上流家庭でなくて、上流過程の話。

昨今の工場見学ブームも類に漏れないものなんですが、
ここ数年、その上手の過程のプロモーションを立ち行かせる事が出来ないかと考えてました。

無論、そこいらの先駆者はもちろん”ほぼ日”にあたるんだと思います。
Tシャツや手帳、タオル、土鍋にしても、”そのものがどういうプロセスをたどって出来上がるか”を
web上、懇切丁寧にコンテンツとして書き上げ、最終的に紡ぎだされる商品コンテンツへの着地を
しっかりと済ませてる。
プロモーション過程は上流にある事を間違いなく体現しているし、
下流の結果を、上流との因果関係を元にどうあれ納得させる手法を築く。
元来の人間の興味の指針を確実に把握していなきゃ、
なかなかその初動は踏み出せなかったんじゃないですかね。

その結果=商品の刈り取りまでを紐つけられればそれは素晴らしいビジネスモデルに
なるのだろうけれど、、、そこがwebであるべきなのかをずっと考えています。

メディアに拠るものでなく、人のそれに入り込む事。
上流の告知をもっと細かく、興味をそそるカタチで伝えるメディアを立ち上げる事が出来ないか。
それはもちろん「人に伝える」というひとつの目的でしか無いけれど、
それが紐つけるものって、現代社会にはとても大きなものがあるような気がしてるんですよね。

画なのか、文なのか、空気なのか。
誇張でなく、本当のそれを理解してもらう、たったそれだけのプロセスを構築出来ることで、
根本を覆すようなサービスが生まれそうな気がしてます。

まず、触れてもらう事。その機会を付与するサービス。
これなんだよ。これなんだ。
某後援会の講演会に行ってきました。

招聘した元官僚を目の前に、講演内容とは別に
やれ民主党政権だ、やれ菅おろしだのあったところを端っこの方で聞いてはいたんですが、
原発問題に触れて、聴衆よりこんな質問が投げかけられてました。

「原発がダメだという世の中の論調には理解が出来ない。
おこってしまった事ではあるけれど、原発が悪いんでなく、
津波により冷却装置が止まった事が問題であって、
女川が大丈夫で福島がいけなかった理由を考えてほしい。
それについてどう思いますか?」

それに対しては「マスコミが書き立てるだろうし、民意としても
ここ3年は厳しい論調が飛び交うと思う。」などと、
むしろ楽観的な見解が飛び交う事にある種の呆れも生じ、
こんな感覚でいるから日本ってダメなんだろうなと妙に納得してしまった。


福島原発の事故が自然災害によるもの、人災によるもの、
それこそ設備不良なんて話は本当にどうでもよくて、
ここからの向こう何百年に渡って住めなくなる土地をこの狭い領土の日本に生んでしまう、
その危険性だけで、既に理由は埋まってるんです。

飛行機事故や自動車事故のような「一過性」の類じゃない。
この施設が構築される事、使用され続ける事で、
己の生きるうちには解決しようのない代償を抱え得る可能性がある、
それだけでNoという理由にはこと足りていませんか?ということ。


代替案を構築する技術力が今この国にないとすれば、
この経験の下、それはプライドをかなぐり捨ててでも取り入れなければいけない技術だし、
少なくとも、原発事故による代償、事故継続期間に比べれば、
ずっと短い期間で構築出来るはず。出来なきゃいけないこと。

この国は、いろいろな反省を元に、ここまで成り立っている国だと思うんですよね。
反省を前に、予測出来るものであれば一番よいのだけれど、
この国、人が評価されるところってそういったところだと思ってるんです。
この変化を咀嚼し、リーディング出来る人こそが、次の世代のリーダーなんだろうなと思いつつ、
一刻も早い、復興に向けた一歩の実現を願ってやみません。
こう、ぶち込む場所とでもいうんですかね。
こういったネットだとかマナーの部分で問われる事も多い世の中、
それ以上に、ツールが多くなりすぎるあまりに、
逆に閉塞感を生んでしまうこの世の中。

