって左右されるものではない! こたびの楽の裏切りは、反覆常無き小人が裏切っただけのことだ!〔うろたえるには及ばぬ!〕」
 しかし間もなく西北方から土煙が巻き上がると見るや、楽の使者が現れて勝利を歓に告げた。使者は西魏の侍中・開府儀同三司・大都督で文帝の兄の子(魏孝静紀)の臨洮王東魏孝静紀では『森』)、蜀郡王栄宗江夏王昇鉅鹿王闡譙郡王亮、驃騎大将軍・儀同三司・太子詹事の趙善趙貴の従祖兄)及び督将僚佐四十八人を捕らえたと報じた。捕虜は皆うなじのあたりで後ろ手に縛られ、刃で脅されつつ、東魏軍の陣列の間を名乗りながら歩かされた(原文『皆係頸反接手、臨以刃、歷両陣而唱名焉。』)。歓軍は楽の勝ちに乗じて泰軍を攻めたて、これを大破して三万余の首級を得た(魏孝静紀では『督将参僚ら四百余人・捕虜首級六万余人・おびただしい数の鎧武器牛馬を手に入れた』とある)。
 楽が続いて泰を追うと、追い詰められた泰は楽にこう言った。
「お前は彭楽ではないか⁉(出典不明) この愚か者が! 今日わしがいなくなれば、明日はお前の番だというのも分からんのか(狡兎死して走狗煮らると言うように、用が済めば歓に始末されるということ)! わしを殺すより、わしの陣屋に帰って金銀財宝を手に入れた方がいいだろう!」
 楽はそれもそうだと思い、泰を追うのをやめて陣屋に引き返した。そしてそこで泰の金帯が入った袋を一つ持って東魏軍の本陣に帰ると、歓にこう言った。
「黒獺(コクダツ、泰の字)はあと一歩という所で逃しましたが、胆は潰してやりました!」
 歓が不審に思ってその詳細を問うと、楽は泰とやり取りがあったことを述べつつ、こうも言った。
「その話を聞いたから逃したというわけではありません。」
 歓は楽の勝利を喜びはしたものの泰を逃したことは許せず、楽を地べたに伏せさせると、自らその頭【もとどり】を摑んで地面に何度も打ち付けた上、沙苑での罪を数え立てて責めて(537年10月の戦い。このとき楽は敵を侮り、酒に酔いながら敵と戦った)、歯ぎしりしながら白刃を振り下ろして寸前で止めることを三度も繰り返したのち、ようやくこれを解放した。すると楽はこう申し出て言った。
「五千騎をくだされば、今度こそ黒獺を捕らえてきてまいります。」
 歓は答えて言った。
「黒獺を逃がしたお前が、何を考えてそんな事を言うのか?」
 歓はかくて提案を却下したものの、一応勝利には報いるため、三千疋の絹をその背に載せて与えた(『通志』152潘楽伝では、「邙山の戦いに勝った際、楽は勢いに乗って西魏の本営に到り、大略奪を行なって泰の金帯が入った袋を得た。楽は略奪にかまけ、すぐに東の本営に帰ることをしなかった。このとき楽は泰を該地にて捕らえることができたはずだったのだが、それができなかったのは、実にこの貪欲心のためであったのである。歓はこれに激怒したものの、大勝を博した後のことだったので罪に問わなかった。」とある。原文『邙山之役、樂因勢追之、至其營所。仍大抄掠、樂獲周文金帶一袋、貪貨稽留、不即東返。於時周文於陣可禽、失而不獲者、實樂貪貨之由也。神武忿之、以大㨗之後、恕而不問。』《北53彭楽伝》

