●東魏と梁の通好
 これより前、梁は自国に投降していた西魏益州刺史の傅敬和535年〈2〉参照)を東魏に送り、通好を求めていた《魏98島夷蕭衍伝》。東魏はそこで兼散騎常侍の李諧生年496、時に42歳。孫搴をからかった。536年参照)を正使、兼吏部郎中の盧元明と兼通直散騎常侍の李業興を副使として梁に派遣した《魏孝静紀》
 李諧、字は虔和は、李平の子である【李平は李崇の従弟で、孝文・宣武に仕えた508年8月参照)】。諧は背が小さく、六本の指があった。また首筋にこぶがあって顎が上を向き、片足が不自由で歩みが遅く、吃音の症状があって〔それを隠すために〕ゆっくりとしか話せなかった。しかしそれが逆に堂々として風流な態度に見えたので、人々から「李諧善く三短を用う」と褒め称えられた。
 盧元明、字は幼章は、盧昶の子である【盧昶494年6月参照は盧玄の孫である】。

 秋、7月、癸卯(10日)、諧らが建康に到ると(魏孝静紀では甲辰〈11日〉)、武帝はこれを引見し議論を交わしてみたが、みな立て板に水を流すが如き応対ぶりを示した。諧らが退出すると、武帝はこれを見送ったのち、左右にこう言った。
「朕は今日強敵に遭った。卿らは以前北方は蛮夷の地で、人物が全くいないと言っておったが、では聞こう。あの者たちはどこからやってきたのか!」

 この時鄴下に風流な事で知られた者は、李諧・隴西の李神俊525年〈5〉や、530年〈3〉などを参照)・范陽の盧元明・北海の王元景孫搴を匿った、536年参照)・恒農の楊遵彦愔、535年〈2〉参照)・清河の崔贍らが主だった。
 神俊は名を挺といい、李宝(444年12月参照)の孫である。元景は名を昕といい、王憲【苻堅の丞相の王猛の孫で、皇始三年398年正月に北魏に帰順した。】の曾孫である。崔贍は、崔㥄の子である(532年正月参照)。
 東魏と梁が友好関係になると、多くの使節が往来したが、その使者は両国とも自慢の俊才を選出した。接客の者も使者と同じく当代最高の俊傑が厳正な審査のもと選び抜かれ、才能と家柄の高くない者は絶対にこれに預かることができなかった。

 梁の使者が鄴に到ると、鄴下は上を下への大騒ぎとなり、高門の子弟は衣服を着飾って見物に赴いた。彼らが使者に贈る礼物は非常に多く、迎賓館の門前が市場のようになるほどであった。歓待の宴が開かれると、尚書令の高澄は必ず左右の者を密かにその場に派して問答させ、一度でもやり込めることができると、手を打って褒め称えた。

 魏使が建康に到った場合も、鄴のそれと同様であった。


○北43李諧伝
 奬弟諧。諧字虔和,幼有風采。趙郡李搔嘗過元叉門下,見之,歸謂其父元忠曰:「領軍門下見一神人。」元忠曰:「必李諧也。」問之果然。襲父先爵彭城侯。文辯為時所稱,歷位中書侍郎。
 天平末,魏欲與梁和好,朝議將以崔㥄為使主。㥄曰:「文采與識,㥄不推李諧;口頰[扁頁][扁頁],諧乃大勝。」於是以諧兼常侍、盧元明兼吏部郎、李業興兼通直常侍聘焉。梁武使朱异覘客,异言諧、元明之美。諧等見,及出,梁武目送之,謂左右曰:「朕今日遇勍敵,卿輩常言北間都無人物,此等何處來?」謂异曰:「過卿所談。」是時鄴下 言風流者,以諧及隴西李神儁、范陽盧元明、北海王元景、弘農楊遵彥、清河崔贍為首。初通梁國,妙簡行人,神儁位已高,故諧等五人繼踵,而遵彥遇疾道還,竟不行。既南北通好,務以俊乂相矜,銜命接客,必盡一時之選,無才地者不得與焉。梁使每入, 鄴下 為之傾動,貴勝子弟盛飾聚觀,禮贈優渥,館門成市。宴日,齊文襄使左右覘之,賓司一言制勝,文襄為之拊掌。魏使至梁,亦如梁使至魏,梁武親與談說,甚相愛重。諧使還後遷秘書監,卒於大司農。諧為人短小,六指,因癭而舉頤,因跛而緩步,因謇而徐言,人言李諧善用三短。文集十餘卷。

