職員に対するパワハラ問題が露呈して市長職を辞めた、横浜市の山中竹春前市長が、次の市長選に立候補することを表明しました。

その理由として同氏は「加害者だからこそできることがある」という理由を挙げています。

自身の加害事実を認めた上で、今度はそういうことのないよう気をつけながら政策を引き続き進めていきたいという意向のようですが、果たしてそれは可能なのでしょうか?

 

今回の立候補表明は、自身の推し進めてきた政策が辞任により中途半端に終わる事への危機感、それから支持団体がありその団体がしきりに立候補を後押ししていることによりそれに応えなければならないという義務感が相まってなされたように推測されます。

しかしパワハラ「疑惑」は初当選時からも指摘されていたことで、今回の問題露呈によって初当選前の大学時代のパワハラも間接的にその存在が強く肯定されたことになります。

市民に対するパワハラがなかったにしても、市職員に対するパワハラは現場の末端にまで萎縮効果を及ぼし、それがどこかで知らず知らずのうちに市民に対する行政にゆがみを生じさせていたかもしれません。

通常の感覚の持ち主であればそうしたことにまで想像を及ぼし、立候補をためらうのが普通でしょう。

それが今回表明で端なくも反省していないことが明らかになりました。

立候補するのは勝手ですし、法的には保証されていますが、道義的な「資格」があるかは論を待たないでしょう。

 

もしかしたら、例えば薬物犯罪を経験し、今は更正した人物が薬物中毒に悩む人の支援に回っていたり、あるいは映画やドラマのテーマにもなる、母を殺した人間が今自分を愛し慈しんでいるなどと言う贖罪をテーマにした物語を思い出し、山中氏は自分にも出来るなどと思い込んでいるのかもしれません。

しかしこうした「加害者」「犯罪者」はかつて自分が立っていた加害者の立場とは反対の立場に立って贖罪をしています。

反対の立場に立っているからこそ自分がかつて犯した過ちを冷静に客観的に見ることが出来ています。

これに対して、パワハラを犯した人物が同じ立場に立って、昔を反省しながら事を進めるというのは加害者が1人で複数の立場の人間を演じながら事を進めることであって、それは心理的な訓練を受けている専門家でも難しい業ですし、もしなんの葛藤もなく進められたとしてらそれはもはやその人の精神は分裂・解離しているとしか言いようがありません。

要するに常人でできることではないということです。

 

山中氏がこれまで進めてきた政策のスピードというのは、職場内のパワハラと表裏一体であり、それを再び進めようものならパワハラが再度首をもたげるのは必至です。

パワハラに気を遣いながら進めればスピードは確実に落ちます。

それは市民にとっても不幸であり、なにより本人が一番不本意でしょう。

 

山中氏は、自分の所業をもっと分析し反省し、自分がもし市政を司ったらどういうことになるのか、結果をよく考える必要があります。

それでも彼を推す支持団体があること自体私には信じがたい話です。

やめるなら今のうちです。

立候補を撤回すべきでしょう。