国立大学の教員養成系の定員削減が報じられていますが、確かに教職科目を受講しても本当に教師を目指す学生は多くなないことも確かです。

ある学生は教職科目受講の目的を、自分が受けてきたこれまでの学校教育を振り返って教師になるためにどんな勉強を受けてきたのか知りたくて受講していると話していました。また別の女子学生は、やはりこれまでの学校教育で何か大切なことが見過ごしてきたような気がするといって、すでに内定している企業をキャンセルし改めて自分が、どう生きるのかを考えて就職活動に再度挑戦すると話していました。

今の大学教育での教職科目は、教師を目指すかどうかと同時に人生を考える一つの契機も担っているのではないでしょうか。国立大学で教員養成系定員削減は、私立大学での教職科目の軽視に波及するのではないかと危惧します。目先の事象だけではなく深く思索を駆使した施策を推進していただきたいものです。

【「事件の概要①】黄色くした髪、黒に戻しなさい

 トラック運転手Aさんは、それまで長めの髪型をしていたが、その日、短めで派手な黄色の目立つ髪の色に染めていた。その風貌が大切な取引先に悪い印象を与えかねないと懸念して、課長が指導することになった。「先日、M社から電話があり、髪の色を染めた人がいるがあまり好ましくないとの連絡があった」と話した。しかし、実際には、課長が髪の色を元に戻させる方便として行ったもので、M社から苦情の申し出があったわけではなかった。

 それに対して、Aさんは、髪の色のことで会社が干渉するのはおかしい、M社にも髪を染めた人がいるし、他の会社にも沢山いる、構内ではヘルメットを被っており、あまり見えないから良いではないか、などと反論した。

 課長は、他杜は他社、うちとは関係ない、運転手は会社を代表する営業マンとしての立場が大きく、構内でヘルメットを被って見えないから良いというわけにはいかない、一般道では丸見えである、近日中に元の色に戻してくれ、と改めて要請した。

 Aさんは、自然に元に戻すからいいではないか、と応酬したが、課長は、近日中に元に戻すよう強く求めた。

その後、Aさんの髪の色に変化が見えなかったため、課長は、二、三日内に元に戻すよう、不本意だろうからも散髪代は半額援助する、全額援助してもよい、と申し入れた。

 これに対して、Aさんは、組合の話では髪の色でクビになることはないと聞いた、クビになるなら元に戻すが、クビにならないのなら元に戻さない、お金の問題ではない、髪を染めてから女性にもてるようになった、友達もみんな前は暗い感じだったが今は明るく見えると言ってくれる、と髪の色を変えるつもりのないことを強調した。

専務と課長は、Aさん父に事情を説明して、翻意を促した。父は、『「いい年になって髪を染めるな」と言ったが、『自然に元に戻す』と言っており、自分からも元に戻すようAに言っておく。」との返答だった。課長は、Aさんに、「くどいようだが最後の頼みだ。髪の色を元に戻して欲しい。」と話した。Aさんは、「クビになるなら戻すけど、クビにならないのなら元には戻さない。」と相変わらずの返答をした。

このため、専務は、課長の再三にわたる指導を無視したAさんの態度は社内の秩序を乱すものであり、社外に対しても悪影響が出ると考え、自分の方で直接会社の方針を説明し、始末書の提出方を求める必要があると判断した。

専務は、Aさんに髪の色を黒く染め始末書を出すよう命じた上、始末書の書き方については後日説明すると申し渡した。Aさんは、髪の色がそんなに悪いことかと反論したが、専務は、「会社の方針だから従ってもらわなければ困る。」と突き放した。

その後、専務は、社長と相談の上、最悪の場合には諭旨解雇もやむを得ないとの方針を確認した。

 Aさんは、その後、黒色の白髪染めを使って、自分で少し茶色の残る程度に髪を黒く染め直した。しかし、すべてを黒にするのは抵抗があったため、少し茶色が残る程度に黒く染めた。

