優しく呼び起こされる | かや

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かやです。



昨日朝、マシンピラティス&コンディショニング後、施設内のミストサウナで過ごし、場所を移動して、ヘアサロンでヘッドスパの施術後、三つ所用を済ませ、一段落すると午後五時だった。
移動の車中では阿部幸信氏の『中国史で読み解く故事成語』を眺めていた。

「暴を以て暴に易(か)う」暴力を解決するために暴力を行使することを言う。出典は『史記』(伯夷列伝)だ。
前一一世紀前半頃、周は古公亶父(ここうたんぽ)のもと岐山(きざん/陝西省)山麓へ移住し、孫の文王の時、勢力を東に伸ばした。警戒した殷の紂王に幽閉された文王はこれを機会として「易」の理論を整理したとも伝えられる。
釈放された文王のもとには人徳を慕って人材が集まった。
中でも呂尚(りょしょう)の名はよく知られている。
彼は渭水(いすい/黄河の支流)のほとりで釣糸を垂れていたところを文王に見いだされ、これぞ太公(おじいさんの意、古公亶父)が出現を望んだ聖人だとして、「太公望(たいこうぼう)」と呼ばれた。釣り人のことを太公望というのはこの故事による。
文王の死後、息子の武王とその弟・周公旦(しゅうこうたん)が挙兵して、殷を倒し、周王朝を建てた。周公は魯(ろ/山東省)に封じられ、間も無く武王が没すると、幼い成王(せいおう)の摂政となった。
その都が曲阜(きょくふ/山東省済寧<せいねい>)だ。
後世、曲阜で生まれた孔子は周公を大いに尊んだ。
因みに、日本の「岐阜」という地名は、周の飛躍の地、岐山と、孔子のふるさと、曲阜にあやかって、織田信長が命名したのだとか。と阿部氏の解説にある。


さて、もともと中国の政権交替の原則は、徳(道にかなった正しい行ないや人格)のある者が王位を譲り受ける「禅譲(ぜんじょう)」が建前で、武力によって位を奪う「放伐(ほうばつ)」は非とされていた。従って、武王が殷を倒したことには、古くから批判も有り、とりわけ、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)兄弟の逸話は有名だ。
彼らは武王の挙兵に際し、父の死後すぐに兵を出すこと、臣下が主君を討つこと、いずれも道を外れた行為だと説いて諫めた。
のち武王が殷を滅ぼすと、二人は周王の治める土地でとれた穀物を食らうことを恥じ、首陽山(しゅようざん/場所は諸説あり不明)に入り、ゼンマイをとって暮らし、ついには餓死した。

二人が死に臨んで作った歌の一節に、
「暴を以て暴に易(か)う、其(そ)の非を知らず」
これは、暴虐の紂王を除くために〈いくさ〉という暴力的な手段を用いながら、その過ちに気付かない、とい意味で、勿論、武王を謗ったものだ。

司馬遷は『史記』列伝の冒頭に彼らの伝(伝記)を立て、天の道について、熱く論じている。
「『天道』はいつも善人に味方するというけれども、伯夷・叔斉は徳を積んで行ないを正しくしながら餓死し、盗跖(とうせき)は罪なき者を殺し暴れまわって天寿をまっとうした。ひょっとすると、いわゆる天道は、正しくないのではないか?」

李稜(りりょう)を弁護して、宮刑(男性の機能を喪失させる刑罰)に処せられた司馬遷には、節義を貫いて死んだ伯夷・叔斉に、共鳴するところがあったのだろう、歴史家・司馬遷の原点とも言える魂の叫びだ、と記されている。

ふと別な書物の伯夷、叔斉の記述を思い出し、帰宅して、書棚から、吉川忠夫氏『六朝隋唐文史哲論集』(Ⅰ)を久しぶりに取り出し、最初の章「歴史のなかの伯夷叔斉」を眺めて過ごした。


東洋史学者で中国中世史が専門だった吉川氏は六朝隋唐期の学術史・宗教史に特に多くの成果を著し、半世紀以上の研究生活で数多くの論文を著しているが、未再録の論文を厳選したのが『六朝隋唐文史哲論集』(Ⅰ)(Ⅱ)だ。(Ⅰ)の副題に「人・家・学術」とある通り、六朝隋唐期の学術史を明らかにする二十二篇の論考が収録されている。
論集には(Ⅰ)と(Ⅱ)があり、(Ⅱ)の副題は「宗教の諸相」だ。ハードカヴァーの厚冊だがどちらも切り離して読む訳には行かない内容だ。
ずいぶん前に手に入れた時、半年ほどかけて頁を捲った。四六時中書物に向かった訳で無く、移動の合間や庭のテーブルや高原のプールサイド、或いは住まいの色々な部屋などで、散漫な時間の中で眺めた。
久しぶりに書物を開いたが、紙面の記述と共に、眺めていた時の断片が幾つも浮かんだ。
そのメロディーが情景を強く記憶に留めるように、紙面の文字もまた音楽同様にその時の光景を記憶に残しているから、音楽も書物も忘れていた記憶がいつでも優しく呼び起こされる。


wednesday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。淡いまま。