先に述べたような人々の啓蒙、筆者としては人々の理性を育むことがうまく機能した場合、どのような利点があるだろうか。

脳科学的に見て理性を司る前頭前頭は、「状況に応じて適正に判断する能力」、「短期記憶能力」つまり記憶力、論理的に物事を思考する能力、作文や、創作活動におけるような、言語表現を作り出したり、新しいものを生み出す能力、集中力、複数のものに同時に注意を向ける能力、対人コミュニケーション能力、難解な文章や人の心情を理解する能力、自己の主体性(自分が自分であること)をしっかり認識する能力、何かを学ぼう、始めようとする意欲、怒りや不安、混乱、動物的欲求に支配されずに、自己の主体性を維持できる意志の力など、他にも細かく挙げればきりが無いが、これら全ての能力に直接に、中心的に関係している。

これらの能力が、人間一人一人の間で絶えず成長を続けていけば、どのような利点があるだろうか。

筆者が考える所を述べれば、まず、いんちきな情報に振り回されなくなる。消費者の無知につけ込んで利益を上げる商法や、国民に理不尽な負担を強いる政策、メディアを使った、政財界の権力側によるプロパガンダなどに騙されなくなる。また、それらを暴く声が理解され、通り易くなる。

更に、逆に国民の側から、積極的に改善点を主張、議論し、理想の国家や社会の在る方向へ、世論が 動いていく。勿論、啓蒙が進めば進むほど、理想の形も理に叶ったものになるだろう。国民一人一人が成熟した判断力によって、情報社会を逆手に取り、あらゆる分野で真に利益になる情報を、発信、享受、改善し続けるようになる。

そういった国民の理知の上向きのスパイラルから生まれてくる、新たな政治体制、経済政策、教育制度、社会福祉、医療制度、国防技術、刑事司法、科学技術ほか、思想、学問分野、芸術、スポーツなどあらゆる面で進展があるだろう。

あまり都合の良い点ばかり述べたが、障害も勿論ある。

まず、急激な変化を望むのは難しい。啓蒙の発想や理論が理解されることにも時間がかかるし、また人が学び、成長すること自体非常に時間がかかる。子供はともかく、成長しきった大人にとって、勉強というのは大義なものである。高い学問を修養した人には、プライドもあるだろう。そして何より、利権の壁がある。

様々な困難があれど、実現すべき大きな実益、必要性があり、人類の進歩は、この道筋によって達成されるのだ。
理性や啓蒙について実際的に考察するにつき、解決しておくべき問題があるだろう。それは、所謂普遍的な「正しさ」、「真実(真理)」、「健全」というものが果たして存在するのか、というテーマだ。もしそういったものが存在しないとすれば、あくまでも「正しさ」や、「真実」は相対的なものでしかなく、それらを教え広めることは単なる独善、更には全体主義的、独裁的なものともなり得るだろう。

筆者は勿論、そのような価値基準は歴然として存在すると考えている。単にその解明に、(少なくとも面立っては)現代人類の知恵と労力が存分に傾注されていないだけでしかない。

根拠はある。古くはソクラテスやプラトン、スピノザ、アリストテレス、カント、ヘーゲルらの哲学者の著書や、宗教の分野においてはキリスト教では聖書、ヒンドゥー教関係においては「マハーバーラタ」に出てくる「バガバッド・ギーター」、仏教においても釈迦や親鸞、日蓮の教えなど筆者の狭い知識内でも例を挙げればきりがないが、それぞれ読んでみると必ずその中の全てに、共通する、ある一定の法則性、秩序を持った知的境地と言うべきものを認識できる。またこれらの教えが、(広く一般的知識として社会に浸透しているかはともかく)当時から現在までもなお風化しない、人生における啓示の力を持ち続けてきている事実がある。そこに普遍性のある確固たる知的秩序を観念することは現実性がある。

また現代においては、脳科学の進歩がこれら先人の研究や知恵を科学的に裏付けすることが可能になりつつあるのではないかと考えられる。例えば哲学や宗教の分野で「人格」と呼ばれてきたものが、心理学では、「道徳的な振る舞いを行えるだけの心理的筋力」と定義されている。これは脳科学では、「ある人の前頭連合野が、大脳辺縁系をコントロールできるまで育った状態」と言い換えできるだろう。

筆者が言いたいのは、前頭連合野と大脳辺縁系との関係が、上述したような哲学や聖書、仏教書などに言う理性と欲望との関係に重なるということだ。

先人の知恵に理論的な根拠が在り、理性や人格、道徳が主観的、相対的なものではなく、自然科学的に証明できる客観性、普遍性を持つとしたら、「正しいもの」の概念がより現実的に認知可能であり、人類はそこを究明すべきである。

人間の精神の発達なくして真の文明の進歩なく、理性の進歩こそが精神の発達であると、日々確信を深めるばかりだ。
「啓蒙」とは、「一般の人々の無知をきりひらき、正しい知識を与えること(日本国語大辞典より)」を意味する。

これまで主流だった(例えば戦後主義的な)価値観の不備、間違いが暴かれ、時代が転機を迎えつつあることと思う。

世の中を新しい時代へと牽引する大きな鍵の一つに、この「啓蒙」があると考えている。

太古から最近まで、時代は人間の欲望と争いの歴史だった。 自国の利益のために他国の領土を奪い、国民の貧困層や富裕層のフラストレーションや欲望を支配層が解決できず、また新たな領土を奪うことの繰り返しだった。現存する南北問題はその競争時代の生々しい名残だ。

しかし、その進路は明白な袋小路にさしかかった。人間の欲望は求める限りきりが無く増大し続けるものだし、グローバル化により地球の全てがあらゆる人々の監視下に置かれ、国家的な略奪行為が不可能になった。

今まで盲目的に、無責任に突き進んできた道では、人類が崩壊するのは火を見るより明らかだ。環境汚染、自然災害、貧困、経済破綻、格差拡大、犯罪の凶悪化、組織化など、雪だるま式に悪化するだろう。その近い先に人類の滅亡を予見するのは難くない。

分かっていることは、欲望と争いの道筋を避けねばならないということだ。

では何が大切なのか?新しい価値基準として人類が力を注ぐべき指針は何だろう。例えば正当な宗教で言うように「愛」だとする。確かに大切なのだが、それだけでは不明確だし、無知が故の様々な誤解や、悪用、反発が在り続けてきた。人類全体規模での実現性という視点では、「愛」だけでは余りに無力である。

そこで私は「啓蒙」を提唱していきたい。全ての人々が然るべき理論によって学び、知的に研磨されることにより、一人一人が、動物的な欲望や争いより遥かに高次元の理知性に到達することを実現することこそが、現状打開の最短距離であると確信している。
教育が十全に行き届いていない地域や、国家ほど凶悪犯罪が多い実状がある。また、いわゆる「悪」の心が生じる脳内のメカニズムも解明されてきつつある。欲望こそが人間の本質だという考えは、過去の迷妄時代の遺物とされる日も来るだろう。

人間にとって真の幸福とは何だろう。筆者は、健全に育てられた理性の間より生まれる、人類同士の精神的共鳴の絶え間ない発展、深化だと考える。そして、理性は啓蒙により磨かれる。

啓蒙による、欲望から理性への転換こそ、新しい道と考える。