消滅の速さ | かや

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折楊柳

水邊楊柳綠煙絲
立馬煩君折一枝
唯有春風最相惜
慇懃更向手中吹


折楊柳(せつようりゅう)

水辺(すいへん)の楊柳(ようりゅう) 緑煙(りょくえん)の糸(いと)
馬(うま)を立(た)て 君(きみ)を煩(わずら)はして 一枝(いっし)を折(を)る
唯(た)だ 春風(しゅんぷう)の最(もっと)も相惜(あひお)しむ有(あ)り
慇懃(いんぎん)に 更(さら)に手中(しゅちゅう)に向(む)かって吹(ふ)く

楊巨源(ようきょげん)の七言絶句。山田勝美氏『中国名詩鑑賞辞典』によれば、楊巨源は中唐の詩人。蒲州(ほしゅう)の人。字は景山(けいざん)。貞元の進士。国子司業(文部次官)にまで進み、詩をもって後輩を指導し、その大成をはかった。


意。水辺の楊柳が青柳、糸をかけて緑に煙っている。しばらく馬をとどめて、家づとにするため、一枝を折りとって貰おうとすると、この楊柳を春風がいたく惜しむのであろうか。我が手のひらに向かって、そよそよと吹いてくる。

「折楊柳」は元来は送別に際し、楊柳の枝を折って輪にし、この輪のように、またもとへ戻ってくることを念じ、一路平安の意をこめることから、送別の曲名ともなったが、ここでは単に家苞(いえづと/家に持ち帰るみやげ)にするため、楊柳の枝を折るという意で送別の意は全く無い。
おおらかで優しい気持ちを歌っていると解説にある通り、駘蕩とした春の水辺の目映く柔らかな葉を繁らせた柳と折った一枝の柳が風にそよそよと吹かれるさまが鮮やかに浮かぶ詩だ。今まさに麗らかな若緑に包まれた季節の只中だが、昨日、友人宅の広い広い庭の池の畔に枝垂れた美しい柳を見て楊巨源の七言絶句を思い出した。


家苞(いえづと)は家に持ち帰るみやげのことだが、この苞(つと)は包むと語源は同じで、苞は藁などを束ねてその両側を縛り、中間部で物をくるむものを〈藁苞/わらづと〉、のちには贈り物や土産品の意味となる〈家苞〉に使われるようになった。

「海神(わたつみ)の手纏(たまき)の玉を伊敝都刀(いへづと)に妹(いも)に遣らむと」(『万葉集』巻十五・三六ニ七)

「いえづとに貝そ拾へる浜波はいやしくしくに高く寄すれど」(『万葉集』巻二十・四四一一)

また、方丈記には「かへるさには、をりにつけつつ、桜を狩り、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の実をひろひて、かつは仏にたてまつり、かつは家づとにす」などがある。

因みに〈包む〉は慎しむに通じて、隠す、秘める、憚るなどの意味合いを含み、儀礼的局面における様々な〈包み〉の技法の心理的背景となってきたとある。

何事も秘密にすることなく、洗いざらい打ち明けるさまを示す表現に〈包み隠さず〉という表現がある。包み隠さず申し上げます、と言う時点で、ほぼ全体が嘘にまみれ、真実が僅かしか無い、もしくはまるで無いのが分かるようなセリフだし、物だけで無く言葉も包むのは言語体系を著しく発達させた人間独特の表現にも感じる。


動作は必ず感情や思惑を伴っているし、感情や思惑から次の瞬間の行動が無意識に発生している、どちらが先なのかなどとどうでも良いことを考えつつ、たった一秒前でさえ頭に浮かんだ思惑は既に遥か彼方に消えている。

特に何を記そうとも思わずに最初に頭に浮かぶままから散漫に記しているが、ふと文頭に戻ると、楊柳柳から始まっていたことに驚く。七絶を引用したことを既に全く忘れていたからだが、その記憶の消滅の速さは今に始まったことではない。



wednesday morning白湯を飲みつつ、まだ明けない空を眺める。

本日も。緩やかなまま。