何度諭しても直らないのは、直す気がないと思った方が手っ取り早い。
まず、諭すことが仕事ではないし、
その時間分、己がやるべきこと、知るべきことはまだまだたくさんあるんだから。

小さなこと。
その積み重ねが呼び込むものがどれほど大きいかは、
意識して積み重ねて来れた人間だけが知れるもの。

変化を求めずに、ただそこにいたいだけなら、
喚くだけでもおこがましい。


変化を求めるなら、その根幹を成す努力をする。
何より、そんな自らを変えられない人間が、
何をや変えられる道理が成り立つはずがないってやつです。

他人の理由を挙げる前に、まず自分の理由を整頓すること。
これは、論理を形成するための最低限の準備。

そこに言い切れないものをもつ限りは、
その努力ってのは、扱うにはあまりに薄っぺらいとしか言えないんだよね。
あの感覚ばかりはよくわからない。
もう、理解がいかないといったところです。

便所が怖いとか、一人がヤダとか他人からすりゃ知ったこっちゃないです。
人のそんな生理現象をあわせたり、あわさせたりするのって、
不自然極まりないんですよね、傍から見りゃさ。

あうものは仕方ないですよ、そりゃさ。
でも、あわない中にあわせる必要性って、
多分生理現象のそれ以外の理由からきてるのが大半じゃない?

むしろ、その他の理由をのうのうと宣ってくれた方が、
なんだかスッキリするというか、シンプルじゃないのさ。
どーしょーもない「嫌らしさ」を、生理現象にあてつけているだけのそれよか、
大分好意的に捉えられると思うんですよねー。

明言するそれがまかりとおるものであれば、大抵世の中は受け入れてくれる。
発言するにもなかなか言い難いことであるなら、
それは独善的であることを認めることが必要なんでないかと思うんです。

語らないことが多くある日本語文化においても、
これはちょいと趣が違うんじゃないですかねぇ?
これは結構ショッピングモールなんかを歩いている時に自分は思うんですけど、
人って忘れることがあるから、生きてるところもあるなぁと思うんです。

思い出に引きずられることで生きにくくあるはずだなぁと、
おセンチ(死語)にも感じるところがあるんですね。

似たようなあの時のアクセサリーや香水、服や、後姿、喧噪の絶妙さ具合が、
忘れたはずの記憶を紐つかせると言うか、言葉や倫理上で忘れているものが次々に思い浮かぶのが、僕の場合はショッピングモール。

インターネットでのお買い物ではこうもいかないなぁとも思ってみたりね。


ただ、いつもこうあっても困るんですよね。
普段の生活が、思い出だらけなんて、考えるだけで恐ろしい。

常に現在を生きていると言うのは、
ホント忘れられる人間の性質があるからこそとも思えた今日です。
ま、理屈ばっかりでもね。つまんないんですよ、人生ってさ。