●独孤如願と楊忠の帰還
 これより前の大統元年(535)正月、西魏の将の独孤如願楊忠は東魏に迫られ、荊州から梁に亡命していた(534年〈5〉・535年〈1〉参照)。
 この秋、如願らは梁の武帝に北へ還ることを許された。このとき如願の両親はどちらも歓の領地である山東(洛陽の西にある崤山の東)に住んでいたため【孝武帝の西遷の際、如願は両親を洛陽に置いてこれに付き従った】、武帝は如願に西魏と東魏のどちらへ行くのか尋ねた。すると如願はこう答えた。
「君主に仕える者は、肉親のために二心を抱かぬものです。」
 武帝は如願の節義の高さを褒め称え、非常に丁重な礼を以て西魏に送った。如願は楊忠と共に長安に還ると、国威を毀損した罪で罰してくれるよう朝廷に求めた。西魏の文帝がこれを尚書省に諮らせると、七兵尚書・陳郡王玄らがこう所見を述べた。
「辺防の将とは、軍隊を統率し、謹んで天子に代わって賊を討つのが役目であり、大敗して兵を損失するようなことがあれば厳罰は免れぬものです。さて以前、荊州刺史の独孤如願は大命を拝して遠く襄・宛の地を襲い、賊帥の辛纂を斬ってその首を京師に伝えるという、まことに賞賛に値する功を挙げましたが、その功績を良く全うすることなく、のち賊に敗北して南方に亡命し、朝廷の期待に背きました。これは全く厳罰の例に当たるものと言えましょう。ただ、如願が率いていた兵というのはたったの数千であり、しかも孤立無援であったという事を考え合わせなければなりません。これで賊の大軍と当たれば、負けるのが当然というものでありましょう。さて、先程大敗は厳罰を免れぬと申しましたが、恩赦があれば、その例から外れることがございます。昔、秦は孟明(百里奚の子で、晋に二度大敗を喫したが赦され、三度目の戦いで遂に晋を大破した)を、漢は広利(前漢の李広利。西征に失敗して退くことを禁じられ、再度の西征で大功を立てた)を赦して、遂に良く彼らに名誉挽回の大功を成さしめ、史書から賞賛を受けました。今、陛下はこのいにしえの常道に従うべきであるように思います。臣らは一致して如願の罪を赦し、旧職に復するよう願い申し上げます。」
 文帝は詔を下して言った。
「如願は荊・襄に戦って大功を挙げたが、強敵に遭遇して追い詰められ、呉の地に亡命した。しかしこの行動は賊に降るを肯んぜず、退路も断たれていた故の臨機応変の行動であり、過ちと呼ぶに至らぬものであった。しかも如願は呉の地にてよく忠義の心を揺るがす事なく、遂に朝廷に帰還して志を全うしたのだ。まことに賛嘆すべきである! その上、如願はこの行ないを誇ることなく、謙譲の心を抱いて心から謝罪をしてきたのである。これで決議の赦免だけにとどめたりなどすれば、融通の利かぬ愚か者と見られよう。ゆえに、いま如願を驃騎大将軍とし、侍中・開府の官を加え、使持節・儀同三司・浮陽郡公に関してはみなそのままと為すこととする。」
 間もなく如願は更に領軍将軍とされた《周16独孤信伝》
 楊忠は宇文泰が龍門にて狩猟を行ったときに虎と一対一で闘い、左手でその腰を脇挟み、右手でその舌を引き抜いた。泰はその勇気を讃え、これに『揜(エン)于』(北方の言葉で虎を指す)という字を与えて直々の配下とした(楊忠は小関の戦いに加わったとされるが、帰還の時期的に誤りのように思われる《周19楊忠伝》

