前稿では、人間関係をいたずらに広めても必ずしもプラスにならないことをお話ししました。

広めること自体が悪いわけではありませんが、一人一人と自分自身がどういうつながりがあるのか把握できていないと、その人を鏡として自分自身がどういう人間であるのかを知ることができず、結局その人と自分との間に生産的な関係が生まれず、「友達」になった意味が失われるからです。

 

今もSNS上で友達申請が日に10人程度来ていますが、相変わらずプロフィールがほとんどわからない人や、何の目的があって近づいてきたのかわからないような人もいて、申請が来るたびに削除しています。

 

結局私は増えすぎた「友達関係」を整理することで、自分自身がしっかり把握できる人の数を抑える段階に入っているようです。

これからも増えるとは思いますが、最近のようにただ闇雲に来た申請を受けるか受けないか決めるだけでなく、自分自身の特性と相手のどこが符合するのか、その度合いによって受けるか受けないかを今まで以上に慎重に見極めるようになりました。

投稿内容を見て、数は少ないが価値観が似通ってそうであればOKするし、投稿数が多くても価値観が異なるか、何か別の目的で近寄ろうとしていると感じれば断るようにしています。

つまり、ある程度の「質」を伴っていれば、あるいはそういう予測がつけば自分のエリアに入れていい人、と判断しています。

また、すでに承認した人でも、投稿内容に違和感の多い人はブロックをかけさせてもらっていますし、まとまった時間があればそういう人はまとめてフォローから外す作業をしたいとも思っています。

そうすることで、自分自身の受け入れ可能な「容量」を知ることができ、自分の量的質的な限界を知ることができます。

 

話は変わりますが、2ヶ月ぐらい前、地元に新たにできたラーメン屋に行列してお昼を食べに行きました。

ちょっと奮発して大盛りを注文してみましたが、ラーメンを出した店主が私の顔を見ておそらく年齢的な判断をしたのでしょう、「食べきれなかったら残していいですよ」と言ってくれましたが、見た目は食べられない量ではなさそうだし、匂いもいいので、内心「何言ってやがる」と反発を覚えました。食べ始めると案の定おいしいので食がどんどん進みましたが、どんぶりの底が見えてくる頃になると箸の動きが鈍り、残り少しというあたりでどうやらここら辺が満腹限界線らしいな、と感じる瞬間がありました。結局完食しましたが、おそらく次回行ったときに同じものは注文しないだろうと思いました。

私は年齢の割には食べる方ですが、それでも自分の胃袋の限界を実感として知ったのはこのときが初めてで、胃袋の「容量」というものを知りました。

 

「容量」を知る利点は、自分自身という人間をはっきりした「枠取り」で知ることができること、限界まで行くと不快になるが、それ以前にどこで止めれば快適かを知る手がかりになること、です。

人は様々な関係の中に自分をおいて、自分自身の特性を最も発揮できるときが一番快適です。

従って、限界まで行き着く、あるいは近づくと、快適さが減少し、違和感が生じるようになります。

それを経験すると、自分自身を最も活かせる状態はどこか、だんだん見当がつくようになります。

そうすることで、自分自身をある意味危険から守っているともいえます。

 

よく「自分には限界がない」などと豪語している人がいますが、そういう人も量的な限界はどこかにあるはずで、「限界がない」と思っているのは、量的な問題ではなく質的な満足度の問題だと思います。

質的な満足や深まりには、私も限界はないと思っています。

「知れば知るほど面白い」というのは、知識の量だけでなく、得た知識がその人の中で深化し、その人と一致する部分が多くなるからでしょう。それは接点が量的に増えただけでなく、その人の中で好奇心がより活性化し、質的な変化をもたらした結果だと思います(多角的に見られるようになったとか、視点が劇的に変化したとか)。

 

ですから、自分自身の容量を見極め、その中で今度は自分自身をどう深化させていくか、そこに早く重点を移すと、より豊かな人生が送れるようになるのではないか、最近そんなことを感じています。