カーナビにはHDDがついていて、バカスカと曲をぶっ込んではいるんですが、カーナビ自体が古いものでデータ入力、mp3には対応しておらず。
名前が先行しがちなHDDカーナビに音源をぶっ込むためには、必然的にCDに焼くことが必要になるので、毎度1枚に対して「選曲」する作業が必要になってくる訳です。

大概、アーティスト括りだったりとか、ジャンル括りとかで一定期を挟んで渾身の1枚を作ってみたりするわけなんだけど、そういった1枚1枚の積み重ねが、時系列的にアーティストやアルバム履歴として上積み搭載されていくと、そのアルバムはこんな時に作っただとか、妙な思い入れが同時に読み込まれてたりさ。しちゃうんです。

このアーティストはたしか金沢にLIVEに来るとかで。。。。このアルバムはオトナの休日とかで大熱唱用に取り込んだもので。。。
それぞれがそれぞれ、馳せる程の思い出の距離では無いんだけれど、音楽に準えた時間軸がまこと存在してることを、よくクルマに乗りながら感じたりしてまして、クルマを運転する日々を振り返りながら、信号待ちの度に浸っているような気もします。
注:1人の時限定


とかくテーマソングでもなんでもない曲が、実は個人的にひどく思い入れがあったりする曲になってたりさ。音先行、耳先行で思い出を蘇らせるって、あらためて考えると音楽ってスゴい可能性をもってるなと思うんですよ。

就活が上手くいかなかった時にやたらイヤホンから流れてた「Any」とかは、実際に自分は未だに嫌いな曲だったりもしてw、こう思い出したくないことも、きれいな思い出も、写真と同じように音楽は各々にいろんな情景を焼き付けてる。
やだね、音楽はホント不思議です。

節目節目に新しい思い出の曲が出来ていく中で、あまり切ない曲ばかりを増やさずに、好きな曲をどんどん増やせていけるとしあわせなんだろうねー。



つづく
ココロって、人の所作に表れるものだと思うんです。

言葉端だったり、行動だったり、リアクションだったり、気遣いだったり。ただただ、深けりゃいいってモンじゃない。
浅くても、広くても、それはひとつのココロの質なんだから。相手を溺れさせてもいけないし、相手に風邪をひかせてもいけないな。そんなココロの深浅を重ねあって、人の本当の対話は成立してるものなんだなと、改めて感じました。

一つの事象に対して、深くとる人もいれば、奇想天外な見解を持つ人、気にも留めない人もいる。
そうあるべきだとも思ってます。
それ故の相性が存在して、それ故の個性がある。その隣接が新しい形状を生んで、キレイな円を描くことがあるから、それこそ小石を投げあう様な所作を観察しあうことって、人に囲まれる上ではとても大切なんだなと思うんです。

これって、求めて得られるものではないんですよね。ホント投げかけてみないことには到底わかんない。
だけど、投げかけるコトバの欠片や小さな思い、わずかな所作、その真意は、誰しもに映るものではないけれど届く人には着実に届いてる。
そういうココロの深浅が丁度いい具合の人っていうのは、嬉しいことに気付いた時には自ずと周りに立ってくれている、そういうものなんだと思います。

基本的に上っ面っていうのは好きではないんで、つながるからには太く長く繋がっていたいと日々常々思ってます。でも、それこそも相手をどう所作で導き、導かれるかの、そんな偶然性によるところが強いものなんでしょうね。

意識的とまではいわないけど、自然体のいろんな所作をこぼしながら歩き回ると、たまにイイことに出会えるから。
そのイイことをどれだけ気付き、築きあえるかが、求むべき関係を結ぶひとつの方法なんじゃないのかなぁ。。。と信じてみます☆
既成事実化されちゃうんですよね、どうしても。

言語とはあくまで伝達手段の一つであって、学識に基づいた見解を共有するために生み出された、その場その場に必要な、国や地方によって独立した意味合いを含ませたもの。
飛び回る地で同じ言語を使ったとしても、およそダイレクトに100%同じ意味だということは言い切れない、結構センシティブな代物。方言みれば一目瞭然なんですが。

その前提を理解せずに短絡的な落とし込みをかけてしまうと、それが曖昧な、各々、人本意の意味合いに捉えられてしまって、あらぬ相違や幸運を紐つけてしまう。
言うなれば「勘違い」の発端なんですよね。

コピーやコミュニケーションを考える手前、そこいらにはとても気を使う視点があったりもするのだけど、こういった職種ばかりではない、占い師や医者等は特にそうかもしれないけれど、大変だなって思うのが、言葉で紡ぐ事実、その言葉一つ選び間違うだけで人の随分と深いところを揺さぶってしまうところ。
カウンセリングもそうなんだろうな、進言するそれが金銭にはかえられないものを扱うというのは相当なリスクとも思えます。

