寂として静まり返っている | かや

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秋夜寄丘二十二員外

懐君屬秋夜
散歩詠涼天
山空松子落
幽人應未眠

秋夜(しゅうや) 丘二十二員外(おかにじゅうにいんがい)に寄(よ)す

君(きみ)を懐(おも)うて 秋夜(しゅうや)に属(しょく)す
散歩(さんぽ) 涼天(りょうてん)に詠(えい)ず
山(やま)空(むな)しうして 松子(しょうし)落(お)つ
幽人(ゆうじん) 応(まさ)に未(いま)だ眠(ねむ)らざるべし

韋応物(いおうぶつ)の五言絶句。山田勝美氏『中国名詩鑑賞辞典』によれば、韋応物は七三七年ー?。盛唐から中唐にかけての詩人。長安の人。玄宗に仕え、累進して蘇州の長官になり、韋蘇州(いそしゅう)と呼ばれる。高潔な人柄で香を焚き、地を掃いて座ったという。陶淵明に比せられて、陶韋と言われ、王維・孟浩然・柳宗元とあわせて「王孟韋柳(おうもういりゅう)」と言われた。「韋蘇州集」十巻がある。


意。たまたま秋風にあたって、君のことがひとしお思い出される。(こんな夜は、よもすがらともに語り合いたいものだがそれもならず)庭先をそぞろ歩きしながら、詩をくちずさんだ。全山、人けとて無く寂として静まり返った中で、松かさの落ちる音が時に聞こえるのみ、おそらく君も、まだ寝もやらずにおることだろう。

友人の丘二十二におくったもので、姓は丘、名は丹、臨平山(りんぺいざん/浙江省杭県)に当時隠れ住んでいた。二十二は排行(はいこう)で、一族中の同世代の人の年齢の順序をいう。二十二番目の男子という意味。員外は員外郎の略で定員以外の役人。
何度か引用している詩だが、転句「山空松子落」に秋夜静寂の趣を写し得て妙と評されている通り、詩全体に表されている澄んだ秋の夜の深閑とした情景がこの転句によっていっそう際立ち、そして、松毬の落ちる密やかな音が聞こえて来るように感じる。

同じ韋応物に「聞雁(雁を聞く)」という詩が有る。
雁の鳴く声に遥か遠い故郷に油然たる帰思をそそられ、秋雨の夜を描いているが、「秋夜寄丘二十二員外」と共に惹かれる詩だ。
静寂の中、聞こえてくるのは雁の鳴く声であったり、松毬の落ちる音であったり、いづれも聴覚から詩情を掻き立てられているところが興味深い。


ピアノを弾いたり、ピアノ曲を聞いたり、或いは四重奏五重奏、オーケストラ演奏であったり、様々な楽器によるクラシック音楽は聞くが、他のジャンルの音楽を聞くことは極端に少ない。偏った言い方になるがクラシック音楽以外の他の音楽は騒音とまでは言わないが聴覚にストレスを感じてしまう。
また、子どもの頃からテレビを見ることがもともと極端に少なかった上、殊にここ何年間かはテレビ自体見ていないからだが、勝手に音声を放つその画面にはどうしても気持ちが向かわない。
また、楽しく賑やかにわいわいガヤガヤという環境も居心地が悪い。もっと言ってしまえば、やはり騒音でしか無く、一分一秒でも早くその場から脱したいと思ってしまうし、そのような場は例外無くいつでもサッサと退席している。
日常生活圏内は都心だったりするので何処に赴こうが喧騒の只中に身を置いていることになるが、あまり気にならないのは慣れからでは無く、常にボンヤリしているからだ。
漫然と思い浮かぶままに今この場には全く関係ないことを頭の中で考えていて、つい眼前の状況からは意識が遠退いているので、喧騒の中に居ても、感覚的には韋応物の「山空/山むなしうして」全山、人けとて無く寂として静まり返っている状態だ。何処に身を置いていても深閑としている。


thursday  morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。朧気なまま。