◎尉興慶の忠義
 翌日、両軍は再び刃を交えた《北斉神武紀》。西魏軍は宇文泰が中軍(周17若干惠伝)を、中山公趙貴泰が賀抜岳の遺衆を接収する際、非常な貢献をした。河橋の戦いでは先んじて退却した。538年〈1〉参照ら五将が左軍を、中領軍の若干惠らが右軍を率いた《周文帝紀》
 前日、歓軍が泰軍に大勝を博した時、その兵の中にロバを盗んで殺した者がいた。軍令では死罪に相当したが、歓はその処分をすぐには下さず、晋陽に帰ってから行なうことにした。その兵が今、泰のもとに逃れて歓の所在を告げ知らせた(周14賀抜勝伝では泰が歓の軍旗・軍鼓を見てその所在を知ったことになっている)。泰がこれを信じて右軍と共にそこに集中攻撃をかけると《北斉神武紀》、果たして歓軍は大いに崩れたち、泰軍はこれを数里先まで追って(周17若干惠伝)その歩兵をみな虜とした《周文帝紀》。車騎将軍・真定県公の竇熾は石済津まで追撃して還った《周30竇熾伝》
 歓は逃げる最中に馬を失った。従者の赫連陽順はそれを見ると自分の馬を譲り、家奴(蒼頭)の馮文洛と共にその乗馬を助けた。このとき歓に従う者は七人しかいなかった。そこに追兵がやってくると、親信都督の尉興慶)が歓にこう言った。
「大王よ、〔ここは私に任せて〕早くお逃げなさいませ! 我が腰には百本の矢あり、百人を殺すのに充分です!」
 歓は言った。
「お前が無事帰ったら懐州【治 河内、天平初年に設置】刺史にしよう! もし死ぬようなことがあれば、お前の子を重く用いよう!」
 興慶は言った。
「我が子はまだ小さいので、兄を代わりに用いて下さいませ。」
 歓はこれを許した。興慶は追兵と戦い、矢が尽きた所で《北斉神武紀》矢に当たって死んだ《北斉19尉興敬伝》
 これより前、興慶は綦連猛533年参照)・謝猥餒らと共に歓の左右に居り、共に弓馬に秀で、恭謹なことで知られた。歓があるとき人相家に三人の人相を占わせると、このような結果が出た。
「猛は大いに富貴の身分となるが、尉・謝は無官のまま終わるだろう。」
 歓は興慶が死んだことを知ると、こう嘆いて言った。
「富貴になるかどうかは、天によって定められているのだ!」
 興慶は戦う際、常に自分の名を背に書かせてから戦っていた。歓はその屍を求め、手に入れるとこれを親しく祭り、死んだ場所に寺を建てた。人々はこれを高王浮図(仏寺)と言った。特進して儀同三司・涇、岐、豳三州軍事(北斉19尉興敬伝)・涇州刺史とされ、公爵に進められて(北斉19尉興敬伝)閔壮と諡された《北53尉興慶伝》
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 ⑴竇熾...字は光成。生年507、時に37歳。北魏の高官を務める名家の出。美しい髭を持ち、身長は八尺二寸もあった。公明正大な性格で、智謀に優れ、毛詩・左氏春秋の大義に通じた。また、騎射に巧みで、北魏の孝武帝や柔然の使者の前で鳶を射落とした。葛栄が滅ぶと爾朱栄に仕え、残党の韓楼を自らの手で斬った。孝武帝に信任され、関中亡命に付き従った。540年参照。

