いっそう弾む | かや

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尋胡隠君

渡水又渡水
看花還看花
春風江上路
不覺到君家

胡隠君(こいんくん)を尋(たず)ねて

水(みづ)を渡(わた)り 又(また)水(みづ)を渡(わた)る
花(はな)を看(み)て 還(ま)た花(はな)を看(み)る
春風(しゅんぷう) 江上(こうじょう)の路(みち)
覚(おぼ)えず 君(きみ)が家(いへ)に到(いた)る

高啓(こうけい)の五言絶句。山田勝美氏『中国名詩選』によれば、高啓は1331年―1370年。字は季廸(きてき)、明代初期の詩人。元末の戦乱を避け、呉淞(すーすん/上海郊外)付近の青邱(せいきゅう)に閑居し、青邱子(せいきゅうし)と号した。洪武(こうぶ)の初め、召されて「元史(げんし)」の編修にも参与したが、その文章の一部が大祖の怒りに触れ、39歳の時、腰切りの刑に処せられた。詩は古人の長所を兼有し、小杜甫(しょうとほ)と称せられ、明代随一の詩宗。「高青邱(こうせいきゅう)全集」18巻、「鳧藻(ふそう)集」5巻に収められている。


意。いくつの川を越えたのだろう。次から次に花を眺め、川沿いの道で春風に吹かれ、君の家に行き着く。

作者が花に浮かれ、隠者の胡某を訪れた時の作で春光融々たる江南の風景をさながら眼前にみるような、悠揚迫らざる作者の心境と風景とが一枚になった天衣無縫の神品というべきだろうと解説されている。

江南の春景色を写し得て、起句承句の「渡水」「看花」の同音の反復はゆったりとした調子となり、春の陽光に包まれ、花を眺めてそぞろ歩く作者の姿がその景色と共に鮮やかに浮かぶ。
また、高啓を愛読していた夏目漱石の五言絶句詩「渡り尽くす東西の水、三たび過ぐ翠柳の橋、春風吹いて断たず、春恨幾条条」はこの高啓の五絶の影響だろうことは瞭然だろう。


若緑が瑞々しく美しい。
軸のように立ち上がった松の新芽は如何にも清秀な趣を湛えている。
柔らかで浅い緑に彩られたこの新芽を「若緑(わかみどり)」「松の芽」「松の蕊(しん)」「緑立つ」など、俳諧では季題に用いる。
まさに今、松が滲むような新芽に彩られている。
その清潔な新芽の色を若緑色とも呼ぶが、他の木々の葉が日毎に柔らかな葉を芽吹き、辺り一面、目映いばかりの若緑色だ。或いは萌葱色、柳色、草色、いづれにしても様々な緑色に溢れている。

時折通り抜ける公園は一日置いただけだが更にいっそう様々な木々が真新しく柔らかな若緑色に包まれていた。
桜はまだ散りきらない淡い色彩の花弁が十分に枝を包み、更に新しい葉が包むように芽吹いている。
荒天で剥がされ落ちた花弁は今は乾いた地面に溜まった雨水の流れのまま貼り付いている。
その貼り付いた花弁はさながら川の流れのように紋様を描いていた。
見上げれば若緑色の新芽とまだまだ豊かな花弁をのせた桜が見事だ。そして、足元は流れる川のような花弁に美しく地面は彩られている。

きらきらと優しい陽光が木立全体に射す中、朝の清潔な空気に包まれたを園内ゆっくり歩み進む。
公園の出口とも入口ともなる場所の若緑色の新芽と開いた花弁とを二色織り合わせた淡く美しい桜並木の下、待機した車に向かいつつ、地面に貼り付いた川の流れのような花弁と枝を飾る花弁を楽しんで爽やかとしか言い様の無い風に吹かれ、ふと高啓の五言絶句が浮かんだ。

既に園内を歩いている時から口を開いて完全に笑顔だったが、今日もまた素晴らしい一日の始まりになったと気持ちはいっそう弾む。

車の横に立つドライヴァーが笑顔で「おはようございます」と言うのと同時に「おはようございます」と言い、開かれたドアから車に乗り込んだ。


saturday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。平坦なまま。