今日の産経新聞の投書欄にこんな投書が載っていました。
要約すると、投稿者の娘さん(中学生)が学校の音楽の授業で
滝廉太郎『荒城の月』を習ったが、音楽の先生が
「文部科学省が推奨しているから仕方なくやりますが、
ひどく暗い曲ですよね」と言って伴奏を始めたため、
生徒が皆いい加減に歌って
この曲のイメージがすっかり悪くなってしまったのだそうです。
この教師は「いじめはいじめられる側にも問題がある」などと
言っているそうで、投稿者は、多感な中学生にはいい影響を与えず
残念だ、との感想を述べていました。
いじめに関する見解を見ても、この先生はあまり他人に共感する習慣のない人のようです。
自分独自の世界があって、教師という仕事は半ば仕方なくやっているようにもみえ、
自分の外の世界のことはどうでもいい、と思っているのかもしれません。
ただ、私が一番気になったのは、音楽の先生なのに、
長調は明るく、短調は暗い、と決めてかかっているように見受けられることです。
確かに短調は悲しいあるいは暗い感じを抱かせる、
と言うことは私も音楽の授業で教わったのを覚えていますし、
子供の頃6年間ピアノを教わっていたこともあって、
学校で教わる以前になんとなくそんなイメージは抱いていました。
ただ『荒城の月』は、「春高楼の 花の宴 めぐる盃 かげさして・・・」
と続く歌詞で、全体としては、春の月を眺めて
移ろう世の中を想う内容で、平家物語のような
滅びぬものはこの世にない、と言う一つの真理を歌った歌と解釈されます。
その意味でははかない、悲しい歌とも言えますが、
歌詞に描かれた情景を思い浮かべるとき、
春の月を単純に「暗い」「悲しい」と決めつけていいものでしょうか?
おぼろげに浮かぶ春の月を眺めてもののあわれを連想したとしても、
月自体はほんのり明るいし、季節もこれから木々が芽吹いて緑のまぶしい
時期に向かうことを考えると、単純に暗いとは言えないはずです。
一方で、もののあわれを思う気持ちは確かに聞き手を暗くさせるものがありますから、
心情としては複雑、と言うのが一番虚心坦懐な解釈ではないでしょうか。
聞き手各人がどういう気持ちになるかは、解釈の自由ですから
私的に感想を述べる分には一向にかまいませんが、
授業という公的な場で一定のイメージを植え付けるのはいかがなものかと思います。
そもそも「長調は明るい感じで、短調は暗い感じ」などというのは
各長調短調一般の大まかなイメージとして捉える尺度に過ぎず、
実際に曲をいろいろ聞いてみると、
そんな単純な図式がおよそ成り立たないことは誰でも解ります。
例えば終戦直後の流行歌、並木路子の『リンゴの唄』は
バリバリのハ短調(ギターコードで言うとCマイナー)ですが、
これを聞いて悲しくなる人はいないと思います。
逆に、卒業式や送別会などでよく聞くショパン『別れの曲』は
バリバリのホ長調(ギターコードで言うとEメジャー)ですが、
まさに別れを歌った曲だけに、涙を誘わずにはいられません。
ワールド・ベースボール・クラシックの中継でTBSが使っている
ジャーニー『セパレート・ウェイズ』はバリバリのホ短調(ギターコードで言うとEマイナー)
ですが、あれを聞いて悲しくなる人はいないと思います
(実際には失恋の歌なので悲しいイメージの曲のはずで、
TBSがどういう意図であの曲をイメージソングに採用したのか、
真相はわかりません。リズミカルなロックなので、勇ましさを
イメージしたのかもしれません)。
長調・短調の区別は、音の高低と各調の音階構成を覚え、
音に対する感受性を養う上での、音楽教育上の一つの「目安」に過ぎません。
子供たちに音楽教育を施すとき、
教える側にそうした自覚がないと、
子供たちが成長し、様々な音楽に接したときに、
柔軟性のない図式に当てはめて曲を聴くことになり、
曲に対する自由なイメージを養う上で大きな障害となります。
投書の例のように、歌う前から教える側が
自分の勝手なイメージを植え付けた上で子供たちに歌わせることは、
その曲に対する関心を初めから半減させ、
かつ、その曲をより詳しく知ろうという好奇心をも子供たちから奪うもので、
音楽教師としては失格と言わざるを得ません。
子供の心を理解しない、感性の鈍い教師が
子供にどんな影響を与えるか、暗澹とさせられました。
教育の効果は本当に恐ろしいものです。