しかし、専務は、髪の色がほとんど変わっていないとして、明日仕事を休んで理髪店に行き髪を黒く染めて来るよう、お金がなければ会社で出す、会社の方針に従えなければ話が大きくなる、始末書も書くように、と命じた。

これに対して、Aさんは、お金の問題ではない、髪の色は自分なりに黒く染めたがこれ以上染める気はない、始末書を提出すると後々クビになると組合に言われたので提出しない、と返答した。このため、専務は、その場で「残念ですが、就業規則に基づき論旨解雇とします。」、「文書は後でこちらから送ります。」と解雇を通告した。

【裁判所の判断】

このような解雇にたして、裁判所はつぎのように判示している。 <<一般に、企業は、企業内秩序を維持・確保するため、労働者の動静を把握する必要に迫られる場合のあることは当然であり、このような場合、企業としては労働者に必要な規制、指示、命令等を行うことが許されるというべきである。しかしながら、このようにいうことは、労働者が企業の一般的支配に服することを意味するものではなく、企業に与えられた秩序維持の権限は、自ずとその本質に伴う限界がある-といわなければならない。特に、労働者の髪の色・型、容姿、服装などといった人の人格や自由に関する事柄について、企業が企業秩序の維持を名目に労働者の自由を制限しようとする場合、その制限行為は無制限に許されるものではなく、企業の円滑な運営上必要かつ合理的な範囲内にとどまるものというべく、具体的な制限行為の内容は、制限の必要性、合理性、手段方法としての相当性を欠くことのないよう一特段の配慮が要請されるものと解するのが相当である。>>

今回は、学校の事件ではなく企業での事件を紹介することにしよう。

 はじめに紹介するのは、トラック運転手の「茶髪」が問題とされ、使用者は、再三の注意にもかかわらず髪を染め戻さないことを理由にAさんを論旨解雇したという事件である。それに対して、裁判所は、この解雇は、使用者の権利濫用であり解雇は無効であるとして、次のように判示している。<<労働者の髪の色・型、容姿、服装などといった人の人格や自由に関する事柄について、企業が企業秩序の維持を名目に労働者の自由を制限しようとする場合、その制限行為は無制限に許されるものではなく、企業の円滑な運営上必要かつ合理的な範囲内にとどまるものというべく、具体的な制限行為の内容は、制限の必要性、合理性、手段方法としての相当性を欠くことのないよう特段の配慮が要請される>>としている。そして、裁判所は、課長の指示について、取引先から好ましくないとの連絡がなく作りごととしてなされたこと等から、対外的な影響よりも社内秩序維持を念頭に発言されたと推測されること、及び会社側の態度は、労働者の人格や自由への制限措置について、その合理性、相当性に関する検討を加えた上でなされたものとは認め難く、Aさんから始末書をとることに眼目があったと推認されること等から、頭髪を黄色に染めたこと自体が会社の就業規則上直ちに譴責事由に該当するわけではなく、上司の説得に対するAさんの反抗的態度も、必ずしもAさんにのみ責められる点があったということはできず、始末書の不提出も、「社内秩序を乱した」行為に該当すると即断することができないとして、解雇の意思表示は解雇権の濫用として無効であると判断している。(福岡地小倉支決一九九七年一二月二五日『労働判例』七三二号)

【事件の概要②】ひげを剃らないなら

 ハイヤー運転手Bさんは、ヨーロッパ旅行から口ひげをたくわえて帰国したが、注意されそり落したが、再び口ひげをはやしたので「髭はまずいからそりなさい」と注意されると「東南アジアの方に旅行に行くので、旅行に行っている間は、はやしていたい。帰って来たらすぐそる」と答え帰国後そり落した。

