古代ギリシャにヘロドトスという歴史家がいました。

歴史は悪意に満ち満ちているという立場を採り、歴史上の事実に対する評価に「狂信的」とか「無謀」などという表現を多用し、当面の論点とは無関係な話題を強引に押し込み、叙述の本筋を脇道へそらしたりと、まあやりたい放題の批判と言うより文句や因縁ばかりの著述をしたのだそうです。

後世のギリシャでこのヘロドトスを批判したのが著述家のプルタルコスでした。

ヘロドトスの悪意には8つの内容があり、その第3は「立派なこと、賞賛に値することを省略すること」だそうです。

 

幕末、松下村塾で若い志士たちに頼山陽の『日本外伝』を購読させる際、徳川氏の正記の部分を敢えて読み飛ばし、毛利氏が徳川から与えられた屈辱の部分から読み始めるよう指導したのが、あの吉田松陰だそうです。

『日本外伝』は幕末の勤王の志士に影響を与えた反幕府の精神的支柱と捉えられる傾向にあるそうですが、こうした実態を知ると『日本外伝』や吉田松陰に対する評価は覆さざるを得ないでしょう。

ヘロドトスの悪意 第3の一例です(ここまで、明治大学特任教授 山内昌之氏の著作物から適宜抜粋)。

 

安倍晋三元首相が暗殺され、国葬も既に済んだというのに、メディアが未だに「国葬はすべきではなかったが60%」などと報じるのを見ていると、同じ悪意を感じます。

安倍氏の業績は功罪いろいろあるのは確かです。

しかし、訃報が世界中に流れた瞬間諸外国から外交面での安倍氏の業績をたたえ死を悼む声が上がったことについては、日本のメディアは未だに正当に評価していません。

むしろ外交面は意図的に無視して、森友学園やら桜を見る会やら、国内的な卑小な問題に意図的に焦点を当てて悪の権化であるかのごとく論じるのは、明らかに公正さを欠いています。

安倍氏を批判するのであればむしろ、北朝鮮に拉致された人々を奪還できなかったこと(今の岸田首相も同様ですが、口先で相手の首脳と向き合うなどとおよそ実現不可能なことを口にするだけで、もっと強硬な手段を執ることを考えていないようです)、北方領土返還で敵国首脳に接近しすぎたこと、などを挙げるべきでしょう。

ただ、一国の首相を長く務め政治を安定させた貢献者に対し、自分の気に入らない部分だけを根拠に罵詈雑言を浴びせ、葬儀当日に騒ぐなどという発想は私には全然湧きません。

人として品格を欠き、死者に対する態度として容認しがたいからです。

 

ヘロドトスの悪意に陥る心理としては、事実全体を虚心坦懐に見るのではなく、自分の好みに合った部分だけを切り取って適当に継ぎ合わせるバイアス的思考が挙げられます。

あるいは、自分の主張だけが正義にかなっていると思い込む極端な自己愛、自己万能感。

 

世の中に起きる事実というのは必ずしも自分の思うとおりに推移するとは限りません。

事実というのは、生い立ちも考え方も異なる人々が織りなす行為の集積なのですから、むしろ思い通りに行かない方が普通で当たり前と考えるのが自然です。

その中で自分はすべての事実を見た上でどう思うか、そのプロセスを経てからきちんと主張すべきでしょう。

古代に見る誤謬を他山の石として、我々はより賢く生きたいものです。