●恒農攻略

 この月、泰は兵を咸陽に集めた。
 8月、丁丑(14日)、泰は尚書直事郎中の宇文深の勧めに従い(周27宇文深伝)、李弼・独孤如願・梁禦・趙貴・于謹・若干恵・怡峯・劉道徳・王徳・侯莫陳崇・李遠・達奚武ら十二将(泰は丞相となった際に十二軍を設けていた《周11宇文護伝》。道徳と峯は常に騎将を務めた)を率いて恒農の攻略に向かった。泰は潼関に到ると、軍にこう宣誓して言った。
「我々は天子に代わって逆賊を除きに行くのである。ゆえに諸君は戦道具の整備を欠かさず、戦いの際には気を引き締めねばならない。すなわち、諸君らは略奪にかまけて敵を後回しにしてはならない。民を傷つけて威を示すような真似はしてはならない。命令を遵守すれば褒賞が、逆らえば処刑が待っている。諸君よ、奮励努力せよ!」
 かくて北雍州【治 華原県】刺史の于謹を先鋒とし、盤豆【恒農の湖城・閺郷の西に皇天原があり、その西に盤豆城がある】を攻めさせた。東魏の将の高叔礼は砦を固く守ったが、賀蘭祥泰の姉の子、534年〈5〉参照)を先鋒とする(周20賀蘭祥伝)謹軍の間断無い猛攻に屈し、一千の兵とともに降伏した。謹はこれを長安に送った《周文帝紀》
 泰は次いで恒農を攻めるに当たり、東秦州刺史の達奚武小関の戦いの際、泰の奇襲策に蘇綽と共に賛同した)に二騎を付けて敵情を偵察させた。武は敵の偵察部隊と遭遇すると直ちにこれと戦い、六名の首を斬り、三名を捕らえて帰還した(詳しい時期は不明《周19達奚武伝》
 戊子(25日)、泰軍が恒農に到ると、東魏の将の高干と陝州刺史の李徽伯李裔、528年〈1〉参照)がこれを防いだ。時に連日雨が降りしきっていたが、泰は敢えて諸軍に攻撃を命じた。
 庚寅(27日)、泰軍は恒農を陥とし、李徽伯ほか守兵八千を虜とした(周文帝紀では徽伯は斬られている。いま北史の記述に従う)。高干は黄河の北に遁走したが、先に陝津より黄河を渡っていた(周14賀抜勝伝)中軍大都督の賀抜勝に捕らえられ、徽伯と共に長安に送られた《周文帝紀》
 泰は作戦の成功を大いに喜び、提案者の宇文深をこう褒め称えた。
「君は我が家の陳平である。」《周27宇文深伝》

○周文帝紀
 秋七月,徵兵會咸陽。八月丁丑,太祖率李弼、獨孤信、梁禦、趙貴、于謹、若干惠、怡峯、劉亮、王悳、侯莫陳崇、李遠、達奚武等十二將東伐。至潼關,太祖乃誓於師曰:「與爾有眾,奉天威,誅暴亂。惟爾士,整爾甲兵,戒爾戎事,無貪財以輕敵,無暴民以作威。用命則有賞,不用命則有戮。爾眾士其勉之。」遣于謹居軍前,狥地至槃豆。東魏將高叔禮守柵不下,謹急攻之,乃降。獲其戍卒一千,送叔禮於長安。戊子,至弘農。東魏將高干、陝州刺史李徽伯拒守。於時連雨,太祖乃命諸軍冒雨攻之。庚寅,城潰,斬徽伯,虜其戰士八千。高干走度河,令賀拔勝追擒之,並送長安。
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 李弼...字は景和。生年494、時に44歳。並外れた膂力を有し、爾朱天光や賀抜岳の関中征伐の際に活躍して「李将軍と戦うな」と恐れられた。のち侯莫陳悦に従い、その妻の妹を妻としていた関係で信頼され、南秦州刺史とされた。宇文泰が賀抜岳の仇討ちにやってくるとこれに寝返り、その勝利に大きく貢献した。のち小関の戦いでは竇泰を討つ大功を立てた。537年(1)参照。