◎賀抜破胡、必ず汝を殺すなり
 〔これより前、〕泰は三千人の勇者を募り、接近戦用の武器を持たせると、太師の賀抜勝爾朱氏・高歓・孝武帝・宇文泰の間を渡り歩いた猛将。泰の元上司である賀抜岳の兄)にこれを率いて歓の本陣に突撃するように命じていた(周文帝紀ではこの突撃が、中軍と右軍の突撃の前のことのように書かれている。歓を敗走させて混乱させてから攻めたのか、中軍と右軍の突撃に合わせて突っ込んだのか、詳しくは分からない)。勝は戦場の中で歓を見かけると、歓を字で呼んで言った。
「賀六渾! お前はこの賀抜破胡が必ず殺してくれるわ!」(勝の字は破胡
 かくて槊(騎兵用の長槍)を手に、十三騎を率いて(北斉神武紀)これに襲いかかった。歓は慌てて逃げ、途中河州刺史【名目上のもの】の劉洪徽劉貴の次子)が勝の配下の二騎を射倒す奮戦があったものの(北斉神武紀)、数里先にて遂に追いつかれた。勝の槊が歓の体を今にも貫こうとし、歓が殆ど気を失いかけた時、歓に付き従っていた武衛将軍の段韶段栄と歓の妻〈婁昭君〉の姉の子。韓陵山の戦いを前に怯む歓を勇気づけた)が振り向きざまに勝に向けて矢を放った(北斉16段韶伝)。その矢は勝の馬を射殺し、勝は馬と共にどうと倒れた。副え馬がやってきた時には、歓は既に遥か彼方に逃げ去っていた。勝は嘆息して言った。
「今日わしが弓矢を帯びてこなかったのは、天意である!」《周14賀抜勝伝》
 歓は命の恩人の韶に乗馬(北54段韶伝)と金を与え、公爵(姑臧県公)とした《北斉16段韶伝》

◎西魏の勇者たち
 西魏の南郢州刺史【名目上のもの】で平原公の耿令貴沙苑の戦いの際に敵を多く殺傷し、返り血で染まった姿を泰に賞賛された。537年〈3〉参照)は戦いに臨んで配下にこう語った。
「大丈夫たる者、賊と相対すれば右手に刀を、左手に矟()を持って直ちに斬り刺すべきである。死を怖がって躊躇などしてはならぬ!」
 かくて唸り声を上げて単身敵中に突き入ると、歓兵が次々とこれに攻撃を仕掛けた。西魏の人々はみなその死を覚悟したが、間もなく令貴は刀を振るいながら陣中に帰ってきた。これを繰り返すこと数度、令貴に当たった歓兵には死傷者が相次いだ。令貴は左右にこう言った。
「わしは殺人を楽しんでいるわけではない! 賊を滅ぼすためには仕方のないことだったのだ。それに、もし賊を殺すことも、賊に傷つけられることも無ければ、文筆をもてあそび、座談に興じるだけの文官どもと何も変わらんではないか!」(原文『何異逐坐人也。』胡三省注『逐坐人、指当時持文墨議論者、但能相隨逐坐談而坐食也。』《周29耿豪伝》
 このとき、殷州刺史・兼太子武衛率【東宮の武衛将軍を武衛率としたものであろう】・包信公の王胡仁も三百人の切り込み隊を率い、鬨の声を上げながら突進を繰り返して、非常に多くの歓兵を殺傷した。敵兵は敢えてこれに当たろうとはしなくなった《周29王勇伝》
 また、都督・萇里県公の蔡祐泰子飼いの猛将。河橋の戦いの際に敵に包囲されたが奮戦して脱出し、恒農にて泰にまみえて安堵させた。538年〈1〉〈2〉参照)も次々と歓兵を撃破した。このとき祐は明光の鉄鎧(南北朝から唐にかけて流行した鎧。胸部と背部に鏡のように磨かれた楕円形のプレートがあるのが特徴。これがよく光を反射したのでこの名がある。出典:篠田耕一『武器と防具 中国編』)を着ていたため、歓兵はこれを見るや口々にこう言って避けた。
「鉄の猛獸だ!」《周27蔡祐伝》

◎趨勢決まる
 泰の甥で儀同三司の宇文護字は薩保。533年参照)は先鋒を務めたが、東魏兵に包囲された。しかし、都督の侯伏侯龍恩が身を挺して守ってくれたため、逃れることができた《周10晋蕩公護伝》
 泰の中軍と右軍が歓の本軍に追撃をかけている間、残った左軍(趙貴ら五将が率いる)は歓軍から集中攻撃を受けていた(周17若干恵伝)。左軍が耐えきれずに敗退すると歓軍は再び勢いを取り戻し、一気呵成に泰を攻め立てた。劣勢に陥った泰は夜陰に紛れて撤退した《周文帝紀》。歓軍はこれを追撃した。

