天井が見えちゃうと、やっぱ魅力って半減するもんなんですよね。

結果を描くそれとは別で、それ以上のものやコトを現時点で描くことが出来るのに、下手に限界や諦めを描いたり口走ったりするもんだから、勝手に天井を設けた上で、その型にはまる様に自分を合わせちゃう。必然的に己に還ってくるものなんです。

手が届く様な、低い天井の部屋で「ジャンプ!」と言われたとして、誰が好き好んで頭を打ち付けるか。誰も頭なんてぶつけたくないもの、そんな部屋の中で思い切りジャンプは出来なくて当然で、そんな仕組みが人間には備わってる。

本来は板であるはずのその天井を青く塗りたくってさ。空模様に変えてみたところで、もしかしたらそれを突き破る様なジャンプを見せてくれるかもしれない。。。なんてけったいな解釈を提言する前に、外でましょうよと僕は言いたい。

外って主観だけじゃない可能性がゴロゴロ転がってる。
対象に置き換えて、誇張して、取り替えてみて、反復して。自己を生成するための自由な情報がそこかしこに転がってる中で、知らない間に設けていた天井があることに気付く時がある。
その瞬間に立ち会えてはじめて、出来上がる姿勢、取り組みがあって、自然と行動にうつってるもんだと僕は思ってます。故に逆算も、ね。

環境も、カラダも、ココロも、チャンスも全部。受け皿をどれだけ大きく準備するかで、拾えるものは変わるから。
下手に可能性の芽を自らに摘むことなく、地球を背中に雲がなぜ雲なのか、空がなぜ青いのかを考えて、手を伸ばしてみることも必要だと思います。
悲しい時って何してたかな~と振り返ると、意外に覚えてないもんですね。
何をして振り払おうとは覚えてはいるけれど、その対象となった心の深いところのえぐられるような痛みがどれほどのものだったかは覚えてない。
ま、それを誤摩化すために、その当時はそれはもう必死こいたんだと思うんですけどね。今には引きずらない様に、むしろ無理したことの分だけ、必死だったことは覚えてる、そんな感じです。

真っ正面から悲しみと向き合うような度量は、意外や(?)持ち合わせていないので、何かにつけ涙以外の方法に置き換えたりするきらいがあって。
泣くことが悲しみの最上限の表現かと言えば自分の場合はそうではないし、寝られない様な苦しみも、振り払うことの連続で辟易するくらいの一日も、泣くようなことで処理したことは今まで無いです。

それだけに感情が希薄とはよく言われるんですけどね。
薄情だとかそーゆーつもりでもないけれど、外的要因から理解を得るための涙より、より着実なコトバを選んでしまうところはどこかあるような気もするかな。
結果として、未だ本能が理性を超えないようなつまんない奴なんだなw。

負の感情は内面オンリーで咀嚼して、次のケセラセラにつなげることに終始してる。
その度に鏡だらけのその部屋を閉じて、新しい部屋を、新しい風を取り込むことと同時進行でこしらえてる。
これでいいとかどうとかは分からないけどさ。風にさらされながら、出来るだけ心の立ち回りを要さない場所を欲する自分と、矛盾かな悲しみに隣接する「こころの深み」を求める自分とで、よく諭しあったりするのを積み重ねてると、さらされながらも二極のそれを求め続ける人間の本能っておそろしーなーと感じる訳です。

ビビりながらね。経験に諭されながら、恐いもの見たさにぶらぶらしてる。
齢32にもなってやってることの幼稚さったら無いけれど、これも失くしちゃえば、反面として楽しくなる可能性も閉ざしてしまうこともね。ずっと離せずにいるようです。

相手が「人間」だと言う覚悟と、諦めと。
表情や、差し伸べられる手がいろんなことを繋いでくれているのに、この心情の蓄積はなんだか非常に申し訳ないね。
理解ある周りの人にはあたしゃ恵まれてますよ、ホントにさ。
その課題を右手の甲に記すくらいの、そんな気持ちで生活しているとね。生活の中、いろんなアイデアが転がってます。
そーゆーのを拾い集めるのが仕事なもので、さっきもひとつトイレで拾っちゃいました。明日は、それを形にして、という作業をコツコツと。