●戦果拡大
 このとき黄河以北の諸城の大半はなお東魏に従っていた。そこで兼黄門侍郎の楊檦爾朱栄に船を提供し、元顥を破るのに大きく貢献した。529年〈2〉参照)が泰にこう申し出た。
「それがしの父の猛はかつて邵郡【邵郡の治所は陽胡城で、軹關から二百余里の地にある】白水の県令を務めたことがあり、その縁でそれがしも彼の地の豪族と互いに知り合いの関係にあります。今そのつてを頼って彼らを仲間に引き入れ、協力して邵郡を奪取しに参りたいと思います。」
 泰がこれを許すと、檦は言葉通り土豪の王覆憐らの協力を取り付け、三千の兵を以て邵郡を襲い、太守の程保や県令四人を捕らえて斬ることに成功した。人々は檦を行邵郡事に推したが、檦は覆憐のおかげで今回の成功を得たことを以て、上表して彼を邵郡太守とした《周34楊檦伝》
 東魏の陽州(宜陽。洛陽の近西南)刺史の段琛、字は懐宝は恒農の陥落を聞くと、州城の宜陽を捨てて遁走した。西魏の立義大都督で宜陽の人の陳忻欣?)、字は永怡は、義勇軍を率いてこれを九曲道にて迎撃し、非常に多くの兵を殺傷して新安(恒農〜洛陽の間にある県)令の張祗を虜とした。泰は忻の忠義心を褒め、行新安県事とした《周43陳忻伝》
 賀抜勝も河北郡を攻略して太守の孫晏を捕らえた(以上、9月〜閏9月の事だと思われる《周14賀抜勝伝》
 
 河内の温城でも司馬裔が起義を行ない、西魏に誼を通じたが、東魏将の高永洛・王陵らの猛攻を受けて大きな被害を出した(詳細な時期は不明《周36司馬裔伝》

 これより前、韓雄は洛陽の西にて反東魏の兵を挙げたが、東魏の洛州刺史の韓賢に敗れ、洛陽に連行されていた(535年〈2〉参照)。雄は密かに賢の一党を仲間に引き入れて賢を暗殺しようとしたが、事前に露見して逃走した。このときちょうど泰は恒農にいたので、雄はそのもとに到ってお目通りを願った。泰はその心がけを褒め、雄を武陽県侯に封じ、郷里の東垣(洛陽の近西)に帰らせて再び兵を集めさせた。

○周文帝紀
 於是宜陽、邵郡皆來歸附。先是河南豪傑多聚兵應東魏,至是各率所部來降。
○周43韓雄伝
 乃潛引賢黨,謀欲襲之。事泄,遁免。時太祖在弘農,雄至上謁。太祖嘉之,封武陽縣侯,邑八百戶。遣雄還鄉里,更圖進取。
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 ⑴韓雄...字は木蘭。河南東垣(洛陽の近西)の人。若年の頃から勇敢で、人並み外れた膂力を有し、馬と弓の扱いに長け、人を率いる才能があった。535年に西魏側に立って挙兵し、東魏の洛州刺史の韓賢と何度も戦った。のち家族を捕虜とされ、やむなく賢に降った。535年(2)参照。

