ある動画で、自閉スぺクトラム症についての解説を観た。
紹介されていたケースでは、
「本当の自分」が分からない、
社会に適応できない自閉スペクトラム症の人が、
周囲の人間の真似をして、
社会に適応できる自分を作り上げて、
その作り上げた対応プログラムがありのままの自分であるかのように振る舞うというものだった。
自閉症スペクトラム症と言う言葉は知っていた。
社会に上手く適合できない、こだわりが強くて感覚が過敏というイメージ。
でも、この擬態の症状は私自身とよく似ているなと思った。
私は、物心ついた時から母に「あんたは普通じゃない」「まともじゃない」と幾度となく言われた。
その結果、「鬼」「悪魔」「あんたさえいなければ、みんな幸せなんだ」と何度も怒鳴られた。
私は自分の何がいけないのか、わからなかった。
わからないけど、とにかく「まとも」になりたかった。
でも、誰も私のどこが悪いのか教えてくれなかった。
どうしたら良いのか分からなくていつも途方に暮れていた。
だから、少しずつデータを集めた。
人の挙動や発言、昔話、アニメ、ドラマ、漫画、小説、映画。
とにかく色んなデータを頭に入れて分析した。
仏教キリスト教に始まり、色々な宗教、民話、民俗学、オカルト、スピリチュアル、新興宗教。
ありとあらゆるものから、何が「まとも」で何が「おかしい」のか。
これが「まとも」だと思える挙動を見つけては、実生活で試し、
その成果によって今後その挙動を採用していくか、改善するか、棄却するかを決定する。
行き過ぎた思考や挙動で「おかしい」と思われないように、少しずつ試していく。
良い人として世間で認知されていくと、反面、
「いつも楽しそうでいいね」「悩みなんて無いでしょ」なんて一部から反感を買う。
反感を買わない程度に、「ふつう」の悩みを打ち明ける。
人から信用されるのに伴って、嫉妬され引きずり降ろそうとする人に翻弄される。
嘘の噂を流されたり陰湿ないじめに遭う。
相手がいくら卑怯でまともでなくても、私は必死に「まとも」な対応をする。
どんなに「まとも」になっても、終わらない。
私は幼い頃、人が何を言っているのか分からない事が時々あった。
小学一年生の時、近所の子に「明日一緒に学校行こう」と言われた。
私は、いつも好きな時間に登校して、途中で会った友達と一緒に学校に行っていたので、
その言葉を「登校中に会ったら、そのまま一緒に行こう」という意味だと捉えた。
なので、何でいちいちそんな事を言うのだろうと思いつつ「うん、いいよ」と言った。
次の日学校に行くと、後から登校したその子に「ずっと待ってたのに、何で先に行ったの?一緒に行こうって約束したじゃん」と怒られた。
私はとりあえず「ごめん」と言うと、
その子は「もう、忘れてたんでしょ!」と言うので、
「うん、忘れてた」と伝えた。
私は、しばらくの間、なぜ怒られたのかも、その子がどういう意図で「一緒に行こう」と言ったのかもよく分からなかった。
そういう事が何度かあった。
相手の言葉に「いいよ」と言うものの、その約束の為には下準備が必要だという事が分からない。
なので、なぜ相手がそれを聞くのか分からない。
例えば、「明日遊びに行っていい?」と聞かれる。
まずそれが、私の家に来ると言う意味を指しているのだという事が分からない。
勝手に遊びに行けば良いのに、何で聞くのと思いつつ「いいよ」と言う。
話の文脈で自分の家に来るのだと分かっても、自分がその時に家にいなければいけないという事が分からない。
私がいてもいなくても、私の家に来る事は出来るのだから、そこが問題だと気づかない。
そして、私が家にいたとしても、親に許可を取っておかなければいけないと言う事も分からない。
急に友達が来て、親にびっくりされる事に、その友達がいたたまれなくなる事など全く想像もつかない。
友達の「明日遊びに行っていい?」の一言に内包された沢山の意味と、
その言葉に「いいよ」と言った時に生じる義務や雑務が私にはさっぱり分からなかった。
こういう、相手の言葉や挙動、表情に含まれるひとつひとつの意味を探り、見つけ、検討し、真意を探り当て、相応の対応を見つけ出すことに、途方もない時間と労力を費やして来た。
まるで、宇宙人のようだと思う。
自分では全く理解できない情緒や言動に、
「ふつう」の返答を探し当てて、
「まとも」な挙動をする自分を作り上げていく。
まさに、擬態だ。
私は、自分が自閉症スペクトラムなのかは分からない。
対人関係はすこぶる苦手だったし、
音も感覚も過敏で幼い頃から不眠症だった。
こだわりも強く、独り言も多かったし、
人の気持ちを察するのも苦手だった。
