反発し合う人がいるように、引き合う人も同様にいる。
多分、お互いに思うんですよね。「こいつだ」って。

キャッチボールが出来る相手と同じようなもんで、
そういったお互いの理解の通わせ方とでもいうんでしょうかね?
向き合っちゃえばトントントンといってしまうような人。
そんな人に久々に出会いました。

その直前までがなんだかありとあらゆることに振り回されてばかりだったもので、
このシックリ感は救いだったなぁ。。。

今までに無いわけではないですが、いろいろと突っ込んだ話をしてみれば、
理解を共有する先に、政治的な関係以上のつながりをもつことも出来るんです。

それを知らないもんだから、政治レベルで終わるオッサンどもの仕事は本当にやりづらい。
理解出来ないことをひた隠したり、分かったフリで誤摩化してちゃいかんよ。
クリエイティブに必ず必要なものは、技術でもセンスでもない。
どれだけ「普通」でいられるかということ。

普通の視点をもてない人間が、人の共感を生む視野をもてるはずが無く、
普通の言葉を使えない人間が、人の納得を生める訳が無い。

色も、動きも、配置も、音も。
すべてが「普通」に受け入れられるという要素を肝において、
世に出るクリエイティブというのは、その上ではじめて挑戦を重ねている。

普通のことも携えないそれを、どれだけ上塗りしたところで、
メッキが剥がれればそれでおしまい。
薄っぺらさだけはどう上塗りしようにも隠せるものではないんだよね。


人間、偏る趣向を磨き上げてしまうと、どうしても世の中を捉える土台が不安定になってしまうのだけれども、かたやそこを上手くバランスをとる人間がこれまた実在していることも、今まで付き合ってきたクリエイターの方々の存在が証明している事実。
けして希有なことじゃない。

簡単、されど最重要項目のそれを片手間に、
奇をてらい、人と違うそれだけのことに満足感を覚える高校生レベルの考えで、
モノを手に取るのは、最早基礎どころの話でないんです。

コースが無いのにF1車は必要がない。

感性に答えを委ねる以上、人には間違いなく見透かされることは
覚えておかなくちゃいけないんですよね。
選択肢が多くなると、その分、集中が分散化する。

既存のものを開拓し、技術革新から「選択肢を増やす」という自由を
ここ数年与え続けられている節があるのだけれど、
なんだか、その選択肢はこのところ多すぎですよね。

身が一つにして、二つの誘いに応える術は未だ開発されていないとして、
その選択肢両雄に優劣がつけられない場合には、
そもそもの選択すらなくなってしまうかもしれない。
でも、そんな時代。


集中の単価がそれぞれ小さくなってしまったことで、
様々なコンテンツ産業が今までのようには利益回収を見込めなくなったわけだけど、
それでも人は何かしらを選び続けている。

その選択に適う為にはいいものを作ってそれだけというのではなくて、
「人に選ばれること」を何よりも意識していかないと、
この世の中は残っていけないんじゃないですかね?

完全実力主義とは程遠い、本当にいいものが残りやすくも残りづらい構図が
出来上がっている節を感じているのだけれど、多くの利益を生むというのは、
人がどこに集まるかをどれだけ的確に描けるかにかかっている。
そのためのコンテンツ作りに注力せよということなんですかね。
これだけ多くのも文字に触れる世の中です。
ですからわからなくもないのですけどさ。

大手のサイトでも、結構多くの誤変換がそのままUPされていたりします。
SONYも、YAHOOも、Twitter homeこそは「あたなの名前を~」なんて、ひどいもんです。


昔の杵柄、校正のクセがついていてなんてことは言わないけれど、
それでも公開する前に気を払えないもんかしら?とは思うんです。

こちら田舎にしてみれば、新聞にしてもチラシにしても文字間違いだらけですけれど、
「変換ミス」が理解され始めたのも、ごく最近の話じゃないですか。
結果の誤植ひとつが、なにか身に置きかえらえることで軽んじられはじめているような気もするんですよね。

自分への言い訳というよりは、乗じて受け手側を軽んじるなということ。
人のフリみてじゃないですが、これは忘れないようにしたいです。
屋根裏でチュンチュン言い始めたような。。。