中学校教師のセクハラ

事件の概要 

大阪市立中学校の英語担当のA先生(女性教師)は、同僚のB(男性教師)から性的な侮辱を含む誹謗中傷された。そのことによって、A先生は就労や教育活動の環境・条件が悪化し、精神的に追いつめられ、活動意欲を萎縮させられたので、人格権が侵害されたとして損害賠償を求めて裁判に訴えた。(大阪地判1997925「判例タイムス」No.995('99/5/1)/大阪高判19981222「労働判例」NO.767('991115))/最高裁二小判1999611「労働判例」NO.767('991115)

事件の詳細

男のジェラシィー

 B(被告)は大阪市立中学校の英語の教師であるが、A先生が赴任してくる一年前から勤務していて、学校での国際理解教育推進の中心的役割を担っていた。A先生が着任してからはBに代わってA先生が中心になって推進するようになり、また、A先生は研究会で発表するなど目立った活動をしていた。

Bは、以前から世話になっていた英語教育研究の中心的な教師であるW氏にA先生を紹介したが、その後W氏は、A先生に対しても積極的な指導や援助を行うようになった。そして、A先生は、一層盛んに研究活動を行うようになり、発表した論文が入選したり、文部省からイギリスに派遣されるようになった。このようなことから、BはA先生に、だんだんと妬みを持つようになった。

このころから、BはW氏に、A先生は「平気でうそをつく、自分の望みを達成するためには女の武器を使う。」、「セクハラされたといって勝手に騒いでいる。やってもらへんからフラストレーションを起こしてあたるんや」、「英語は確かに上手にしゃべるけど、英語教育のことは何も知らない。教科会できっちり理論的に説明してみせたら、何もよう言わないでカッカしていた。」などと、繰り返し話すようになった。

また、Bは英語指導助手(ALT)のYさんに「A先生はデートができるような男性のALTを好んでいるんだ。」などと話し、職員室の中で、英語で「彼女が生徒に厳しく当たっているのは、性的不満があるからだ。」と話したりした。 新年会の二次会(カラオケボックス)でも、売春や白人女性、黒人女性のセックスが話題になったとき、Yさん(ALT)に、英語で「彼女に男さえいれば、性的に満たされるのに。」などと話した。

 最高裁まで争ったセクハラ

このようなA先生に対する発言に対して、裁判所はBの行為は嫌がらせ、いじめと評価することができ、A先生の人格権を侵害するものであるから、不法行為に該当するとして精神的損害を慰謝するための慰謝料五〇万円を認めた。この判決に対してBは控訴した。それに対して大阪高裁は、全体としては一審の判断を支持しているが、一部Bの主張を受け入れて、A先生は<<同校の教職員と必ずしも十分な和を保っていたとはいえないことに照らすと、……単純に妬んでいたと決めつけるのは早計であり、当を得ていないであろう。尤も、Bの発言を正当化するものではないことはいうまでもない>>。として慰謝料の額を三〇万円に減額した。

この判断に対して、Bは、さらに最高裁に上告・上告受理の申し立てをしたが、最高裁は棄却、不受理にしている。この事件では、男性が嫉妬心から女性に対して嫌がらせ、苛めを繰り返したことが人格権を侵害したと判断をししているが、セクハラについての判断はしていない。この事件は、確かに、教師間のいじめ事件であるが、さらに被告Bの発言をめぐりセクシャル・ハラスメントの問題として、検討することにしよう。

男女雇用機会均等法で

一九九九年四月、事業主に対してセクシャル・ハラスメント防止対策を新らたに義務づけた改正男女雇用機会均等法が施行され、日本で初めてセクシャル・ハラスメントが法律(「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保に関する法律」第二一条())によって規制される対象になった。

その具体的内容を「事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上配慮すべき事項についての指針」(1998年労働省告示第20号)で見ることにする。

 まず、「職場におけるセクシャル・ハラスメントの内容」でセクシャル・ハラスメントを二つの型に分類している。一つは対価型、あるいは地位利用型ともいわれるもので、使用者や管理職が仕事上の権限や地位を利用して、労働条件と引き替えに性的な要求を行う、たとえば、デートに誘う、交際を迫る、セックスを要求するなどの性的誘いかけをするもので、「つきあってくれたら昇進など良くしてやる」「嫌なら配置替えをする」などの圧力をかけるものと、もう一つは環境型といわれるもので、性的言動が繰り返されることで、仕事が円滑に行えなくなったり、働きにくい職業環境が作られるものである。