●阿育王塔に仏舎利見つかる
 梁が長干寺の阿育王塔を修築した際、地中から石函が発見された。石函の中には瑠璃椀があり、その椀の中からブッダの骨四本と髮と爪四枚を得た《南78扶南伝》
 辛卯(28日)、武帝は長干寺に赴き、無遮大会(貴賤の別無く施しを行なう会)を催して大赦を行なった(扶南伝では27日《梁武帝紀》

●東魏の動揺
 9月、柔然が西魏の要請に従って東魏の三堆【肆州郡の平寇県に属す。隋代では平寇県は崞県に改められ、雁門郡に属した。唐代では嵐州の静楽県に属した】を侵したが、高歓に撃退された《出典不明》
 この月、東魏の侍中の元子思が弟の子華と西魏に亡命を図った罪で死を賜った。

 この月、梁の南兗州(広陵)で大飢饉が発生した。
 また、北徐州の境内で種も播かずに稲や稗が約二千頃に亘って生えた。

 閏9月、甲子(2日)《梁武帝紀》、梁が武陵王紀武帝の第八子を都督益梁等十三州諸軍事・安西将軍・益州刺史とした《梁55武陵王紀伝》

 乙丑(3日)、衛将軍・右光禄大夫の蒋天楽が謀反を企てたかどで誅殺された《魏孝静紀》
 瀛州刺史の元晏拓跋什翼犍の子の秦王翰の子孫。元景和を討伐した。535年〈2〉参照)は天楽に会っていたという事で定州に押送され、死を賜った《北15元晏伝》
 鄴にて禁酒令が出された《魏孝静紀》

○魏孝静紀
 閏月乙丑,衞將軍、右光祿大夫蔣天樂謀反,伏誅。禁京師酤酒。
○梁武帝紀
 九月,南兗州大饑。是月,北徐州境內旅生稻稗二千許頃。

 ⑴武陵王紀…字は世詢。武帝の第八子。母は葛修容。生年508、時に17歳。温和な性格をしており、感情が一定していた。文武に優れ、気骨のある詩文を作り、騎射や長矛の扱いに長けた。524年、東揚州刺史とされた。

●貪汚の風
 ある時、行台郎中の杜弼が歓にこう求めた。
「昨今、文武官に廉潔なる者非常に少なく、貪汚の風が天下にみなぎっています。どうかこれらに懲罰を下されますよう。」
 歓は答えて言った。
「そなたの言う通り、天下に貪汚の風のはびこること久しいものがある。しかし現在は、宇文黒獺宇文泰)が関西にいる我が諸将ら【可朱渾道元・万俟普撥・劉豊生らのことを指す】の家族の多くを人質にして離反を誘い、江東の呉翁蕭衍武帝)が衣冠礼楽を尊重した政治を行なって中原の士大夫の羨望を集めておる時なのだ。このような時にわしが急に綱紀を正し、見逃しを一切しなくなれば、諸将の尽くが黒獺に帰し、士大夫の尽くが蕭衍のもとに奔るであろう。人材がいなくなって、どうやって国を維持できようか!? 時が来ればそなたの通りにやるゆえ、それまでしばし待つがよい。」【高歓は部下に柔軟に対応して組織の結束を強め、小過を見逃して大功を成したのである。