 その後、再度、口ひげをはやしたので営業所長から「お前は髭のない方が男前だ」「みっともないからそった方がいい」と注意され、しばらくして、そり落した。

一年後、また、口ひげをはやしたので、営業所長や専務などから一〇日に一回ぐらいで「ひげはみっともないからそれよ」「ひげがない方が男前だ」等と注意を受けたが、無視してハイヤーに乗車勤務していたので、専務から「髭をそらないのか」「そらないなら懲戒にかけるぞ」言われてが、Aさんは、「髭をそる気はありません」「髭をそらないからといって懲戒にかけられるのか。できるんだったらやりなさい」と応答した。その後も、営業所長や専務が、「ホテルの従業員などサービス業の人はみんな髭なんかはやしていない」等と再三にわたり説得を重ねたが、「髭は身体の一部だから会社に強制されることはない」「髭をはやすのは自由だ」等とそらなかった。

 さらに、明番懇談会で、他の運転手から 「お客さんからも原告の髭が指摘されている。なぜ会社は放置しているのか。管理職の意見が聞きたい」との発言があり、会社は、「会社も放置しているわけではない。何度も説得したり注意したり指示を与えるけれども一向に聞いてくれないので困っている。今後も厳重に注意する」と答えた。

 また、明番懇談会で前回と同旨の発言がなされたので、会社も同人に対し顧客の誰からどのような指摘があったのか具体的な事実を明確にするように問い質したが、同人は、お客に迷惑がかかるからと言って被告会社の右調査には何ら答えなかった。

一方、会社は、従業員の間においても原告の口ひげが問題視されるに及んだため、これを放置しておくことは、従業員に対するみだしなみの維持の必要上不都合を来たすし、又、髭をはやす者が増加してこれが会社の業務遂行上悪影響を及ぼすことを懸念して、何らかの措置をとる必要があると判断するに至った。そして、この際ハイヤーに乗車勤務させないこととすれば、原告も反省しその口ひげをそるであろうと考え、「この次の乗務の時までに必ず口ひげをそるように」との業務命令を口頭で原告に告知した。

しかし、原告は、口ひげをそらないで出社したため、会社は、下車勤務命令を発した。これに対し、原告は「車に乗せないというのであれば、就業規則のどこに違反するのか。就業規則にもとずいてやってもらいたい」「お客さんに口ひげが不快感を与えると決めつけて対処することは問題だ」「頭がはげている人は嫌いだとか、顔つきがやくざみたいだから嫌いなんだということをお客さんが言ったらどうするのか」等と反論したが、被告会社は、「就業規則には関係がない」「口ひげは、お客さんに一不快感を与えるからよくない」等と答えたにとどまった。

下車勤務命令後、会社は、「上司の業務指示に従わず職場の秩序をみだし又はそのおそれがある」と判断して、就業規則にもともづき事業所へ立入ることを禁止する旨文書で通告した。

【裁判所の判断】

 <<口ひげは、服装、頭髪等と同様元々個人の趣味・噌好に属する事柄であり、本来的には各人の自由である。しかしながら、その自由は、あくまでも一個人としての私生活上の自由であるにすぎず、労働契約の場においては、契約上の規制を受けることもあり得るのであり、企業に対して無制約な自由となるものではない。すなわち、従業員は、労働契約を締結して企業に雇用されることに伴い、労働契約に定められた労働条件を遵守し、同一その義務を履行することは当然である。従って、企業が、企業経告の必要上から容姿、口ひげ、服装、頭髪等に関して合理的な規律を定めた場合(企業は、企業の存立と事業の円滑かつ健全一な遂行を図り、職場規律を維持確立するために必要な諸事項を規制をもって定め、あるいは時宜に応じて従業員に対し具体的な指示・命令をすることができるのであるから、口ひげ、服装、頭髪等に関しても企業経営上必要な規律を制定することができるのは明らかである。ことにハイヤー営業のように多分に人の心情に依存する要素が重要な意味をもっサービス提供を本旨とする業務においては、従業員の服装、みだしなみ、言行等が企業の信用、品格保持に深甚な関係を有するから、他の業種に比して一層の規制が謀せられるのはやむを得ないところであろう。しかしながら、この場合にあっても、企業は、労働契約により従業員を雇用しているとはいえ、これを一般的に支配できるものではないのであるから、右規律といえども労働契約の履行との関連性をはなれてなし得ないのはもとより、従業員の私生活上の自由を不必要に制約するものであってはならないこともまた当然である。) 、右規律は、労働条件の一となり、社会的・一般的に是認されるべき口ひげ、服装、頭髪等も労働契約上の規制を支け、従業員は、これに添った労務提供義務を負うこととなる。

