物部東征~大和王朝へ

ついに吉備・東西出雲王朝を倒した物部・豊国軍はイクメ王を中心とし、東征をさらに進め、
ついに河内国に上陸、日下(くさか)へと進軍します。

ちなみに物部軍の東征は魏の軍も参加しており
魏の軍事司令官は豊玉姫亡きあとの姫巫女をわずか13才だった豊玉姫の娘の豊姫(トヨヒメ)に使命していました。

大和王朝
物部軍の大和侵攻の時代は
大和王朝9代目王オオヒビの子の
10代目彦坐王(ヒコイマス)
息子の11代目彦道之宇斯王(ヒコミチノウシ)
和邇の地(現天理市櫟本辺り)にて統治していました。

そしてヒコミチノウシの兄弟に
サホ彦(記紀では狭穂彦王)
サホ姫(記紀では狭穂姫)という人物がいました。

記紀では彼らの名・業績こそありますが彼らの系統は天皇家系とは別にされています。
サホ姫は三輪山の姫巫女でした



物部東征~裏切りと大和王朝の終焉

・侵攻開始した物部・豊国軍ですが軍よりも先に大和入りした者がいました。
タジマモリ(東出雲の田和山征服者)は磯城王朝の関係者を追い出し、但馬の地(現三宅)
葛城の当麻(タイマ)を占領していました。
彼は密かに自分が大和の王になるのを狙っていました

・一方で本軍のイクメ軍は
日下の東の生駒山辺りを占領し
東の佐保川周辺には大和磯城王朝サホ彦の大軍が守っていたため中々攻め入れず膠着状態になります。

・さらにそこに物部・豊国軍の
武内大田根(タケシウチオオタネ)と
弟の額田宿禰は自国軍を裏切ります。
そして大和磯城王朝側へ寝返ります。
すると今度はタジマモリが物部軍に加わります


物部・豊国軍
・イクメ王、物部・豊国軍、豊姫、タジマモリ
          VS
大和磯城王朝軍
・ヒコミチノウシ王、サホ彦、武内大田根、額田宿禰


・まず磯城王朝ヒコミチノウシ王軍が劣勢となり山城国の亀岡、丹波へ逃亡します。
これで大和(磯城)王朝は終焉を迎えました。

・イクメ王は三輪山の姫巫女・サホ姫を味方につけるのが得策と考え、サホ姫を后にします。
サホ姫はオオヒルメムチと呼ばれました。
(記紀では狭穂姫命、wikiより)

・佐保川に軍をひいていたサホ彦は妹がイクメ王の后になったため休戦します。

・そして遅れて大和へ入ってきた豊彦(イニエ王と豊玉姫の子)率いる豊国軍生駒山の南で待機します。

イクメ王とサホ彦の休戦を知ると、豊彦は元々故母の豊玉姫が魏に認められていた事で自分の方がイクメ王よりも後継者に近く、妹の豊姫を三輪山の姫巫女(月神)にしたいと考えていたので先にサホ姫を姫巫女に選んだイクメ王に不満を抱いていました。

同時期に魏の使者・張政が伊都国(福岡県)に来ており、豊玉姫の後継者を豊姫にするよう文書が送られてきました。

加えてサホ彦を倒そうとしているイクメ王に対してサホ姫は離縁を申し出たといい、イクメ王はそれを許さなかったといいます。
サホ姫は夜中に幼い息子のホムツワケを連れて兄のもとへ逃げたといいます。

その後尾張家を頼って尾張(愛知県)へ行きました。
(愛知県一宮市、ホムツワケが住んでいたとされる阿豆良神社)

大和の覇権争いと物部イクメ王の策略

豊彦軍は三輪山を攻撃し加茂勢力を追い払い、登美の霊時を占領します。
加茂側は後退し東側の山に霊時を遷します。

豊姫は三輪山に檜原神社を立て月神を祭り
三輪山の姫巫女としてその信仰を広めました。
(笠縫村の檜原神社)

豊姫はサホ姫の太陽の女神・オオヒルメムチに対して、宇佐の月の女神・若ヒルメムチと呼ばれました。
彼女は記紀では豊鍬入姫命(豊(国)から来た姫)と名を変えられました。

