関東地方は未だ梅雨入り宣言が出ません。

明後日は一日中雨の予報になっていますが、そのあとはまた晴れが続き、雨や曇りのどんよりした日が続きそうなのは次の土曜日からのようで、宣言が出るとしたらその当たりかも、などとスマホの天気アプリを見ながら勝手な想像をしています。

 

その一方で道ばたのあじさいはどんどん花が開き、一旦開いたものは色が変化し続けている。

雨なんかいちいち待ってられるかと言わんばかりの七変化ぶりです。

つべこべ言わずにやるべきことを淡々とやるあたりは、我々人間の方があじさいを見習うべきかもしれません。

 

梅雨入り前のカンカン照りも、地球温暖化が取り沙汰される以前の時代から普通にあった現象で、来るべき真夏に備えて体を慣らしておくよう、お天道様が予告してくれているようです。湿度は既に上がっています。

そう考えるといずれ梅雨入り宣言は出るのだろうと楽観視していて良さそうです。

冷夏、暖冬、酷暑、厳冬も必ず来るようなので、それぞれの季節で体験してきたこと、対処してきたことを元にじっとそのときを待つことにしましょう。

 

このように、季節にあるべきものがないと、人は却ってその季節らしきものを追いかけ、心の安住の地を「あるべきところ」に求める習性がありそうです。

今ならあじさいや湿度の高さ、日照りに近いような晴天に「梅雨入り宣言間近」を求め、そのときを静かに待つような心境でしょうか。

 

人はあるべきものがないと不安になり、安定を求めてほかの「あるべきもの」を探す習性があるようです。

その「あるべきもの」が実は自分自身の姿の投影であり、自分の存在を確認する重要な根拠となっています。

季節の風物詩の場合は時間に関することが多いでしょう。

一定期間その風物詩が存在することによって、自分はそこからなにがしかの安心や快楽を享受し、自分がその季節を「生きている」最中なのだと言うことを確認することになります。

 

家庭であれば家族一人一人、学校や職場であればいつも一緒にいる人の存在(好きな人も嫌いな人も)が、自分の所属を証明しているので、構成員の一人でも欠けると自分と何らかの関係を築いている対象がいないことになり、一瞬でも自分の存在根拠に疑念を抱くでしょう。

 

亡くなって初めて気づくのは、更地になったところに以前何が立っていたか思い出せないところにも現れています。

当たり前すぎて意識もしていなかったところに突然空白ができると、実は無意識下にも自分を照らしていたものが相当数あることに気づかされます。

 

見えているもの見えていないもの、聞こえるもの聞こえないもの、臭ってくるもの臭わないものなど、感覚を通して知覚されるものは無意識下にも蓄積されますので、ふとあることがきっかけで突如思い出すと言うことは意外に多くあるでしょう。

 

これから皆さんも様々な事象に突然出会うことで、自分の存在根拠を探してみてください。見つかれば今度はそれを喪失したときに改めて感謝の念が湧くはずです。

梅雨入り宣言の出ない6月中旬に、梅雨の存在のありがたさを実感できます。