住めたら良いのに | かや

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「富を軽蔑するという人間をあまり信じるな。富を得ることに絶望した者が富を軽蔑するのだ。そして、こういう人間がたまたま富を得ると、何よりも始末が悪い」
「害をなすのは、心を素通りする虚偽ではなく、心の中に沈んで居すわる虚偽である」
どちらも「知識は力なり」で有名なイギリスの哲学者フランシス・ベーコンの『随想集』の言葉だが、いづれもその言葉の通りだなと思う。他にも多くの言葉を残し、名言と呼ばれるものはたくさん有る。

『随想集』は様々なテーマを挙げてそれについて記したもので「学問について」「友情について」「反乱と騒動について」「貴族階級について」「宗教と統一について」「富について」「出費について」等々他にもあるが、中でも興味深いのはフランシス・ベーコンが造園にこだわりを持っていたことで、この『随想集』の中にも「庭園について」というエッセイを記している。


その「庭園について」のエッセイの中では、王侯に相応しい庭園としてひと月ごとに楽しめる旬の美しい花や果実の木を揃えることや植物の香りが漂う甘美さを重視した記述となっていて、庭園にも細かい注文を示し、芝生・小道・庭園の区切り方や庭園を囲むアーチの生け垣の設定や噴水の分類の説明など細部に渡っている。その構想を草案にゴランベリー・ハウスで手掛け、庭園中央には湖を造り、七つの人工島を浮かべ、橋を渡した中央の島には館を建て、外周に浮かぶ六つの島は岩だけの島、花一面の島など各々異なる特徴を持たせ、更にはベーコン厳選の石が歩道や湖の底には敷き詰められていたという。
晩年は収賄によって失脚しゴランベリーハウスに隠棲したものの研究と著述に専念し続けた。

ベーコンと言えば、知識は生まれつき全く無い、生きていく上で積み上げていくものとした「経験論」が有名だが、正しい知識を取り入れる上で障害になる思い込みを指した「イドラ」を4つ掲げた。
その「イドラ」うまく知識を積み上げていく上で妨げになるものが、種族のイドラ(人間特有の思い込み)、洞窟のイドラ(生きた環境による思い込み)、市場のイドラ(噂による思い込み)、劇場のイドラ(権威による思い込み)で、ベーコンは思い込みや偏見を捨て、実際に見聞きしたことを根拠に思考することを主張した。
十六世紀に生まれ十七世紀にかけて生きたベーコンの思想は現代の様相にもそのまま当て嵌まるように感じる。


昨日、出掛けに書棚の並ぶ部屋で、ふと目に入ったのが渡辺義雄氏翻訳のフランシス・ベーコンの『随想集』(原著は一五九七年)、岩波書店から一九八三年に出版され、購入したものだった。
渡辺義雄氏の翻訳は他に古代末期のイタリアの哲学者アニキウス・マンリウス・トルクアトゥス・セウェリヌス・ボエティウスやスイスの法学者で哲学者のカール・ヒルティなどが有り、また西洋哲学史に関する著作が多数有る。何冊か翻訳書や著書が書棚には有る。
『随想集』ののちに成田成寿氏による翻訳で中央公論新社からも出版され、そちらも並んでいる。
懐かしいなと思いつつ、別な棚から手に取ったのは久野健氏著『古仏礼賛』だった。
一九八九年芸艸堂から出版されたもで、昨日は終日、ティータイムや移動の間に間に久野氏の『古仏礼賛』の頁を開き、帰宅してからも眺めたが、今日は久しぶりに『随想集』を眺めようかなと思っている。
とはいえ、書棚からまた違う書物を手に取りそうだし、どの書物を選んでも頁を開けば一瞬でその記述に意識が馴染む。
書棚に並ぶどの書物を選んでも楽しむことが出来るのはその全てが興味を抱いて購入し、没頭した書物だからだ。

いつか書物の中に羅列する文字のひとつになって紙の中に住めたら良いのにと思う。本は何でも良いし、文字も「へ」でも「ぬ」でも何でも良い。


wednesday morning白湯を飲みつつ空を眺める。

本日も。薄く淡い。