豊彦とイクメ王は互いに大きく対立していき
イクメ王は出雲へ密使を送り「出雲兵を大和に送り豊国軍を追い払えばその領地を与える」と伝えます。
と同時に豊彦に対してサホ彦軍を追い払うよう仕向けます。

・豊彦の息子率いる豊国軍はサホ彦軍を見事に追い出し、近江から尾張の丹羽へ逃走させます。
さらにサホ彦は東へ逃げ、甲斐国(山梨県)にて日下部連と名を変えました。

・勢いをつけた豊国軍はさらに丹波に逃げたヒコミチノウシ王を倒しに向かいます。
ヒコミチノウシ軍と磯城王朝に寝返った
武内大田根軍はついに豊国軍・物部軍に囲まれ、降伏しました。

・その隙を狙って
三輪山を追い出されていた加茂タタヒコは三輪山に進行し、イクメ王が呼んでいた出雲軍と共に元の領地と旧磯城王朝の一部領地を得ます。
そして三輪山の祭祀を復活させ加茂タタヒコは初の三輪山男性司祭者となりました。

〖相撲伝説の真実
・イクメ王はタジマモリの強い勢力を追い出したいと考えていたので、東出雲の物部十千根に使者を要請しました。

旧17代目出雲国王・富の太田彦は隠れ住んでいましたが、田和山での霊時破壊と死者を出したタジマモリを恨んでおり、物部には協力はしたくなかったが名を野見家と変え、野見太田彦と名乗り、出雲軍を率いて大和へ向かいます。

野見太田彦、出雲軍は見事タジマモリを大和から追い出し、彼は淡路島へ逃げたそうです。
そしてタジマモリの領地をイクメ王へ献上しました。

この功績によりイクメ王は野見太田彦に
「宿祢」の称号を与え、
(物部族は代々重臣にはこの位を与える)、
野見宿祢(ノミノスクネ)となりました。

有名な相撲話(日本書紀)はこの二人の戦いを示していました。
野見宿祢(富の太田彦)VS当麻蹴速(タジマモリ)

・イクメ王はヒコミチノウシ王の娘・ヒバス姫を后にして、さらに支配を高めようとしました。

・ヒコミチノウシ王はその後因幡(鳥取県東部)の国造に任命され、青年の時の名ヒコタツ彦として移住、武内大田根もそれに従います。

ヒコタツ彦の子は朝廷別王ミカドワケを名乗ってその後三河(愛知)の豪族になったといいます。


物部王朝誕生

そしてついにイクメ王は旧都の和邇に
石上神宮を立てそこを政治の中心とした
物部王朝を開きます。

イクメ王は魏と国交を断絶させ属国からの支配を脱却させます。

天理の石上神宮

野見宿祢のその後
・タジマモリを追い出した野見宿祢はしばらくイクメ王に遣えておりました。
当時権力者の葬儀の際に古墳に殉死者を埋める風習がありましたが、野見宿祢はそれをやめて埴輪に代えるのを提案、出雲の土部100人を呼び埴土で馬や人を作り、イクメ王は喜んで採用し野見宿祢に新たな称号・土師の臣を与え、今後の習慣としました。

その後彼は出雲へ引き上げましたが
途中の播磨国の竜野にて食事を招待された時に
毒を盛られて急死したといいます
(何を盛ったのかは伝承ではわかりませんが、トリカブトは弥生時代に毒矢として用いていたといいますが・・・。その家の主人がヒボコの関係者だと後に判明します。
兵庫県たつの市に野見宿祢神社・塚があります)


太陽信仰と月神信仰、真実の姫巫女たち

〖その後の2人の巫女〗

・ところで尾張へ息子と行った
サホ姫はその後丹波の海部家に誘われ
丹後の真名井神社で太陽の女神信仰を広めました。
(宮津市の真名井神社、ホームページより)

・豊姫は大和から追い出され兄たちがいる丹波へと逃げます。豊国軍は次第に丹波から離れ東の尾張国へ移住していきました。
(豊がつく地名はその名残だといいます。豊橋・豊明・豊田など)
しかし豊姫は丹波で月神信仰を広めるために残ります。
次第に月神信仰の信者が増えていったので

・サホ姫は志摩国の伊雑宮の社家である井沢登美命(出雲の登実家出身)の援助を受け、伊勢の五十鈴川のほとりに太陽の女神を祀ったといいます(伊勢神宮・内宮と関係?)