環境型の典型例の一つとして「同僚が取引先において女性労働者に係わる性的内容の情報を意図的かつ継続的に流布したため、当該女性労働者が苦痛に感じて仕事が手につかないこと。」が上げられている。したがって、この事件は環境型セクシャル・ハラスメントといえる。

 これらは、いずれも事業主が女性労働者の就業環境が害されないように雇用管理上必要な配慮をしなければならないとしているので、この事件も本来はB(被告)の誹謗中傷発言について校長などの管理職が適切な処置を執る必要があるし、裁判でもセクハラ問題として管理職を訴える必要があったのではないだろうか。

 しかし、この裁判では、管理職の責任には触れずに、誹謗中傷を繰り返す同僚教師のみを訴えたために、嫌がらせ、いじめによる人格権侵害という判断になっっている。

 だが、このような問題を個人的な問題としてしまっうと、他の教師を傍観者にしてしまい、真に解決しないのではないだろうか。誹謗中傷するような発言が出ない明るい職場であれば、このような事件を未然に防ぐことができるし、そのためには管理職の責任も当然あるであろう。

そこで、セクシャル・ハラスメント問題での管理職の責任について別の裁判で検討することにする。

 福岡セクハラ事件

  一九九二年に福岡セクシャル・ハラスメント事件の判決が出された。(福岡地判1992416「労働判例」607号)この判決を契機にして、セクハラ訴訟が相次いで起こされ、その後、数多くの判決が出されている。この福岡事件は、いま紹介した大阪・中学校の事件と類似している点があるので、この判決を紹介することにする。

F(原告・女性)さんは、当初、アルバイトとして採用され、後に正社員になったが、雑誌編集の経験と能力があることから、雑誌の編集の取材・執筆・編集等の仕事を任されるようになった。G(被告・男性)は、Fさんの上司で編集長であったが、編集業務でのFさんの役割が高まり、また係長とFさんとの間で業務の方針が決まることが多くなったため疎外感を持つようになった。その結果、社内の人や、外部の人にも「Fさんは結構遊んでいる。お盛んらしい」と話したり、係長やデザイナーと「怪しい仲にある」などの噂を流したりした。

その後、係長に代わって、専務が担当し、G(被告)中心の業務運営に戻したことから、Gは自信を取り戻したが、それ以後も専務や他の従業員に、Fさんの異性関係が乱れており、業務に支障をもたらしているなどの噂話をし、さらにFさんに対しても「遊び好きのくせに」など、私生活を揶揄する発言を行った。

こうした中で、両者の関係は悪化し、GがFさんに退職を求める発言などを行った。その結果、両者の対立が会社の業務運営に支障を及ぼし始めたことから、専務は二人のどちらかに退職してもらうことにして、その意思を確認したところFさんは退職の意思を表明した。他方、Gに対して、会社は三日間の自宅謹慎と賞与の減額と言う差別対応でであったことから、Fさんは、Gと会社を訴え、会社には、職場が働きやすい環境を保つように配慮する注意義務があるのにこれを怠ったとして損害賠償を請求している。

この福岡事件の判決では、G(被告・編集長)の行為を不法と認めるだけではなく、会社についても働きやすい職場環境を保つ責務を怠ったとして、雇用者としての不法行為も合わせて認めている。

裁判所の判断

裁判所は<<職務遂行に関連して被用者の人格的尊厳を侵し、その労務提供に重大な支障を来す事由が発生することを防ぎ、またはこれに適切に対処して、職場が被用者にとって働きやすい環境を保つように配慮する注意義務もある>>と述べ、あわせて<<被用者を選任監督する立場にあるものが右注意義務を怠った場合には、右の立場にあるものは被用者に対する不法行為が成立することがあり、使用者も不法行為責任を負うことがある>>としている。そして、専務は職場環境を調整する義務を負う立場にあったが、原告、被告の間の確執につて、解決のための十分に適切な対応をとらずに、被告の男性編集長には三日間の自宅謹慎と賞与の減額処分にとどめて、原告女性には退職を勧告することによって、もっぱら女性の犠牲で職場環境を調整しようとしたことが、職場環境を調整するよう配慮する義務に対して違反があり、そのことで不法行為の成立するとしている。