 歓がまさに西魏に出兵しようとした時、杜弼はまた歓にこう勧めて言った。
「まず内賊を除いてから外敵を討つべきであります。」
 歓は答えて言った。
「内賊とは誰のことか?」
 弼は言った。
「人民から収奪を繰り返している、勲貴(武勲をたてて貴い身分となった者たち)たちのことであります。」
 すると歓はこれに答えずに、弼にある人々の列の間を歩かせた。その列を構成するは兵士たちで、みな矢をつがえ、刀を振り上げ、長槍を突きつけて弼を狙っていた。歓は事前に絶対に傷つけないことを弼に約束していたが、それでも弼は通り過ぎる際に戦慄して冷や汗を流した。歓はしかるのちに弼をこう諭して言った。
「矢をつがえるも射ず、刀を振り上げるも斬らず、長槍を突きつけるも突かざるに、そなたは全く胆を潰しておった。勲貴の者たちはこれらが襲いかかる中を突き進み、百死に一生を得ながら勲功を打ち立てた者たちなのだ。ゆえに彼らがいくら貪汚であろうと、一般人と同列に扱うことをせぬのだ!」
 弼は恐れ入り、額を地に擦り付けて言った。
「私は無知蒙昧で、世の道理というのが分かっておりませんでした。今その蒙が啓かれ、ようやく聖賢の心を知れた心持ちでおります。」《北斉24杜弼伝》

●鮮漢の軋轢と敖曹の傲岸
 歓は兵士に号令する際、常に丞相府属の張華原534年〈1〉参照)をその伝達役とした《北斉46張華原伝》。歓は鮮卑人に対してはこう言った。
「漢人は汝の奴隷であり、男は汝のために田を耕し、女は汝のために布を織り、汝に衣食を捧げてその不自由を無くさしむる。汝はこれを陵辱するのか?」
 また、華()人にはこう言った。
「鮮卑人は汝の傭兵であり、汝が一斛の粟・一疋の絹を与えれば、汝のために賊を討ち、汝をして安寧ならしむる。汝はこれを憎むのか?」【高歓は夷・夏混合の軍を良くまとめる術を持っていた。《出典不明》

 当時、鮮卑人はみな中華人を見下していたが、高敖曹にだけは気兼ねしていた。歓は将兵に号令を下す時、常に鮮卑語を用いていたが、敖曹が居る時は常に華語を用いた。
 敖曹が上洛より帰還すると、歓はこれを軍司・大都督とし、七十六人の都督を統率させた。また、司空の侯景を西道大行台とし、敖曹や行台の任祥出典不明)・御史中尉の劉貴・豫州刺史の堯雄出典不明)・冀州刺史の万俟受洛干らと共に虎牢にて練兵を行なわせた。
 敖曹が北豫州【治 虎牢】刺史の鄭厳祖と握槊(胡人の博戯。バックギャモン、盤双六に似る?)をした時、貴が厳祖を呼びに使者を遣わしてきた。しかし敖曹は握槊に熱中していたため、厳祖を放さず、使者の首に枷を付けて柱に縛りつけ、無理矢理厳祖を連れて行くのを封じた。使者は怒って言った。
「枷を付けるのは簡単ですが、外すのは難しいのですぞ!」
 すると敖曹は刀をやにわに引き抜くと、その首を刎ねて言った。
「どこが難しいのか!」
 貴は己の使者を殺された怒りを堪えて、特に咎め立てしなかった。
 翌日、貴が敖曹と対座している時に、黄河の治水工事に当たっている役夫の多くが溺死したという注進があった。すると貴は敖曹にこう言った。
「頭銭価漢(首に一銭の価値しかない漢人)、これに続いて死んでしまえ!」
 敖曹は激怒して貴に斬りつけたが、貴はこれをかわして己の陣屋に遁走した。敖曹は太鼓を鳴らして兵を集め、これを攻めようとしたが、侯景と万俟受洛干に説得されて遂に取り止めた。
 敖曹がある時丞相()府に入ろうとすると、門番に断られた。すると敖曹は怒って弓を引いてこれを射た。歓はこれを知っても、敖曹を責めることをしなかった《北31高昂伝》

