山内龍雄という画家がいました(1950年~2013年)。

油彩画の世界で、キャンバスを神のように薄くなるまで削り出すという独自の画風を編み出し、ざらざらの材質感を醸し出すマチエールという画風を確立した人です。

今はもうありませんが、山内のアトリエは北海道厚岸の原野の中にぽつんと1軒だけ建っている木造家屋で、夜になると真の真っ暗闇に包まれ、泊まった人は怖くなるほどだったと言います。遠くで一枚の葉が落ちる音も聞こえるほどの静寂で、天空に見える星は無数。

こうした環境が山内をしてキャンバスを削り出し、極限まで薄い絵を描かせ、抽象度の極めて高い作品を生み出させたと言えます。

 

描く題材はどこかに存在する例えばモデルのような物でもなければ、静物画のような何かの「物」でもない。

それは内面から自然に湧き出る「何か」であり、それは代表作のような「老賢人と少年」であったり、表題からは直接伺えるような分かりやすい物でもない。

今回山内龍雄芸術館(神奈川県藤沢市羽鳥)で実物を見ましたが、私には少年というよりもお下げ髪の少女が見えたような気がしました。

人によって見える物が違ってくるのも山内作品の特徴で、見る人の人生の積み重ねや価値観がそうした見え方をさせているとも言えます。

 

山内は絵を描く3日前からものを食べず、眠ることもしなかったそうです。

そうすることで感覚が研ぎ澄まされ、キャンバスに向かったときにキャンバスから見えてくるもの、キャンバスが何を語りかけてくるかを静かに見極めていました。

絵画というとキャンバスに絵の具を展開し、様々な色柄を重ねることで作品は完成します。

しかし山内の作業はその全く逆で、着色されたものからそぎ落としを始め、採取的に残ったものが彼の内面を忠実に反映したもの、ということになります。

それは広大な宇宙かもしれないし、曼荼羅かもしれない。

削りに削った結果残ったものが心を移す鏡として機能しているということです。

 

物事の本質は「見極める」ものです。

それは周囲の雑多な事象を切り捨て削り取り、その物事の「核心」を見つけ出す作業です。

化学の実験や論証をいろいろ経て見つけ出されるという意味では「積み重ね」かもしれませんが、そこから見出されるものは「削った」結果見つけ出されたものであり、水鏡のように本当に静かな環境でのみ見出されるものなのかもしれません。

すべての雑踏・騒音から隔絶されたアトリエや、絵を描き始める前3日間の「そぎ落とす」行動を見ても、その本質は「そぎ落とすこと」にあると言えましょう。

 

時に喧噪を離れて真に静かな環境に身を置き、自分の五感でのみ感じられるものだけに集中し、自分自身や空間と対話することで何かを見つけ出すという行為は、人に真の癒やしをもたらすものと言えるでしょう。

 

読者諸氏にも、時に「そぎ落とす」作業に身を委ね、感覚を研ぎ澄ませリフレッシュされることをおすすめします。