昨日のミンデルセミナーの最後に、皆でダンスを踊りました。
と言っても、全員揃ってフォークダンスやディスコを踊ったわけではなく、2日間のセミナーの集大成として、各人が最も自分のパワーを発揮できる動きを好きなようにパフォーマンスしようというものです。
人間関係の構築によって世界を変え、自分がより自分らしく生きて行くのが目的で、世に革命を起こそうという趣旨から、BGMにはビートルズの「レヴォリューション」が選ばれました。
大体の人がその場で手を大きく広げたり、軽くジャンプしたりしていました。中には、「白鳥の湖」のように軽やかにあちこちを跳ね回るような人もいましたが、会場が大混乱になるような、ハチャメチャな踊りがいくつも競合するようなことはありませんでした。
私も最初は皆と似たような動作をしていたのですが、何かモヤモヤが払拭できず、この動作で自分のパワーやエネルギーは十分に発揮できないな、と思いました。
そこで、直前のワークで演じた和式便器で踊ってみようと思い、床に座り両足を伸ばして顔を斜め上に向け、口を大きく開けて曲のリズムに合わせて首を右上・左上に交互に突き出すように踊りました。名付けて「和式ベンキーダンス」。
曲はビートルズですが、仕草はスティービー・ワンダーのようでした。
会場には200人はいたと思いますが、床に座ったまま踊っていたのは、多分私だけだったと思います。
我々日本人はこういう場合、まず右顧左眄して周りの人とあまり違うようなことはしないようにしようという心理が働きますが、自分を精一杯表現しようとする時にこういう心理はむしろ妨げになります。
同質性の高い民族なので、1人1人の力が弱くても、多数の力を結集すれば大きな力を発揮できる利点がありますが、多人数が集まっている場面で自分を精一杯表現するのはむしろ苦手です(私もそうです)。
でも、今回のセミナーに通底している「この世に生まれてきた人は一人一人が皆ユニークな存在なのです」というテーマに照らすと、自分が踊ってみて一番気持ち良く感じるダンスこそが「自分のダンス」なのであり、周囲の動向などは何の関係もありません(周囲に気を遣うのはぶつからないように気をつけることだけ)。
ここでは「変わっている」とか「標準的」とかいった物差しは通用しません。
でも、「変わっている」「普通or標準的」ってそもそも何なんでしょう?
この世に生きている人は一人一人が「ユニーク」なはずなのに、「変わった人」と「普通の人」に分けられてしまうのはなぜなのでしょう?
思うに、「その人らしさ」と「世間の標準」の割合がどれぐらいか、という比率によって変わってくるのではないでしょうか。
つまり、その人の中で「世間の標準」に近い要素が半分以上を占めていれば「普通の人」、半分未満なら「変わった人」または「ユニークな人」(半分を基準にしていいのかも問題かもしれませんが)。
そして、誰がその評価をするかも問題です。
おそらく、自己評価と周りの評価は異なることが多いと思います。
従って、自分の中で世間の標準から離れている要素が多いと思えば、自己評価として「ユニーク」、少ないと思えば「普通人」になるでしょう。
同じように、周りから見て世間の標準から離れている要素が多いと思われていれば「ユニーク」、少ないと思われていれば「普通人」になるのでしょう。
そうすると、自己評価と周りの評価が一致している人は「ユニーク」な人ほど「変わり者」or「個性的」、「普通人」という評価で一致している人は「常識人」ということになるでしょう。
自己評価と周りの評価が一致していない人は、それはそれで「個性的」ということになるでしょう。ただ、このカテゴリーに入る人を「あいつは自分が見えていない」と決めつけてはいけません。「世間の標準」なるものがどれだけ正しいかの保証がないからです。
仮に「自分が見えていない」としても、それはそれで一つの「個性」です。その人の存在意義は正にそこにあるからです。
そう考えると、自己評価でも周りの評価でも「普通人」の人も、「普通」であること自体がその人の「個性」ということになります。
結局、この世で「個性」のない人など一人もいないという結論になります。
敢えて「個性的」か「標準的」かを分けるとしても、それは「程度」の問題、その人の「ユニークさ」の占有率の差に過ぎない、ということになります。
「普通」か「個性的」かは、客観的に数字で比較できるものでは意味を持つかもしれませんが、そうでない分野では、あまり意味をなさない。少し乱暴かもしれませんが、それぐらいに思っておいてちょうどいいかもしれません。
それどころか、客観的な数字ですらその人の「個性」を表すとまで言われる時代ですから、ちょっとした違いも十分「ユニーク」と表現した方がいいような時代に、我々は生きているのかもしれませんね。