◯北斉21・北31高昂伝
 昂還,復為軍司大都督,統七十六都督,與行臺侯景治兵於武牢。御史中尉劉貴時亦率眾在北豫州,與昂小有忿爭(昂與北豫州刺史鄭嚴祖握槊,貴召嚴祖,昂不時遣,枷其使。使者曰:「枷時易,脫時難。」昂使以刀就枷刎之,曰:「何難之有?」貴不敢校。明日,貴與昂坐,外白河役夫多溺死。貴曰:「頭錢價漢,隨之死。」),昂怒,〔拔刀斫貴。貴走出還營,昂便〕鳴鼓會兵而攻之。侯景與冀州刺史万俟受洛干救解乃止。其俠氣凌物如此。于時,鮮卑共輕中華朝士,唯憚服於昂。高祖每申令三軍,常鮮卑語,昂若在列,則為華言。昂嘗詣相府,掌門者不納,昂怒,引弓射之。高祖知而不責。〔性好為詩,言甚陋鄙,神武每容之。

┃折樹矟
 大同三年(537)、梁の武帝が楽遊苑にて酒宴を開いた。このとき少府が、作ったばかりの両刃の矟(長柄の馬上槍)を帝に献上した。その長さは二丈四尺(約5メートル?)で、太さは一尺三寸(約30センチ?)あった。帝は河南国(吐谷渾)産の駿馬である紫騮を太子左衛率の羊侃北魏の泰山太守であったが、叛いて梁に付いた)に与え、これに乗ってその突き味を試すよう命じた。侃は矟を手に馬に乗ると、右に左に華麗な矟の技を披露した。人々はこれに興奮し、もっとよく見ようと近くにあった樹に次から次へとよじ登った。帝はこれを見て言った。
「この樹は必ず侍中が原因で折れてしまうことになろう。」
 間もなく樹は帝の言葉通りに折れた(登った人の重みで?)。このため、人々はこの矟のことを『折樹矟』と呼ぶようになった。
 侃は北人の投降者たちの中で唯一の名族の子孫であったため、帝にことのほか寵愛を受けた。帝はこう言った。
「もう面影はないが、朕も若かりし時は卿のような矟捌きを見せたものだ。しかし、いま卿の技の冴えを見ると、朕の腕はまだまだだったということがよくよく分かった。」
 帝は更に三十句で『武宴詩』を作るように侃に言うと、侃は直ちにその場でこれを作ってみせた。帝はこれを読んで言った。
「わしは『仁者は必ず勇有り』(論語憲問5。この後に『勇者は必ずしも仁有らず』と続く)と聞いていたが、いま勇者に仁()が有るのを見た。鄒・魯の地には孔子の遺風がまだ残っており、英賢を輩出しているのだ。」

○梁39・南63羊侃伝
 大同三年,車駕幸樂遊苑,侃預宴。時少府奏新造兩刃矟成,長二丈四尺,圍一尺三寸,高祖因賜侃馬(河南國紫騮),令試之。侃執矟上馬,左右擊刺,特盡其妙,高祖善之。〔觀者登樹。帝曰:「此樹必為侍中折矣。」俄而果折,因號此矟為折樹矟。北人降者,唯侃是衣冠餘緒,帝寵之踰於他者,謂曰:「朕少時捉矟,形勢似卿,今失其舊體,殊覺不奇。」〕又製武宴詩三十韻以示侃,侃即席〔上〕應詔,高祖覽曰:「吾聞仁者有勇,今見勇者有仁,可謂鄒、魯遺風,英賢不絕。」〔是日詔入直殿省,啟尚方仗不堪用。上大怒,坐者非一。及侯景作逆,果弊於仗粗。〕

┃退廃
 この日武帝は侃に詔を下し、宮中に宿直させた。この時、侃は上奏して言った。
「尚方(天子の剣・器物などの作製をつかさどる)製の武器は〔粗悪で〕実戦で役に立ちません。」
 帝は激怒し、責任者たちを処罰した。〔ただ、この弊風が改まる事は無かった。〕のち、侯景の乱が起こった時、果たして武器の粗悪さによって敗れることになった。

○南63羊侃伝
 是日詔入直殿省,啟尚方仗不堪用。上大怒,坐者非一。及侯景作逆,果弊於仗粗。