とりたい様にとろうよ、ケセラセラでいこうよ、なんてのは本当に伝えるべきことからの逃げなのかもしれないな。
解決すべき事象を目の前にはあまりにあからさまな話だけど、遠くを見据えた中でもやっぱり逃げることなくさ、ダイレクトなコミュニケーションの上にいるほうがスッキリする様にも思います。

それを解決すべき事象と問題視するかしないかが、人の懐の推し量りなんてこともあるんですけどねぇ。
言い始めればきりがないので割愛しますが、「まぁるく納めること」その目的だけで、手法が曖昧であれダイレクトであれ、人は大分笑顔になれる様な気がします。

笑顔のための尽力、改善を惜しまないことと、結果、笑いあえることが何より大事。
笑えてないってのは、笑えていない側の何かが通ってない証拠なんだよ。

さぁ、月曜日!・・・笑えないなー。。。=.=;
ふと、「海の上のピアニスト」を思い出した。

トルナトーレが監督する中では比較的後発の作品だけれども、映画を映画として、音楽を音楽として愛した作品のひとつ。


原題「The Legend of 1900」は、一度として地上に降りることなく生涯を終えた船上のピアニスト"1900"のお話。タラップを降りずに船へ引き返した後の1900が残す台詞

「鍵盤は端から始まり、端で終わる。鍵盤の数は88と決まっている。無限ではない。弾く人間が無限なのだ。」

同作のティム・ロスの演技があまりに良すぎたこともあるのだけれど、無限に対する憂い、無限であることを、可能性としてでなく恐怖として捉えた彼の視点が紡ぎだす一節

「……陸地? 僕には大き過ぎる船だ。」


なんだか、ここにきてこの一節がすごく染みる様になってきました。

世に拾う可能性が重いだとか、そういった意味ではなくて、なんだろうな。
世の中の飽和する可能性を咀嚼しないままに生かされている、その立つにも不安定な回転から抜け出せずにあがいている本心が常日頃にあって、素直に上を向けずにいるような感覚に陥ってて。
限りある、レール上でもいいから噛み締める様な人生を、とある瞬間からなにか立ち直れずにしばらく送っている様な気がしてます。

目の前にある、その手にあったものさえも、理由なく失った経験からなんだかんだ言いながら身動きが取れずにいて、必要とするな枠組みもいつのまにか壊れたまま。
しばらくいろんなものに距離をおいたからな。。。こうやってこの映画を思い出すのも何かのシグナルなのかもしれない。

同時に、この作品の代表曲は音楽として「一音」の大切さをとてもよく表してる、短いけれど無限の情景を描いてくれる不思議な曲。

一音を大切に。自分を崩すことのない、無理ない人生を紡がなくちゃね。
ちょっと練習してみよっかな。




海の上のピアニスト [DVD]/ティム・ロス,ブルート・テイラー・ロビンス

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気難しそうだとか、一筋縄ではいかなそうとか、よく言われます。

そんなこっちゃないんですけどね。
基本的には難しく考えてるつもりもないし、文章が小難しい以上は頭が悪い証拠だとも実際に思っていて、このブログでも結局伝わらないことを書き出してみては、自分でももっとカンタンにならないものかな~なんて考えちゃってるのが実情です。


よく考えることは考えてるつもりなんですけどね。本当は考えるべきことは考えていない様な気もしてます。
それでも、一考することをなくしてしまったところで、軽薄だったり雑になったりする感情や行動は、対する人にとっては不躾な対応だとも思うので、自分のためというよりは他がためを思って考える様にしてます。

ここまで書いていると、器用でないんだろうな、自分は。。。と思う訳です。
ぶっつけ本番には結果的に強い方だったりしているけれど、嫌いなので、不安要素を刈り取る様になにかと準備をしておかないとやっぱり不安がるんですよね。
いろんな想定を携えていないと、渡っていけない様な道ばかりを、選ばなくていいものばかりを選んできているものだから、人間らしい何か可愛らしさとでもいうのかな、そんなところが少し削られた様に映るのも致し方ないんでしょうね。

それ故に、本来なら他人にはこうきてほしいと思っている人間的な感情とは距離をおかれてしまっていてさ。それもこれも自らがまく種を止められずにいるだけのことなんだけど、ハードルを設けながらね、不安と期待の折衷はムシがいい話だよ、まったく。

って書いてる傍から小難しいことを。。。(=.=
ま、何が言いたいかっていうと、細かな感情を説明したがる以外は、そこまで難しいことを世の中に求めたりしていませんよ、ってこと。

シンプルに、シンプルに。
来月の目標は「シンプル」一本でいきます。

・・・はっ!そういえば、今月はちゃらんぽらんの月だったはずなのに。。。忙殺されて無理でした~(==