原告に対する本件業務命は、「乗務員勤務要領」の規定にもとついてしたものであり、「乗務員勤務要領」は会社の作成した規則および詰規程の一に該当すると主張する。

 「乗務員勤務安領」は、総務部がハイヤー運転手を教育・養成する目的で作成しこれを平素の到務上十分発揮することを指示して各営来所に配布したものである。

その、はしがきにあるようにハイヤー運転手として心得ておかね叫ならない具体的細部について特に顧客L 対するサービス要領の基本を示したもで、

その他形式・内容等におγても規則としての形式を欠き、改廃にJ いても特段の手続をふむことなく必要な都度適宜なされていたようである。そして、また「乗務員勤務要領」は、被告会社とその従業員らが作成につき互いに協議し、合意に達してこれを作成したことを認める証拠もない。

以上の事実によれば、被告会社が、原告に対し本件業務命令を発した根拠とする右「乗務員勤務要領」は、いずれの点よりみてもこれを会社の定める規則又は諸規程と解することは困難である。

「乗務員到務要領」の「車両の手入れ及び服装」の項の「平素における乗務員自身のみだ

しなみ」の箇所には“ヒゲをそる”との固条があることから、口ひげをはやしてハイヤーに乗車勤務することは許されな

いと主張する。

 会社がハイヤー運転手や原告に対し口ひげを規制したのは、口ひげが 「みっともなく、お客に不快感を与える」からであり、「就業規則には関係ない」ことを言明しているのであって、そうであるとすれば、被告会社は、右「乗務員勤務要領」の「ヒゲをそる」旨の箇条により従業員の口ひげをも一般的かっ一律に規制し得ると考えていたか否か甚だ疑問であるといわざるを得ない。むしろ、被告会社は、ハイヤー運転手に端正で清潔な服装・頭髪あるいはみだしなみを要求し、顧客に快適なサービスの提供をするように指導していたのであって、そのなかで「ヒゲをそること」とは、第一義的には右趣旨に反する不快感を伴う「無精ひげ」とか「異様、奇異なひげ」を指しているものと解するのが相当である。

従って、「乗務員勤務要領」にもと守ついて原告の口ひげを規制すベく本件業務命令を発したとする被告会社の主張は理前由がない。

もう一つの事件は、口ひげを剃れという業務命令に従わなかったことを理由に使用者から就労を拒否されたハイヤー運転手が「ひげを剃ってハイヤーに乗務する労働契約上の義務のないこと」の確認請求をしたという事件である。裁判所はその確認を認容した。その理由として、使用者が業務命令の根拠とした「乗務員勤務要領」に書かれている「ヒゲをそる」という意味は、不快感を伴う「無精ひげ」や「異様、奇異なひげ」は「そる」という意味であって、この場合「乗務員勤務要領」は業務命令の根拠とならなとし、原告が口ひげをはやしてハイヤーに乗車勤務したことにより、会社の円滑かつ健全な企業経営が阻害される現実的な危険が生じていたと認めることは困難であると判断している。また裁判所は、一般論として「企業が、企業経営の必要上から容姿、口ひげ、服装、頭髪等に関して合理的な規律を定め た場合……右規律は労働条件の一となり、社会的・一般的に是認されるべき口ひげ、服装、頭髪等も労働契約上の規制を受け、従業員は、これに添った労務提供義務を負う」とも判示している。イースタン・エアポートモータース事件東京地判一九八〇・一二・一五労働判例三五四号

