●徐福の息子・五十猛の丹波進出
富家の伝承によれば
徐福が秦に帰国している間に
彼の息子であ「五十猛」は成人し
八代目大国主の孫娘の大屋姫と結婚し
子供に高倉下(タカクラジ)が生まれました。
大屋姫は兄(多岐都彦)と共に葛城へ進出していたので、タカクラジは後に和歌山の紀ノ川下流へ移住します。
タカクラジは徐福が秦より持ちこんだ竹や梅を植林。木の国→紀伊の国となりタカクラジの子孫には後に武内宿禰(タケノウチノスクネ)が生まれます。
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●磯城王朝(中期大和王朝)
王朝の三代目以降は
登実家・尾張家・海部家の豪族同士の争いとなり大和の三割しか勢力は持てず権力闘争の時代に入っていきました。
磯城王朝の四代目は懿徳王といいました。
記紀では懿徳天皇。
五代目はカエシネ王といいました。
記紀では孝昭天皇。彼は尾張家の姫を后としました。
六代目は国押人(クニオシヒト)王といいました。記紀では孝安天皇。
彼に関してはエピソードがあります。
後漢書東夷伝という漢の史書に日本のことが書いてあり
①紀元57年に倭の奴国の王の使者が後漢の都である洛陽にやってきて光武帝から金印を受けた。
(金印は福岡の志賀島にて出土。ナコクは九州にあった国、とされているそうです)
②107年には倭国王帥升たちが奴隷160人を安帝に献上した。
👆️この「倭国王の帥升」という人物が王朝6代目のクニオシヒト王だといいます。
アクセントの強い「シヒ」をとって「帥飛」としたのが、草書の字を見間違えて「帥升」と書いたのだろうと推測されているそうです。
中国では和名を短く書く習慣があるとのことです。
加えて奴隷のことを当時は生口(いくち)といい、
瀬戸内海の生口島(安芸国)から若者を捕虜にして連れて行った、と伝わります。
ところがこの大王自身が後漢に行ったことが後生の歴史で問題となりました。何故なら中国では属国の王や高官の役職のしるしは本人に直接渡す決まりがあったからです。つまり属国を示してしまったからです。
記紀を作成した時代では大王の恥とされ誤魔化す記事が日本書紀に書かれました。
改竄したことは名前を変えてヤマト(大和・日本)タラシ彦クニオシヒトとし、
その兄をアマ(天)タラシ彦クニオシヒトという架空の兄弟を作り上げ、彼が後漢に行ったことにしたそうです。
古事記にはこのアマタラシ彦の記載があり5代目の孝昭天皇の皇子であり、和珥(わに)臣の始祖である、と書かれています。ちなみに和珥臣は出雲の登美家の分家です。
そして日本書紀に後漢に行ってないヤマトタラシ彦=考安天皇と書き名前を日本(ヤマト)足彦国押人天皇と記しました。
出雲の伝承では本来はクニオシヒトは一人です。
そして王朝は続き
七代目はフトニ王といいました。記紀では孝霊天皇と記されています。このフトニ王時代に大変な事件がありました。
その前に徐福の再来の話をしたいと思います。
●徐福の九州への再来
出雲の事件から10年後、徐福が九州へ再び渡来。
今回の渡来の際には母であるタクハダチチヒメ(古事記では高木神の娘)を連れてきました。
(※日本神話では造化三神の一柱であるタカヒムスヒ神(高御産巣日神)が高木神であり、カムムスヒ神(神産巣日神)は出雲族が信仰する幸ノ神だといいます)
まず徐福たちは伊万里湾に入り一部がそこで暮らし有明海にまわって筑後川下流から浮盃に上陸します。(👆️図の赤色参照)
今は陸ですが当時は海岸であり、その後金立山へ登り星を拝みました。(神仙思想をもつ道教における北斗七星信仰)
さらに筑紫野にある天拝山、天山なども同様でこの辺りで勢力を伸ばしていきました。
徐福と市杵嶋姫命の息子である彦火火出見(ヒコホホデミ)の頃には筑後・筑前を支配し
周辺を筑秦国と名付けました。今の筑紫国です。
そして徐福は吉野ヶ里に環壕集落を築きます。
吉野ヶ里遺跡は発掘調査の結果、紀元前3~2世紀とされます。徐福の出身である斉の国の臨淄の古城の防御構造にとても似ているそうで銅剣・鋳型工具も出土し秦時代のものと一致するです。
この徐福の子孫たちを物部とし筑秦国を物部王国とします。
出雲王朝六代目・臣津野の孫アタカタスは九州へ行き宗像家を起こしました。
その出雲族たちと物部は次第に混血していったとされます。
出雲王朝としては連合国と捉え、銅剣や銅鐸を送り、物部王国も銅矛や銅戈を送りました。
・話しは核心部に迫り、欠史8代の時代に突入しました。すでにお分かりのとおり初代天皇とされる「神武天皇なる人物」が出雲の伝承では出てきません。かわりに「海村雲」という徐福を祖にもつ人物が出てきます。
※続きます。
※引用元somosomoblogより