SNSで外国人の料理研究家(主にアメリカ人)などが作った料理の写真をよく見かけ、私も「いいね」を押したりしますが、ぱっと見はおいしそうでもよく見るといまいち美しさが足りない。

同じものを日本人が作って盛り付けたらもっと美しくおいしそうにみえるだろう、どうしてもそういう想像をしてしまいます。

 

おそらくどちらが作っても味は同じで(同じ作り方をしたという前提に立ちますが)、どちらもおいしいだろうとは思います。

しかし食べたいという人の目をより引くのはやはり日本人が作ったものの方でしょう。

 

メジャーリーグと日本のプロ野球のユニフォームの文字の配置などを見ても、アメリカは大雑把ですが、日本のはきちんとまとまっている。

デザインの奇抜さはアメリカが一枚上だと思いますが、まとまりという点では日本の方に軍配が上がるように思います。

これらは単に大雑把か繊細かの違いから来ているのでしょうか?

 

私見ですが、作る側の意識の差が反映されているように思います。

つまり、アメリカ人の場合、作った側が「どうだ、いいだろう」とか「自分の作ったものは優れている」という意識というか信念にも近いものがあって、かつそれが第一義であるがために、では自分の作ったものが本当においしそうに見られているかの検証が二義的なものになっているからではないでしょうか。

日本人料理人も同じ意識を持ちながら作るとは思いますが、盛り付ける過程で食べ手から見ておいしそうに見えるか否かを検証するプロセスが必ずと言っていいほど組み込まれていて、それは味の調節とほぼ同価値と位置づけられているのではないでしょうか。

 

ユニフォームもそうですが、自分から見た自分をまず肯定し、無謬性を前提に事を運ぶのがアメリカ人なのに対し、日本人は他人から見た自分を常に想像し、誰が見ても美しいと思えるところに照準を合わせる。そこには「ひょっとして自分にはどこか誤りがあるかも知れない」という、よく言われる謙虚さが常につきまとっているのではないでしょうか。

アメリカ人にも自省心がないわけはもちろんありませんが、それがどこで働くのか、どの程度働くのかが日本人とは異なるように思います。

少し乱暴な言い方をすれば、アメリカ人は「批判があるならして欲しい。なければ自分の作品は満点と評価されたものとみなす」が原則で、批判に対して謙虚さがないわけではないでしょう。

これに対し日本人の場合はどんなに丹精込めても批判はあるかも知れないという、出発点から謙虚さを伴った行動パターンがより継続的な自省心を持っているのかも知れません。

 

それぞれ一長一短があり、アメリカ人の方がよりダイナミックな発明をしやすいでしょうし、日本人はそれだけ見る者を気遣った繊細な作品を生み出しやすいという特徴はあると思います。

もちろんそれぞれ例外はあり、それがまた双方の表現を豊かにしてくれますので、一概にどちらが優れていると言うことも断言しない方がいいと思います。

 

料理の盛り付けから、両者の違いをふと考えてみました。