塾などで子供たちに勉強を教えていると「まだ学校で教わっていないから」といってそれを免罪符に「できない」ことを当然と思っているケースに何度か出くわします。
教わっていないので教えて欲しいというのは当然でこちらも丁寧に教えてあげますが、教わったことのすぐ先にある項目に一切興味は湧かないのでしょうか?
子供によっては「じゃあちょっとだけやってみようかな」と言って挑戦してみる子もいますが、大半は「パス」。
学校の中で教わることと外で教わることは別物と思っているようです。
小学生時代の私はと言うと、例えばテストの名前の欄に自分の名前を書こうとすると、学校で教わった漢字だけ使うと最大でも4文字のうち2文字までしか使えない。私の本名は漢字で4文字ですが、後の2文字はかなで書いて漢字カナ交じりの名前で表記せざるを得ず、不自然で仕方ありませんでした。
興味の湧く科目は教わっている先の範囲でもどんどん教科書を読んだりして、既に獲得している知識の確認をしたりしていて、勉強そのものを楽しんでいました。
教わっていなくても実生活で使えるものはどんどん使いたい。
教わったものだけだと「つまらない」とも思っていました。
「教わってないからまだやらない」という現象は珍しくありませんが、どうやら子供たちは学校で教わることとそれ以外で習得することとは別物と考えているように思われます。
それが後年「何のために勉強しているのか?」とか「これを勉強して何の役に立つのか?」といった疑問につながっていくのではないでしょうか?
あるいは、余り勉学ができすぎると学級内でいじめに遭うなどの心配もあり、学級内あるいは学校内に暗に漂う同調圧力によって先に進むことを恐れているのかも知れません。
学校の「息苦しさ」は一つにはこんな形で表れているのかも知れませんね。
このブログでも何度か触れていますが、勉強する目的は、社会に出て必要な知識を身につけ、独立して一人でも生きていけるだけの知恵と知識を身につけることにあります。
言葉を学ぶことでコミュニケーションが成り立ち、計算できることで生活も成り立つ。自然の法則を学ぶことでそれを自分の生活に取り込むことができるし、地理や歴史や政治経済の勉強は世の中の動きを知る手立てとして不可欠です。
だから勉強と日常生活は「地続き」という発想が欲しいわけで、日頃から自分の身の回りに起こる出来事を「キャッチ」するアンテナを養って置く必要があります。
そしてなぜそういうことが起きるのか、疑問を抱く姿勢を忘れないで欲しい。
その疑問の解明に勉強ひいては学問が役に立ち、一つのことを突き詰めて考える癖を付けるのに役立ちますし、場合によってはそれが将来のその子の人生を決めたりすることもあります。
今はデジタル機器やシステムを使って簡単に調べたり答えを出すことが可能な時代になりました。
結論を出すのにスピードを求められる時代に合ってはいますが、それが実はゼロか一かという悉無律思考を生み出し、考え方を二分あるいは分断することにもつながってはいないでしょうか?
学校で教わることとその外で教わることを分けて考えるその姿勢は、実はデジタル思考に由来してはいないでしょうか?
教わったからやる、教わっていないからやらない、というくっきりした二分思考は、実は教育プログラムに盛り込まれた事柄が相互に関連し合い、有機的に結びついている、「地続き」であることを忘れさせる作用を持ちます。
デジタル機器の奴隷になるのではなく、適切に「使いこなす」ことによって「自分自身の興味・関心」を中心に、有機的に頭脳活動を展開することが求められています。
「教わっていないからやりません」はむしろ実社会では使い物にならないことを銘記すべきでしょう。