でも、それらは全て自分で自分を矯正する事で、周りからは克服しているように見えるだろう。
私の友人や仕事での付き合いがある人は、私がまさか対人関係が苦手などと夢にも思っていないと思う。
私の「まともになりたい」と言う夢は、
私のそれなりに完成度の高い擬態によって、恐らく客観的、社会的には叶っているのだ。
でも、「まとも」になっても、私はとても苦しい。
毎瞬変わり続ける人々の価値観。
多様性。
10年前に「まとも」であったものが、今もまともとは限らない。
ある集団では「まとも」であるものが、他の集団で受け入れられるとは限らない。
常に周りにアンテナを張って聞き耳を立てる。
相手の一つ一つの表情や挙動を慎重にそれとなく見分ける。
脳が疲労してどんどん神経過敏になる。
そして、足を引っ張ろうとする人はいなくならない。
何でこんなに必死に頑張っているのに、
死に物狂いなのに、
どうして私に嫉妬なんてするんだろう。
こんなにボロボロの私の、どこが羨ましいんだろう。
意味が分からない。
どうしたら良いのか分からなくて、情報を集める。
本で、ブログで、動画で、映画で、カウンセリングで、
「ありのままのあなたでも愛されるんですよ」と言われる。
「そのままの、本当のあなたを出してみて」と言われる。
私は、ありのままの私で、まともに人とコミュニケーションが取れないから、
だから、必死で違う自分を作って来たんですよ。
そして、いびつに削ったり付け足したりしてきた自分の、
どこがどうありのままで、どこからが作り物かなんて、
今の私にはとっくに分からなくなっているのですよ。
と、そう思う。
そして、「ありのままが素晴らしい」と言いつつ、
間違った行いや言動をした人を、
ネットやニュースで袋叩きにして再起不能になるまで追い詰める社会を、
とても醜いと思う。
私は知っている。
「まとも」な私に向かって、
「ありのままのあなたが素晴らしい、思った通りに表現していいんだよ」と言って、
もしも私が本当に思った通りに行動したら、
その行動が社会にとって「まとも」じゃなかったら、
私が幼い頃の母と同じように「あんたはおかしい」「鬼」「悪魔」と言って糾弾するんだろう。
そんな二枚舌の社会の言う「ありのまま」を、
どうして信じることが出来るだろうか。
多様性とか、ありのままとか綺麗事を言えるのは、
所詮人から蔑まれて排除された事の無い人が言える事だ。
マイノリティ側で無ければ、
集団から排除されて生命の存続の危機を感じる恐怖も、
いじめられる惨めさも悔しさも、
集団側の残酷さも恐ろしさも分からないだろう。
昨今の「多様性」と言う言葉は、
その言葉に釣られてうっかり「まとも」で無い自分を出してしまった者を血祭りにあげるための、
罠でしかないように感じる。
同時に、どこかの集団にとって都合の良い「多様性」を認めない人間を吊るし上げる罠でもある。
どちらにしろ、多様性なんて、碌な言葉じゃない。
集団と上手く馴染めない個体は、攻撃されて排除される。
それは、生き物として当然の本能なのだ。
群れで生きる生物の生存本能なのだから、それは決して人間社会から無くなるものではない。
だから、結局私のような「まとも」ではない人間は、
周りの人間と同じような人間であると「擬態」しなければいけないのだ。
私が自閉症スペクトラムで無かったとしても、
私のように「まとも」で無い自分を擬態して社会で生活している人は沢山いるだろう。
でも、ここまで書いて私は思う。
私は、自分がまともで無い事を知っているからなのか、
攻撃され、排除されてきたからなのか、
自分とは違う他者への攻撃性はとても低いと思う。
自閉症スペクトラム症と診断される人もそうではなかろうか。
「まとも」じゃない私たちは、個人の特性をあげつらって血祭りにあげたりしない。
では、特定の価値観や社会通念の型に人を嵌め込み、
そこからはみ出る者を血祭りにあげる「まとも」な人々は、一体何なのだろう。
私には、そんな攻撃性の高い人々の方が「まとも」ではないように思える。
しかし、ある程度攻撃性が高い方が生き残れる確率は上がるし、
集団で生活した方が死ぬ確率も下がる。
結局、その方が生き残りやすくて、
そういう人たちの遺伝子が残った結果、
攻撃性が高い人たちで社会が形成されたのでは無いだろうか。
だとしたら、
社会を主に形成する人たちは、
生き残って来た遺伝子は、
圧倒的に卑怯で狡くて攻撃性の高い「まとも」では無い人たちではないのか。
そんな事を思ってしまう。
一体、何がまともで、何がまともではないのか。
何年経っても私には分からない。