いやはや | かや

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「大道通長安」〈大道(だいどう)長安に通(つう)ず。〉という禅語がある。
唐代の趙州従諗禅師(ちょうしゅうじゅうしんぜんじ)がある修行僧から「悟りの境地を得るにはどのような修行をすれば良いのでしょうか」と尋ねられてそれに答えた言葉だ。
長安は唐王朝時代の首都だ。どの道も長安には通じていることからいづれは長安に辿り着く。どの道を行こうとも、そこで精一杯全力を尽くしていれば、やがてはその道こそが「大道」となる。どのような方法であっても、ただひたすらコツコツと真剣にやっていれば、路地のような細い道もくねくねと曲がった道も太くなって行く。

枡野俊明氏はこの「大道通長安」を著書『平常心の心得』の中で、未来に続く道(長安)はまだ見えていないし確約されてもいない、だからこそ歩みをとめずに、今居る自分の居場所で、時に迷い、時に模索し、凹むならば立て直す、それこそが長安への大道だと言い、人生には岐路が幾つも有る、迷いや焦りを抱くことによって、違う道を考えることもあるだろうが、それでも、まずは、自分が今居る立ち位置で踏ん張り、やるだけのことはやるのだ。成功に繋がっている大道が有るわけでは無い、今居る道を踏みしめて、自分がそれを大道にするのだと記している。


体力も気力も温存しきって、力半分どころか力一分すら出していないようなユルい生活をしているので、踏みしめるだとか踏ん張るだとか、はたまた精一杯全力を尽くすなど、そのような濁音の単語に代表される意識はもともと皆無だ。
濁音の単語は努力だとか全力だとか頑張るだとか根性だとかロクなものが無い。ついでに生涯現役も。
それはさておき、「大道通長安」は私なりの都合の良い解釈で捉えれば、なるようにしかならないとでも言おうか。決して悪い意味では無い。
なるようになる。良くも悪くも着地する。それはもともとそのような道を進んでいるからで、道には着地点が予め用意されているように感じる。
妙に抗えば、道を踏み外すことになる。ただ、流れに身を置くようにして、なるべく、抵抗しない。逆行するとか、流れから無理に逸しようと余計な道筋を作るとか、そのような不要な力は一切使わないことが、結果、そうそう悪い方向に向かうことにはならないように感じる。
少しの無理でも、無理は無理で、道理から外れる。
道理と言っても万人の道理では無い。個人の道理だ。
物事の正しい筋道は各々個人によって異なるのだから、変な精神論的な書物やらに惑わされて、現実から無理な脱却を試みたところで、それが正解とは限らない。むしろ、他人の道理に自らの道理を捩じ込むのだから、その時点で、うまく行く訳が無いのは言うまでも無いだろう。


ところで、悟りの境地への心得を「大道通長安」と修行僧に答えた趙州従諗禅師は中国禅僧の中で最高峰の高僧とされ、五代十国時代の混乱した北方において禅を説いた禅者として、臨済義玄と並び称され、平易な口語で法を説いたことで有名だ。
幼くして出家し、十六歳で南泉普願に師事し、師の「平常心是道」に関する言葉により十八歳で大悟し、その法嗣となり、嵩山の玻璃壇で受戒する。
諸方行脚にも出たが師の存命中は南泉山を本拠に、南泉の随身を続け、五十七歳の時に南泉の遷化にあい、三年喪に服す。
六十歳で再行脚に出て、諸方の禅匠と問答商量し、境涯を練り、黄檗希運や塩官斉安ら禅匠の下で更に修禅する。
八十歳で、趙州の観音院に住するようになり、その後四十年、「口唇皮禅」と呼ばれる禅風で説教教化した。
当時、棒や喝を使った荒々しい指導が主流になりつつある時に、あらゆる質問に対して、禅味を帯びた日常の言葉で答えたところから、「口唇皮上(くしんぴじょう)に光を放つ」と呼ばれ、百二十歳で没した。

人生五十年と十代の頃からずっと思っていて、いつしかウッカリ齢六十をゆうに超えてしまい、そのことに持て余し呆れている私からすると、趙州従諗禅師の六十歳からの二十年は驚異だが、更に説教教化の八十歳からの四十年はいやはや。
いやはや、何と言えば良いのだろうか。
そんなに長く生きていて飽きなかったのだろうかというのが偽らざる感想だ。一瞬でも飽きる瞬間は無かったのだろうか、否、それは愚問だろうということにして、移動の間、開いていた沖本克己氏の『趙州』を閉じ、車窓に視線を向けた。
如何にも冷たそうな澄んだ空気を纏った街がひときわキラキラと輝いている。移動の車はそろそろ次の目的の場所に近付いていた。


wednesday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。淡い。