◎退却と追撃
○周43韓雄伝
 遷北中郎將。邙山之役,太祖命雄率眾邀齊神武於隘道。神武怒,命三軍併力取雄。雄突圍得免。

 諸将たちが皆退却する中、一人馬首を巡らして追撃を防いだのが都督の王雅沙苑の戦いで大いに活躍した。537年〈3〉参照)だった。東魏兵は雅に後詰めの兵が無いのを見てこれに殺到したが、雅は右に左に暴れ回り、九人を斬り殺した。そして東魏兵がやや退いたのを見ると、軍営に帰還した。泰は感嘆して言った。
「王雅は全身肝っ玉だ。」《周29王雅伝》
 この時、泰は北中郎将の韓雄に追撃軍を隘路にて迎え撃たせた。歓は雄の迎撃に遭うと激怒し、全軍を以て雄に攻めかかった。雄は包囲を突破して逃走することに成功した。
 于謹は麾下の兵を率いて歓に偽りの投降をし、道路の左側に立って歓兵を見送った。歓兵は勝ちに乗じて追撃をしている所だったため、何の警戒もしなかった。謹は追騎が全て通り過ぎたのを見るや、これに背後から攻めかかった。追騎は予想外の事態に恐慌を来した。そこに敗残兵を集めた太子太保・秦州刺史の独孤信もとの名は如願、泰の旧友。軍事・政治に優れた知勇兼備の名将。541年参照)の攻撃も加わったので、遂に追騎は追撃を諦め、泰軍は無事逃げおおせることができた《周15于謹伝・16独独信伝》
 若干恵は夕方頃に歓軍から何度も攻撃を受けたが、その度に儀同三司の陸通泰の参謀の一人。趙青雀の乱の平定に活躍した。538年〈2〉参照)と共に(周32陸通伝)これを撃退していた。夜に撤退を開始すると歓兵から追撃を受けたが、恵は一つも慌てることなくおもむろに馬から下り、料理人に食事を作らせた。そして食べ終わると、左右にこう言った。
「長安で死ぬのも、ここで死ぬのも同じではないか?」
 かくて軍旗を建てて角笛を鳴らし、堂々と敗残兵を収容したのちゆっくりと帰路に就いた。追騎は恵や伏兵の存在を恐れてこれを追わなかった。恵は恒農にて泰と再会すると、歓軍の〔限界に近い〕状態を述べ、勝利まであと一歩のところで敗れたことを悔しがってはらはらと涙を流した。泰はその意気を褒め称えた《周17若干恵伝》
 柏谷塢を守備していた楊檦も退却した。途中、侯景率いる騎兵に追撃を受けると、檦は儀同の韋法保と心を合わせてこれを防ぎ、十数里に渡って戦いながら進んだ。景は〔その闘志に舌を巻き、〕遂に諦めて引き返した。〔檦が帰ってくると、〕泰は景を撃退したことを褒め、檦に絹三百疋を与えた《周34楊檦伝》
 泰は関中に入ると、渭水のほとりに陣を布いて〔歓の侵攻に備えた。〕《周文帝紀》
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 ⑴韓雄...字は木蘭。河南東垣(洛陽の近西)の人。若年の頃から勇敢で、人並み外れた膂力を有し、馬と弓の扱いに長け、人を率いる才能があった。535年に西魏側に立って挙兵し、東魏の洛州刺史の韓賢と何度も戦った。のち家族を捕虜とされ、やむなく賢に降った。537年、脱走して恒農にいた宇文泰に拝謁した。間もなく郷里に帰って再び兵を集め、洛陽に迫ってこれを陥とした。その後も東垣の地にて戦い続けた。


 543年(2)に続く