(出雲の伝承では丹波の月神信仰は真名井神社(籠神社とも)でも祭祀され、月読ノ神は豊受ノ神と名を替えたといいます。
この真名井神社(籠神社)は太陽神と月神の両方を祀っていた非常に特殊かつ重要な場所といえます。
(籠神社、元伊勢。奥の宮が真名井神社)

籠神社の発行書に
豊受大神はその御人格の中に月神としての一面をもっておられ、真名井神社の昔の例祭が9月15日の満月の日に行われた事もその反映ともいえる』とあるそうです。
太陽をお天道様といい、月はお陰の神様とも呼ばれていたそうで、夜道を月明かりが照らしてくれるのを感謝して『お陰様で』というようになり、また真名井神社では豊受ノ神の事を御陰(みかげ)の神とも呼び、江戸時代には伊勢参拝をおかげ参りと呼びました。伊勢神宮では外宮(祭神は豊受ノ神)を最初に詣る風習があるのは関係があるのでしょうか?)

・丹波の豊姫はその後伊勢国の椿神社に身を寄せ、社家である宇治土公家は匿うために、豊姫は宇佐女尊→ウサメノミコトと呼ばれていた名を
→ウズメノミコト、と変え猿田彦の后神としたそうです。
しかしイクメ王からの刺客によって豊姫は暗殺されたといいます。
(三重県、椿大神社「つばきおおかみのやしろ」。写真は境内の別宮・椿岸神社、主神アメノウズメ命)

亡くなった豊姫の亡骸は
月神の信者たちによって運ばれ、桜井市のホケノ山古墳に葬ったとされます
(奈良県、ホケノ山古墳。豊姫が眠るとされる)

豊姫は実は現代でも日本の歴史に名が残っています。
三國志・魏書の中の邪馬台国の
女王・卑弥呼の後継者、台与(とよ)/壱与(いよ)と呼ばれる女王が、彼女になります。

~~~~

つまり卑弥呼とは
●初代女王であり倭国を安定させたモモソ姫
●九州の豊国の女王であり魏国と国交した豊玉姫
●出雲の血統を持ち太陽信仰を広めたサホ姫
●豊玉姫の娘で月神信仰・豊受大神の豊姫

という歴代の姫巫女たちです。

豊玉姫が「魏の属国」になったことをやはり後世の権力者たちは恥さらしとし、消し去りたかったのだろうと想像出来ます。

このように歴史は一方的な側面だけでは
見えないような真実が眠っています。

そして
富家の伝承から読み取れる
日本の歴史最大のトリックとは

九州物部から始まり
出雲王朝、豊王国、物部国(都万国)、海・磯城王朝すべて絡んだ〖第1次物部東征〗〖第2次東征〗の2つの出来事を混ぜた話が
記紀では『神武東征』という
伝説上の戦争として記される事になりました。

「偉大な1人の人物」として
古代ヒーローを作り上げた、といえます。


エピローグ

⭐日本の歴史は謎がある 


という謎の一旦を解き明かす話をしてきました(信じるか信じないは別にして)

出雲の富家の伝承にはこのように私たちが知らない細かい欠史8代の時代の話が伝わっています。
何も欠落していません。

出雲伝承はまだまだたくさんのエピソードが伝わっており膨大な量があります。

神武天皇から万世一系の家系である天皇を作り上げるために、余分な話や中国の属国だった歴史・エピソードを消し去り、特に出雲の歴史を消し去ることで大和政権しかなかったように作り上げ、昔から日本という国は1つの民族、天皇中心に団結していたという「強い日本」を示す歴史書を国家ぐるみで作り上げた、と推測されます。

それは記紀を作り上げた奈良時代以降の権力者たちの野望なのか、はたまた外国勢力への牽制のためなのか。
もちろん正しく口伝で伝わっているとは思わないし内容もすべて正しいわけではなく、もちろん敗者側の創作もある程度は存在すると考えるのは自然なことです。

しかしながら想像を絶するほどの口伝者たちの苦労と使命には言葉がありません。
伝承をこの世に残して頂きとてもありがたく思います。

この伝承がいつか日本の歴史を改める時代に
教科書のような存在になればいいと思います。

※もう一回だけ続きます。