取り留めのない記憶 | かや

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望盧山瀑布

日照香爐生紫煙
遥看瀑布挂前川
飛流直下三千尺
疑是銀河落九天

盧山(ろざん)の瀑布(ばくふ)を望(のぞ)む

日(ひ)は香炉(こうろ)を照(て)らし 紫煙(しえん)を生(しょう)ず
遥(はる)かに看(み)る 瀑布(ばくふ)の前川(ぜんせん)に挂(か)くるを
飛流(ひりゅう) 直下(ちょっか) 三千尺(さんぜんじゃく)
疑(うたが)ふらくは是(こ)れ 銀河(ぎんが)の九天(きゅうてん)より落(お)つるかと

李白の七言絶句。山田勝美氏『中国名詩鑑賞辞典』によれば、「李太白(りたいはく)集」には同じ題でもう一首、五言の古詩があり、蘇東坡(蘇軾)も廬山に遊んで、これら二首をもって古今の絶唱であると激賞している。


意、廬山の香炉峰を朝の太陽が照らすと山気が紫色の煙となって見え(天然の大きな香炉に見立てられ)、大きな布を眼前の川に掛けたかのような滝が遥かに眺められる。その勢いの雄大なことは、飛ぶがごとき早い流れが、一気に三千尺の高さから落下し、まるで天の川が天空から落ちて来るのかとまがうばかりだ。

転・結の二句は実に李白らしい奇想天外な着想であって、古来有名だ。「香炉」と「紫煙」との縁語関係もおもしろいし、また「三千尺」と「九天」との数字の対照も見事だ、と解説にある。
かの有名な「秋浦歌」詩、〈白髪三千尺〉で始まる五絶は老いの嘆きであり人生の挽歌だが、この白髪三千尺は決して誇張では無く、その時の実感を忠実に表現している。その詩的表現の迫真性は必ずしも事実と一致するものでないことは自明だろう。
「三千」は果てしなく広がる時空を表現する歌ことばとして日本でも多く詠まれている。
仏教では全宇宙を「三千世界」と言い、この「三千」を永遠の意味の「三千年(みちとせ)」として平安時代から賀の歌に詠んできた。大和言葉ならば「千代に八千代に」だ。

久しぶりに和田秀信氏『新釈漢文大系詩人編〈李白〉』や松浦友久編訳『李白詩選』など李白の詩を色々に眺めた。どの詩も李白ならではと言える自由な発想と表現に溢れ、飄逸で脱俗的な趣がある。すぐれた長篇の古詩も多く、惹かれるが、古今の第一人者とよばれる絶句に李白の天才的な作風が集約されているように感じる。
頁を捲っていてふと目に入った「望盧山瀑布」だったが、二十八字に余すこと無い李白の自在な言葉運びと天の川に見立てた独特な空想で表現した滝が眼前に鮮やかに浮き上がった。


南アメリカ大陸北部のギアナ高地の「エンジェルフォール」は落差が1000メートルに近い。そのうち岩にぶつかること無く真っ直ぐに落下する長さはおよそ800メートルだ。1キロ近い長さを落ちる滝の姿は壮大そのものだ。もし李白が見たならどのように詩に描くのだろうかと昨日「望盧山瀑布」を眺めて思った。

仕事で海外を頻々と往復していた頃、様々な場所を訪れたが、セスナやボートを使って行くしかないエンジェルフォールは天候の関係で直前に取り止めた。天候自体は運行に何ら問題無かったが、セスナには乗ることは何度か有ったが、個人的には小さな機体のセスナがあまり好きでは無いことも有り、滝を眺める機会は逸した。
その頃、パリ・ニューヨーク間やロンドン・ニューヨーク間をエールフランスやブリティッシュエアウェイズのコンコルドで移動したが、飛行する乗り物として、セスナとコンコルドは別物だろうが、コンコルドは好きだった。いわゆる普通の旅客機のファーストクラスなどと比べたら狭い機内で決して居心地が良い訳では無いが、機体の美しさは空を飛ぶ乗り物の中では一線を画して際立っていると思う。レーシングドライヴァーの彼は速い車は美しいと言っていたが、空飛ぶ乗り物も同じだ。
パリやロンドンやニューヨークの空港内にコンコルド専用のラウンジとゲートが有り、空港敷地内でもその発着には最優先権が与えられて特別な存在だったように記憶している。その専用ラウンジで「本当に貴女という人は」と思いがけず遭遇したことに驚き呆れ、声をかけてきたのが乾隆年製の官窯品を見せてくれた友人男性だった。
すっかり忘れていたが今急に思い出した。
記憶は繙くように辿って甦るものでは無くて、意思とは関係無く思いも寄らない小さな一場面が勝手に浮き上がってくるものなのだなとつくづく思う。その勝手に浮き上がる取り留めのない記憶は、そしていつでも特別な思いも沸かず薄く鈍く消え去る。


saturday morning白湯を飲みつつ空を眺める。


本日も。稀薄なまま。