変哲の無い時間 | かや

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かやです。



昨日、幾つかの居住場所の庭で早朝から過ごした。
ガーデンヒーターの暖かさに包まれていると、微塵の寒さも感じない。
タンクトップに短パンという訳にもいかないだろうがおそらくその姿でも寒さの体感は無いやも知れない。
屋内でのその姿にファーに縁取られてはいるもののごくごく薄いショールで軽く身を包み、素足のまま、足元はやはりファーをあしらいはしているが簡単なサンダルだった。
決して寒さに強い訳で無く、むしろその逆だが、軽装でもヒーターが冷たい空気を遮断してくれていた。
テーブルに置いた白湯を時折口に運び、椅子に凭れて、ただぼんやりと過ごす。
時間はいつでもその瞬間は無限に有る。
なんと豊かな瞬間だろうと思う。
何かを考えるでも無くただぼんやりと時間を遣り過ごすだけのひとときほど心地良いものは無い。


十分過ぎるくらい十分なひとときを朝の庭で過ごし、屋内に戻ってから、ゆったりとソファーの部屋で再び寛ぐ。
その部屋はただ三つのソファーが置いてある。
カッシーナグランコンフォールグランモデルソファーの三人掛け、二人掛け、1人掛けの三つで、それらは幅と奥行きが共に大きく、高さと座高は低くデザインされている。部屋の中央にその三つが低いテーブルをゆったりと囲むように設置しただけの部屋だ。
ソファーはいづれも壁からはかなり離れている。
壁にソファーの背が密着するような一見視覚的には安定した配置が何故だか好きでは無い。

ただがらんとした部屋にただソファーだけが有る。
ソファーに囲まれたテーブルには壺がひとつ置いてある。
胴が大きく張り出し高台つまり底に付けられた台に向かって、極端に細くすぼまった形は、中国北方の民窯、滋州窯の壺の特徴だ。
灰黒色の胎に白化粧を施し、鉄絵具で文様が描かれ、鶴や人物や花唐草のモチーフは現末明初の民窯の活気を彷彿させる。
本物ならば元、明時代つまり十四、五世紀の非常に貴重な文化財になり得るような骨董だが勿論時代の若いものだ。それを分かっていてかなりな高額な言い値で購入したのは逆にそのような壺を他で探すことは不可能だったし一瞬にして惹き付けられたからだ。


その三人掛け、二人掛け、一人掛けのひとつひとつにゆったり身を委ね、時折、その壺を抱くようにして胎の肌触りや形を楽しみながら、暫し、ぼんやりと過ごし、それから部屋を移り、身支度を整えて、家を出た。
いつもの道を車で通り抜け、いつもの見慣れた町を車は進み、距離と時間とはいつの間にか融合するかのように馴染み合い、一日は刻一刻と時を重ねる。
一日の大半は心地良い印象だけに包まれたままぼんやりと過ぎている。
午前中にプールやらジェットバスやらで散漫な時間を過ごし、移動し、ヘアサロンでシャンプーブローし、移動し、ごく簡単な打ち合わせのようなものを済ませ、それだけで夕刻になり、夕食に立ち寄る幾つかの店のひとつで和食のひとときを過ごした。
それら全体はただ心地良さだけが印象に残る。
その浮き立つような心地良さを手繰って行くと、ソファーで抱き抱えるように膝に置いて眺めた白釉に鉄絵を施した花鳥人物の描かれた壺の感触の至福や早朝庭で過ごしたひとときにたどり着く。
一日の弛く穏やかな心地良さは庭でのひとときから始まっている。そのひとときは更に前日から引き続いているし、その前日は更にその前からずっと続いている。
変哲の無い時間が続いたまま、ただ過ぎている。


wednesday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。うっすら。