そのコツコツの作業も大切なんですけどね。生活に身を置くって言うことの方が、「人に伝える」という目的を形成するためにはもっと大切なこと、なんです。
ごく普通の生活を通じて、「普通」を逸脱しないことが、マスに対して響くものを作るときのポイント。ただただ奇抜であったり、目立つだけでは人には寄り添えないことを理解してないと、コミュニケーションを生成するなんて、ほぼ不可能に近い、もんなんです。

珍しく仕事のスイッチが切れない(?)ので、blogも仕事っぽくなっちゃってますが、生活が好きでこの仕事やってんだなーと今日は実感。
ステキなことばかりではないけれど、水面に小石を放り込む様な、そんなモノ作りをモットーに頑張ってます。

さて、もうちょっと生活します、今晩は★
寒かったり暑かったりする季節の変わり目に、体調等崩さぬ様どなたもご自愛くださいませませ。
いろんな衝動に駆られてさ。人は動き、動かされてる。

どうしても「こうあるものだ」と思い込んでしまっていては取りこぼしてしまう自分の本意。
世のそれ、時間軸のそれに準えては塞いでしまう、本来の思い、衝動。

社会的節度の上ではそれでいいんだと思います。
人間が持つ本来の生物的衝動を抑えるために、秩序、ルールはある。
だから保たれている権利はあるし、その代わりとしての自由選択は存在してる。

でも、人間、そんなルールの中にも本意を少しずつ少しずつ表す様に出来てるんですよね。知らない間に自分が変わっていることに気付くことが正にその証。


他人の声を理解し、咀嚼することは出来ても、人間が唯一"聞こえていない"のは自分の「声」なんですよね。
病気もウソも、恋もそうかもしれない。ふとした瞬間におかれている自分の表情や行動が、本来は声として発すべきものを表している。不器用でいて、人間らしいたどただしさが、人の個性を紡いでいる様にも感じます。

自分のそれを理解しようね、なんて己が出来もしないことを言ったりしません。
しないけれど、気付くことが出来て、その先に展望が描けるなら、それを元に行動出来るといいんだろうなぁと、ふと思った今日。
ハンドルを握ってる自分の中に、なにかが動いているのが少しだけ分かったような気がします。

これで本能のままつき動いていれば若さの現れなんでしょうけどねぇ。
そうとはいかないのも、この歳になっていいのか悪いのか、好きと言えている自分です。

逸脱することは無いけれど、自分の声には正直に。
素直の叩き売りセールをはじめてみたいと思います。
たとえば、アリにとってみれば人間は宇宙なんだろうな。

ものすごい巨大な足が自分を踏み込んでくる毎日を体感しながら生き抜いていることを空をみながら考えるとさ。今生きるこの地球が、別の対象からしてみれば実はホコリの様な矮小なものであったとする。その場合に、明日のサッカーの試合だとか、学校とか、職場の軋轢とか遺産相続、領有権争いとか、スーパーコンピュータの計算速度とか、あの子のパンツの柄だとか、ホントどーでもよくなるんだろうなー。

なんてのを現実逃避と申す訳ですが、でも100%無いことでもないでしょ。宇宙も解明されていないほど強大なものなんだしね。
宇宙自体が膨張を続ける物質だとして、無限ループ的に、今、自分がかかっちゃってる風邪の菌を構成するイチ細胞であるなんて可能性も、無い訳ではないのだ。


なーんていう視点を持とうなんて言うつもりはないんですが、こんなことって誰しもが一度は考えてたりするもんなんですかね?
それが宇宙規模の考え方だなんて、ちゃんちゃらおかしくて口が裂けても言えないけれど、なんかそういう所を描く人間のクセみたいのが存在するそのことに不思議な魅力を感じてもいます。

人間、人間。さ、くだらないこと考えてないで、仕事しますw。