生徒の自己決定権を認めるか

 一般的に考えれば、他人の権利を侵害したり、利益を不当の犯さなければ生徒の自己決定権を尊重すべきであろう。人間の尊厳、独立性の尊重ということから、誰しも、理性的で、責任感がある人間であれば、自分に関することは、自分で処理すベきだし、自己決定の自由が保障され、発揮されてはじめて、個性豊かな人格の発達が期待できるのでああろう。

 自己決定のは、さまざまな選択の自由がともなう。選択の自由が広く認められ、よりよい選択がなされることが必要である。その際、何が最良の選択かについては、客観的な基準が存在しない場合には、どうしても、自己の利益が判断基準になり、自分こそが最善の判断者であると考えてしまう。したがって、そこでは、本人に判断能力が備っているどうかが問われ、備わっていれば、まわりから選択を強制したり、選択の幅を制限することを認めるべきではない。

 したがって、生徒たちの自己選択権を問うとき判断能力が備わっているかが問われ、備わっているか考えるか、不十分かで判断が分岐する。まだ、中学・高校生発達の途上であり、生徒自身に判断を任せたのでは、結果として、好ましくないばかりか、無法と混乱が生ずるばかりであり、したがって、教化的、パターナリスティク(父権的)な指導が必要である。選択の自由を与えると、往々にして誤ったことや、不当な行動がなされるので、そのため行動の基準を示し善導的措置をとるのが、教師、保護者の役割であると考えることが多い。

「しかし、自己決定という考え方は、まさに右のような考え方に対する批判である。選択の自由は、誤りや混乱に陥ることをおそれず、またたとえ誤っても、その経験を生かすという考え方にたつものである。その意味で、自己決定権は、誤りをおかす自由を前提としているともいえる。」という指摘がある。

 また、自己決定とはいうものの、現実には、変わり者、奇矯な者、へそ曲りの者に自由を与える結果になり、何ら積極的な意味はないのではないか、という考えもあるし、自己決定権は、エクセントリックな者の擁護になるのではないかとも考えもある。しかし、「そうした主張の底にあるのは、やはり基本的な自由の問題であり、エクセントリックな主張であるがゆえに、これを封ずべきだとすれば、それは、自由そのものを封ずることにになる。エクセソトリックな者に自由を否定しようとする際におきるのは、何をエクセントリックという問題である。「逸脱」(deviance) というのは、社会が、「逸脱」というラベルをはることによって生まれるものである。そうだとすれば、逸脱行動であるとか、エクセントリックだとして、これを抑圧することには一層問題がある。他人への危害がおよばないかぎり、自己決定に委ねるべきである。」とも指摘する。

 そして、エクセントリックな行動を許容することは、一時的な流行や流れに従うものを肯定し時流に左右された原則のない考え方であるという見方もある「しかし、エクセントリックな行動を不利益に扱わないということは、それを正しいとして是認することではない。正しいかどうかは、個人の判断にまかせ、ただ、変わっているとか、普通とちがうからといって、これを封じたりしないという、寛容ないし相対主義の考え方に立つものにすぎない。」とも指摘している。

茶髪・ひげの自己決定権


 お尻の「肖像権」

【事件の概要】

「迷惑条例」違反により有罪

 A(被告)は、夜七時ころ,旭川市内のショッピング センター一階の出入口付近から女性靴売場にかけて、女性(二七歳)を約五分間、四○㍍余りにわたって、背後の約一~三㍍の距離から、携帯電話のカメラで細身のズボンを着用した女性の臀部を約一一回撮影した。