それでも、書き溜める意味でなく、
放出する場所っていうのは必要なんだと思います。
ぶち込む場所。

社会っていうのはいろんなしがらみがあって、
いろんな関係性があって、その中をかいくぐる様に進まなくちゃいけないことは
山ほどあります。
社会のそれは、学生のときとは全く違って、
もの一つ、事象一つ進める事に、あらゆる人の確認や承認が必要だったりさ。
そういうことだらけなんです。

それでも、多対1だからという理由で、根拠の無い道理に迎合する必要なんて、
1ミリたりともない。
「でもみんなが言ってるから。」「上がそう言うから。」
そんなことが「理由」になった時代、身に置き換えられるような世代がどこかにあったとしたら、
まず、自らに悔い改めるべき何かがあると思った方がいい。
そこに”理由”が無いんだから。

理由も携えず、客観にも立てない視点で語れるものは空っぽのものでしかない。
素人だましが関の山、人が多く関わる社会において、
理由のないことを納得させることが、どれだけ奇跡的な事なのかを知れば、
「理由作り」こそがあらゆる仕事の根幹を成す事が当然の様に分かるはず。
当然というのは、そういうこと。「皆が言うから」ではけしてないんです。

理由を作り、理由を詰め、理由を提案する。
それが基礎に備わらない土壌には、まず柱一つ建てる事が出来ない。

キレイゴトでなく、物理的常識なんです。
時間を埋めることが苦手なんですわ、えぇ。

って書いても、なんか上手く伝わってる気がしないのでもっかい書くんですが、
その時その瞬間に分かっていた結果が、案の定ですよ、
そう、案の定日の目を見た時に、「やっぱりね」以上に突っ込んだ内容のことを思わないんです。

分からないかなー。
突然思考が止まってしまうというか、結果をみるとやっぱりの反動で安心してしまうというか。
「ほら、やっぱり」に続く言葉。「あの時にそう判断しておけばこれを逃さなかった」とか、
「ほら、この前だってそんな判断基準で~」とか、記憶を紐つけるっていうんですかね。
その時にそういう状況で、今目の前にある結果を照合すれば、みたいな状況価値をぶら下げて、
攻撃することがえてして下手なんですよね。

その場が解決したところで終わると言うか、
せっかくの追随のチャンス、おそらく先に有用であろう環境づくりを、
その不得手な部分で見逃している様に思うなぁ。。。

単純に「思い出そう」という記憶の厳選がはたらかないってのもあるんですが、
なんだかなー。「前もこんなことあったよなー」って事象の整理だけで、
手一杯にさせられているような気が、振り返ればしてきました。

頓着ないっちゃ頓着ないで済ませられるのだけど、
損してるところの方が多いような気もするなぁ。。。

ぶつぶつ。。。
モノって意味をのせない事には価値がつかないんですよね。

どれだけ技術が卓越したとして、
どれだけセンスが爆発しているとして、
必要とされないこと、その対価を意味以外に付随させることは
きわめて難しい。

単純には、「意味がないものに財布の紐が緩まない」ものなんです。


もちろん、感覚的なものもあるでしょうし、
数字に置き換えられない魅力もたくさんある。

それでも、自分自身が我慢ならないのは、
それを体よく取り繕うことで、他や自らの言い訳にしか扱わず、
意味をのせる努力すら放棄してしまう人間。
価値作りが基本のモノ作りに対する、冒涜のほかなにものでもない。

社会に必要とされるための努力、振る舞いとは、
多分、「そこに意味を作るかどうか」のところに根幹はあるんでしょうね。
報われないそれには、必ずなにか理由がある。
それを他に置き換えるか、自らに課すかで、
対応はもちろん、その先がいってくるほどに変わってくる。

出来ないと言うそれが、本当は何が出来るべきなのかを描けた瞬間に、
出来る様になっているという構図。

人の強さ、本来問われている人間力とは、
こういったところにあると思うんですよね。