たゆまぬ練習を繰り返しているからこそ | かや

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昨日、早い時間に幾つかの居住場所のひとつを出て八ヶ岳に向かい、南麓高原湧水群のひとつ名水百選にもなっている湧水を目指して三時間ほどかけて巡るホーストレッキングで、森林や清らかな湧水のマイナスイオンに十分身を置いて、午後、都心に戻り、夕刻、ヘアサロンでシャンプーブローし、友人と銀座で合流し、夕食のひとときを和食の店で過ごし、帰宅。
帰宅後、逆立ちをしたり、別な部屋で白湯を飲んだり、庭におりて少し散策したり円い月を眺めたりして、ピアノの部屋で過ごした。


ピアノは弾くのは楽しいが、練習そのものはある程度の努力と忍耐を必要とされるものだ。
努力も忍耐も苦手だが、ことピアノに関してはそのようなものだと思って三歳から鍵盤に向かい、三人の先生に師事し、そのまま音楽の大学に進む直前、舵を大きく切り、四年ほどピアノから離れたが、再び鍵盤に向かうようになって、途切れること無く連綿と何十年と経過しているが、それでも少しブランクが開けば、頭でイメージするようには指は動かないし、練習は必須だ。
言うまでもないが、自転車に乗れるようになれば生涯乗り方を忘れること無く乗れるのとは、当たり前だがピアノは全く訳が違う。これはピアノに限らず楽曲全般に例外無く言えることだろう。
そして、全ての楽曲には必ず譜面が存在するが、譜面の中の様々な記号は作品を具体的に読み解く為の重要な鍵でもあり、作曲家のメッセージでもあり、残したメッセージがそこかしこにちりばめられているから、何度弾いても新しい発見があるし、譜面に忠実に弾きこなすことは容易では無いし、たとえ暗譜で弾けたとしても、作曲家の意図する表現に近付けているのかは永遠の課題でもある。
弾く曲は既に何十時間或いは百時間、二百時間と費やして完成させているが、ブランクの後再び完璧に弾こうとすれば、曲の難易度にもよるが、また何時間何十時間を要する。
昨夜はショパンのエチュード第一番をゆっくりと繰り返した。とても難しい曲で、だからこそエチュードなのだが、ショパンの練習曲集はひとつの作品としても各々が素晴らしい芸術作品で、これほど多くのピアノに向かう全ての者を惹いてやまない練習曲集は他に無いように思う。


何十年も前、演奏家横山幸雄氏がパリでミケランジェリの練習をドア一枚隔ててはいたが、奇跡的に彼の練習を聴くことが出来た時の話が印象的だ。
ホールなどでリハーサル中、裏から入って聴くことはあるが、横山氏はそのような演奏会前の楽曲の練習では無く、極めて日常的なな練習を短い時間だがドアに立つミケランジェリの付き添いの女性の横に立って聴ことが出来たと言っていた。
ミケランジェリといえば謎に包まれ情報が殆んど表には出ず、奇人などとも呼ばれ、完璧主義者ゆえに演奏会などもキャンセルが多く、人に練習を聴かれるなどもってのほかだっただろうから、横山氏がドア越しに僅かな時間であっても奇跡的なタイミングだっただろう。
ミケランジェリは練習というより一人で楽しむかのようにメロディーに合わせて歌いながら弾いていて、イタリアオペラのベルカントのようだったそうだ。
聴いたのはショパンの「スケルツォ第一番」「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」で、横山氏はその後パリや東京でモーツァルトやベートーヴェンやシューマン等々彼のソロリサイタルを生の演奏で聴いたが、パリでのドア越しに聴いたミケランジェリの肉声の伴奏付きの練習の衝撃はとても大きく未だに忘れられない体験だったと言う。
また横山氏はリヒテルの練習も聴いたことがあり、ショパンのエチュードを抜粋で弾いていて、最初は普通に弾いていて、うまく弾けないところがくると、少し前に戻ってテンポを落として音量を大きくして弾き直す、これを気に入るまで、どんどんテンポを落として音量を大きくしていき、繰り返すら、そして、単純な部分、たとえば「木枯し」の最初の四小節とかは省略してしまい、弾く。

どちらもあまりにも有名な大巨匠だが、どのような場においても片時も鍵盤から離れることが無いことの分かるエピソードだ。
片時も鍵盤から離れることが無いからこそ、そして、たゆまぬ練習を繰り返しているからこそ、漸くはじめて一つの曲がその鍵盤から奏でられていく。などと当たり前過ぎることを言ってみる。


thursday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。平坦なまま。