 撮られた女性は、そのことを気付かなかったが、この行為は、ズボンの上から撮影されたものであったとしても、社会通念上,性的道義観念に反する下品でみだらな行動であることは明らかであり、これを知ったときに女性を著しくしゅう恥させ、不安を覚えさせるものといえるから、「公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例」(いわゆる「迷惑条例」)によって、有罪とされた事件がある。

 都道府県には「迷惑条例」があるが、この事件では、北海道の「迷惑条例」第二条の二「何人も,公共の場所又は公共の乗物にいる者に対し, 正当な理由がないのに,著しくしゅう恥させ,又は不安を覚えさせるような次に掲げる行為をしてはならない。(一)衣服等の上から,又は直接身体に触れること。(二)衣服等で覆われている身体又は下着をのぞき見し又は撮影すること。(三)写真機等を使用して衣服等を透かして見る方法により,衣服等で、覆われている身体又は下着の映像を見又は撮影すること。に違反するとして札幌高裁はAを有罪とした。Aは上告しが、最高裁は棄却した。裁判官の中で田原睦夫裁判官だけは、「条例」に違反していないとして無罪を主張している。

 田原裁判官は、「卑わい」性は、行為者の主観の如何にかかわらず客観的に「卑わい」が認められなければならないが、この事件でのA(被告)はズボンの外から「臀部」を撮影したのであって、その行為は、「卑わい」な行為と評価すること自体に疑問があり、「著しくしゅう恥させ、又は不安を覚えさせるような行為」には当たらない、としている。そこで、その論拠を見ることにしよう。

【無罪とした裁判官の主張】

(1) 臀部を「視る」ことの「卑わい」性

 田原裁判官は、女性のズボンをはいた「臀部」は、通行している周辺の人が「視る」 ことができるので、「衣服等で覆われている部分をのぞき見」する行為とは全く質的に異なる。また、「視る」という行為は、主観的には様々な動機があり得る。「臀部」を視る場合も専ら性的興味から視る場合もあれば、ラインの美しさを愛でて視る場合,あるいはスポーツ選手の逞しく鍛えられた筋肉たる臀部にみとれる場合等,主観的な動機は様々である。しかしその主観的動機の如何が,外形的な徴憑(ちょうひょう)から窺い得るものでない限り,その主観的動機は客観的には認定できないものである。

 「臀部を視る」という行為それ自体につき「卑わい」性が認められない場合,それが,時間的にある程度継続しても,そのことをもって「視る」行為の性質が変じて「卑わい」性を帯びると解することはできない。したがって、「臀部を視る」行為自体には、「卑わい」性は、到底認められない、と主張している。


(2)「写真を撮る」行為と「視る」行為との差異

 

 少し長くなるが、さらに主張を見てみよう。人が対象物を「視る」場合,その対象物の残像は記憶として刻まれ,記憶の中で復元することができる。他方,写真に損影した場合には,その画像を繰り返し見ることができる。しかし,対象物を「視る」行為それ自体に「卑わい」性が認められないときに,それを「写真に撮影」する行為が「卑わい」性を帯びるとは考えられない。その行為の「卑わい」性の有無という視点からは,その間に質的な差は認められない。

「条例」は、「のぞき見」する行為と撮影することを同列に評価して規定するのであっ て,「視る」行為と「撮影」する行為の間に質的な差異を認めていないことが窺えるのである。なお,「条例」は、本来目視することができないものを特殊な撮影方法をもって撮影することを規制するものであって,この事件の行為の評価において参照すべきものではない。もっとも,写真の撮影行為で、あっても,一眼レフカメラでもって、「臀部」に近接して撮影するような場合には、「卑わい」性が肯定されることもあり得るといえるが,それは,撮影行為それ自体が「卑わい」なのではなく,撮影行為の態様が「卑わい」性を帯びると評価されるにすぎない。

