▩ 紀州屋良五郎の浪花古寺巡礼 談山神社 | 紀州屋良五郎 ☆大衆演劇・上方芸能☆情報系ブログ

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まいどおおきに~寺社参りメモでおます

談山という名が気になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いわば、革命のための密談が行われたところなのだ。

大昔、大化の改新の策が練られた場所にふさわしく山深いところだ。

 

 

ちょうど、ほどなく深紅に染まる時期だ。

西の日光と言われるとは最近知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本も古代までさかのぼり見直す時期にきているようだ。

 

 

以下に、談山神社のホームページから引用させていただく。

 

舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。 この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。

たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、 聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、 西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。 後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。

ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。 

 

天智天皇8年(66910月、鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、 大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を賜りました。 藤原の姓はここに始まります。

足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。 大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。