このように裁判所は、使用者だけではなく監督的地位にある従業員にも職場環境を調整する義務を負わせている。したがって、大阪・中学校セクハラ事件でも当然、管理職の注意義務違反はあるであろう。

しかし、問題は、ただ校長などの責任を明らかにすれば解決するということではない。そうではなく、うわさ、陰口などのない明るい職場環境にするために教職員とともに校長などの管理職がどのように努力するかであろう。そこに校長のリーダーシップが求められるのであって、職員会議などで教職員の意見を十分反映させないで学校運営を行うことがリーダーシップではない。


選挙権年齢を18歳以上にする法案が成立しましたが、若者の投票率が気にかかります。いま、若者の政治不信や政治的認識の空洞化など多く指摘されていますが、一つの要因として、高校での生徒会活動にあるのではないでしょうか。高校には様々な校則があります。頭髪、服装など身体の自由に関わるものから日常での些細なことまで校則は規定しています。厳しい校則に対して生徒会が、その改善要求しても学校は校長の判断や職員会議の決定という「壁」で阻み校則が変えることは難しのが現状でしょう。そのような中で高校生は、校則を変えようなどとは考えず適当に「遵守」しているほうがが楽だと考える心性が作られてしまい、そこで養われた心性から投票したことで自分の意思が反映されるとは考えにくいのではないでしょうか。選挙権が18歳になることで高校生が選挙への認識を深めることは大切ですが、その前に生徒会活動をとうして生徒たちの要求をできる限り受け入れ、校則が変わることを実感することが、投票する意義を知りことになるのではないでしょうか。政治教育ももちろん大切ですが、それと同時に生徒が自分たちで決めることができる学校にすることも大切でしょう。

サミットを伊勢志摩で開催する“わけ”

安倍首相の意向を組んで2016年サミットは伊勢志摩で開催されると報じられています。(66日)なぜ伊勢志摩で開催されるのかは、「伊勢神宮の凛とした独特の空気を外国首脳にも感じてもらいたい」のが首相の意向だということですが、他方で、その日、インド洋派遣自衛官自殺が27人だとする答弁書が閣議決定したことも報じられています。戦争に直接参加しなくても自殺という「死」を選択する自衛官は、イラクから帰国した自衛官も29人が自殺したと報じられていました。

憲法9条の空洞化が驀進していますが、それに伴って戦争に関わっての「死者」が想定され、その「死者」をどのように慰霊するかが次の課題として浮上することになるでしょう。

他方で「道徳教育の教科化」が提示され、それに伴って文部科学省は小中学校での道徳教育の学習指導要領案を発表していますが、その中で〔感動、畏敬の念〕として、たとえば、中学校の指導案では「美しいものや気高いものに感動する心をもち,人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深めること。」としています。この「畏敬の念」は2006年に教育基本法が「改正」され際にも論議されたものですが、当時、「畏敬の念」を高めることが子ども達にとって大切であり、そのためには宗教に関する寛容の態度、宗教的情操を養うことは、人格の形成には不可欠だと指摘されていました。

この「宗教的情操の涵養」は戦前から一貫して主張されている理念ですが、戦前、日本の教育の根幹を規定した「国家神道」との関わりが危惧させます。戦後、神道指令によって、神社神道は、国民が自由に信奉する一宗教となり「国家神道」は死滅しました。憲法第二〇条の第二項に「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」し、第三項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定しています。この政教分離の原則と戦争放棄は憲法の重要な特質があることは誰しも認めることでしょう。ところが、第9条の戦争放棄見直しと共に政教分離の原則も見直そうとする政治的傾向は顕著になっている、との指摘もあります。(子安宣邦『国家と祭祀―国家神道の現在―』2004年・青土社)

今回、サミットが伊勢志摩で開催されることになりましたが、その背景に伊勢神宮がありようですが、伊勢神宮は、明治維新後全神社を、皇祖神天照大御神を祀る頂点に位置し、国家神道強化政策の中心を担った神社です。安倍首相が言う「凛とした独特の空気」はその昔、計り知れない人々の命を奪った歴史も内包しているのです。

憲法20条は政教分離を規定していますが、戦争に関わっての「死者」を慰霊するために、靖国神社の位置が重要になり、その先に伊勢神宮が関わっているのではないでしょうか。そのような背景を意識して伊勢志摩サミット開催が決まったのではと考えます。