 「卑わい」な行為が被害者をして「著しくしゅう恥させ,又は不安を覚えさせるような」行為である点 について被告人の行ったカメラ機能付き携帯電話による被害者の臀部の撮影行為が,仮に「卑わい」な行為に該当するとしても,それが被害者を「著しくしゅう恥させ,又は不安を覚えさせるような行為」でなければならない。なお,その行為によって,被害者が現に「著しくしゅう恥し又は不安 を覚える」ことは必要ではないが,被害者の主観の如何にかかわらず,客観的に「著しくしゅう恥させ,又 は不安を覚えさせるような行為」と認められるものでなければならない。

 撮影行為は,カメラを構えて眼で照準を合わせて撮影するという,外見からして撮影していることが一見して明らかな行為とは異なり,外形的には撮影行為自体が直ちに認知できる状態ではなく,撮影行為の態様それ自体には,「卑わい」性が認められない。

 また,その撮影行為は,用いたカメラ,撮影方法, 被写体との距離からして,被写体たる被害者をして, 不快の念を抱かしめることがあり得るとしても,それは客観的に「著しくしゅう恥させ,又は不安を覚えさせるような行為」とは評価し得ない。

以上,検討したところからすれは被告の撮影行為それ自体を「条例」にいう「卑わい」な行為と評価することはできず,また,仮に何がしかの「卑わい」性が認め得るとしても「著しくしゅう恥させ,又は不安を覚えさせる」行為ということはできないので、被告は無罪である、と主張した。

 

【解説】

(1) 防犯カメラで撮影される私たち

 この裁判官の主張をどのようにお考えになるだろうか。恐らく賛否両論分かれるのではないかと考えるが、この主張の沿うと、気がつかないようにそっと写真を撮影すれば「臀部」を撮ることに違法ではないということになり、お尻をみだりの撮影されない「権利」いわゆる「肖像権」は認められないことになる。

ところで、駅、スパーマーケットを初め街中に張り巡らされている防犯カメラも私たちはほとんど気づくことなく、ましてや「不安になることもなく」遠くからそっと撮影している。そして何よりも犯罪防止に有効だと絶えずテレビなどで紹介されているし、多くの人々は納得している。学校安全という面からも学校内にも防犯カメラの設置が進んでいる。したがって、そこでは、肖像権は何ら問われることはない。そこで、お尻ではなく、私たちの肖像権について見ることにしよう。

(2) 改めて肖像権とは

 肖像権が問われた最初の判決は、かなり過去になるが一九六九年一二月二四日『京都府学連事件』での最高裁判所判決である。この事件は、一九六二年六月二一日、文部大臣(当時)による国立大学の学長選任権及び監督権を強化する大学管理制度改革に対して反対するデモが、京都府学生自治会連合(京都府学連)の主宰により行われた。そのデモ隊が御池通との交差点にさしかかったとき混乱し、その時、京都府警の巡査がデモ隊の先頭集団を写真撮影した。これに抗議したHが、旗竿で巡査の下あごを突き、全治一週間の傷害を負わせため公務執行妨害罪及び傷害罪で起訴された事件である。

最高裁は、憲法一三条を根拠に、「個人の私生活上の自由の一つとして、何人も、その承諾なしに、みだりにその容ぼう・姿態を撮影されない自由を有する」と述べた上で、「これを肖像権と称するかどうかは別として、少なくとも、警察官が、正当な理由もないのに、個人の容ぼう等を撮影することは、「憲法一三条の趣旨に反し、許されないものと言わなければならない」とした。

 そして、肖像権は、憲法一三条に含まれる「個人の私生活上の一つ」であり、「何人も、その承諾なしに、みだりにその容貌、姿態を撮影されない自由」とされており、その内容には、人が自分の肖像を、みだりに写真に写されたりしない権利(撮影拒否権)の他に写された自分の肖像を他人に勝手に使用されないという権利(使用拒絶権)を含む事も明らかにされてきた。従って撮影される人は、撮影されるか否かだけでなく、撮影の結果を発表される事について承諾するか否かを決める権利を持っている、という。