〇気恥ずかしくて、なかなか自分のことは書けないでブログをやってきた。
なぜか、気分が向いて、自己紹介代わりにちょこっと書いてみたくなった。
戦後すぐの就職難のころ、父はこの交番所の若きお巡りさんになっていた。
どんな、接点があったかは知らされていないが、いつしか母は父が勤務するこの交番所にお弁当を届ける仲となり、つきあいが始まり私が生まれたそうだ。
名付け親は懇意にしていた住吉大社の宮司さんだったらしい。だからというのではないが、名前は随分こだわった字体になっている。
のち、父は転職に継ぐ転職の人生が始まった。振り出しは大阪市立粉浜小学校の教員、その後、いろいろあって、母とも別れ神奈川の地へと流れ着いた。母は子育てのため南地(大阪・なんば)
の宝恵籠に乗る看板芸妓となった。
そのころ父は東京で苦悶の日々をおくり、錦糸町の飲み屋である人と出会う。そこから再生のドラマがはじまったらしい。やがて、鉄鋼メーカー関連の町工場の親爺から、自ら紡ぎ出したトンネルの掘削技術が実を結び特許をとり、某大手建設会社系列の部品工場を立ち上げ大成した。
互いに生死もわからず歳月が流れた父と子、もうあうこともないと思っていた父と私。だが不思議にも恨みはない。でも、父の中では忘れられず再婚後も大阪中を探し続けたらしい。
何度目かの捜索で私を知っていた住吉新地の三味線屋の古老がひょっとして‥あそこ当たりに住んではるんちゃうかいなと語ったひと言が三十数年ぶりに私と邂逅するきっかけとなった。
だが、その時はもう母は亡くなっていた。四十九歳で世を去った。末期がんだった。
その後、叔父さん、祖父も相次いで亡くなり、喪主を務めたのは二十代のわたしだった。
そんな訳で、私には二人の母(二人とも故人)、腹違いの弟と妹二人、更に母の再婚で生まれた妹といっぺんに親族が増えた。その二人の母も父も比較的若い年齢で世を去った。私が大衆演劇に惹かれるのも、きっとこんな人生遍歴がもたらす共感なのだろうと思う。
長谷川伸先生の作品の一つ一つが身に迫る所以でもある。
時ながれ‥父と再会するまでに30余年が経過していた。
そりゃ、いろいろ、ありましたよこれまでの人生は。話せば長くなるばかり…
てな、訳でこの地が妙に懐かしく何度も夢に見る。そんな場所で、妻がフリマをやりたいと突然いいだした。てなことで、今日は付添いで説明・抽選会にここへやって来た次第である。
また、気が向けば綴ります。芸談、奇談、よもやま話、これにて終演。
ハイ 拍手 お代は見てのお帰り。