精・気・神
精・気・神「仙道では、精・気・神を三宝として尊び、修行の上でも人間の存在そのものについても不可欠なものとして位置付けています。もちろん、中国医学にとっても重要なものすが、この精・気・神を理解することが、仙道によって、なぜ人間が不老不死になれるのかを理解することなのです」と川瀬は言う。少し言葉が難しくなるが、川瀬のいう精・気・神について説明してみることにする。東洋医学では、人間の身体には、 任脈 ( にんみゃく )、 督脈 ( とくみゃく )、 帯脈 ( たいみみゃく )、 陰維脈 ( いんいみゃく )、陽維脈 ( よういみゃく )、陰蹻脈 ( いんきょううみゃく )、陽蹻脈 ( ようきょうみゃく )という八つのルートがあって、これ奇経八脈 ( きけいはちみゃく )という。 仙道のトレーニングは、この奇経八脈のうちのに任脈と督脈に、気を周転させることから始まり、これを「小周天」と呼ぶことは、既に説明した。仙道では、こうして周転させた気を、さらに他の全ての奇経八脈に回しながら、それを練り合わせて丹をつくるということをするのだが、では、いったい「何のために」こうしたことをやるのだろうか。それは、仙道では「 精 ( せい )」「 気 ( き )」「 神 ( しん )」という三つを、人間が存在する根源要素だと考えているからだ。これを説明すると、「精」は人間ならば誰しもがもっている生命エネルギーのことで、これは精液や唾液として現れる。「気」は人間が空間からとりいれる宇宙エネルギーのことで、「神」というのは意識エネルギー、つまり思いのパワーとでもいったものである。精は生命エネルギー、気は宇宙エネルギー、神は意識エネルギーのことだと覚えておいたらいいだろう。仙道はこれら三つのエネルギーを固めて、奇経八脈に周転させていくのだ。固めるなどというと抽象的すぎるので、もう少し詳しくいうと、仙道では、「三一の法」といって、「三を二にし、二を一にする」のである。では何が三かというと、生命エネルギーと宇宙エネルギーと意識エネルギーのことである。この生命エネルギーと宇宙エネルギーとを一体化して、これを意識エネルギーで凝縮させる、これが二だ。そして、この凝縮させたものを、意識エネルギーの力で、前述した督脈と任脈に周転させるのだ。こうして周転させて凝縮されたものは、意識エネルギーの力を借りなくても、ひとりでに動くようになって、やがて意思エネルギーとも合体するのである。これが、三が二になり、二が一になるということなのである。こうしたことをするのは、奇経八脈が、人間がまだ胎児のときに、母体からエネルギーをとりいれていたルートだからである。ところが、胎児が生まれて、乳飲み子の時代がすぎると、今度は「正経十二脈」という経絡が嬰児の体内に完成するので、役目を終えた奇経八脈は自動的に閉じてしまうのだ。乳飲み子が成長していく過程で、口から食物という形でエネルギーを採取する量が増えるにしたがって、胎児のときのエネルギーの採取システムがどんどんと退化していくと考えたらいいだろう。そして、もともと胎児の時代にはあった全身呼吸「胎息」も姿を消してしまうことになるのである。また、乳飲み子のときを過ぎると、後天的な意識エネルギーが発達してくるために、もともとあった「元神(先天的な意識エネルギー)」も後方に姿を隠してしまい、人間は、口や鼻で呼吸し、口から栄養を取って成長していくのである。そして、あとは成熟し、衰退し、死を迎えるといったサイクルが人間の一生なのだ。ずばり言って、「仙道」とは、このサイクルの「衰退」の部分をストップすることに主眼がおかれた修行法なのである。さて,仙道の凄いところは、人間が成長する過程で身につけた生命エネルギー、宇宙エネルギー、精神エネルギーの摂取方法のしかたに人間が老化する要素があると見ぬいたことだ。どういうことかというと、後天的に身につけた意識エネルギーの動きは、争い、競争、悲しみ、喜びなどで人の心を不安定にするからだ。精神的な苦痛がいかに老化を早めるかは、それを経験した人ならば誰もが知っていることであろう。お釈迦様が少年時代に悩んだ「生・老・病・死」の苦しみなども、みなこうした心の動きが原因なのである。また、口からモノを食べるということは、暴飲暴食のみならず、身体に悪いものまでとりいれてしまうことになる。よく注意して自分のまわりを見回して欲しい。いかに不健康な食品や飲料に自分が取り囲まれているかにゾッとするはずである。こうしたことを踏まえた上で、仙道家は、眠っている奇経八脈を活性化させることによって、人間は「胎息」をする胎児の状態に戻れると考えたのである。そのための小周天の修行なのであり、こうなれば、胎児の元精、元気、元神のシステムを復活して、「不老不死」は可能だと考えたのである。おもしろいことに、こうした仙道の修練が進むと、あまり食事をしなくなるばかりか、口や鼻で呼吸をしなくなる。冥想中は前述した胎息の呼吸に近くなって、あまり喜怒哀楽の感情が起こらなくなるというが、それにはこうした意味があるのである。そして、こういった修行を続けていくと、やがて陽神という自分の分身が生まれるとされるのである。筆者などは、陽神などと聞くと、すぐに西洋オカルトのエクトプラズムを連想してしまう。エクトプラズムとは、西洋の霊能者などが霊の姿を物質化させたり、視覚化させたりする際に、自分のエネルギーを介在させたものらしい。仙道を修行している人たちに言わせると、エクトプラズムと陽神とは、まったく別の物質だという。彼らに言わせると、エクトプラズムはあくまでも霊体であって、それ自体ではなんの物理的作用を及ぼすこともできないが、陽神というのは物質と同じように活動できるというのだ。つまり、我々人間と同じように物に触れたり、物をもったりすることが可能だというのである。それでいて、陽神は時間や空間に縛られずに、過去でも未来にでもいけるというのだから、もの凄い存在なのである。筆者は少年時代に、スーパージェッターというTVの漫画番組が大好きだった。年配の方なら覚えておられると思うが、物語は三○世紀のタイムパトロールであるジェッターが、悪人ジャガーを追跡中にタイムマシン同士の衝突事故で二○世紀に落下してしまうという設定だった。このスパージェッターは、もの凄い装備をもっていた。まず、「時間よ止まれ!」と周囲の時間を三○秒間だけ止めることができ、流星号の呼び出し機能をもつ腕時計型のタイムストッパー、重力を中和することで空中を飛ぶことができる反重力ベルト、マッハ一五で飛行し、水中活動も可能なタイムマシン「流星号」等々であるが、仙人と聞くと、このスパージェッターがふと頭の中でダブるのだ。既に述べたが、仙道の最終的な目標は、この陽神と一体になることによって獲得する不老不死の身体であり、スパージェッターのように空を飛ぶことや、タイムマシンに乗って過去にでも未来にでも自由に行けることなのである。ところで、川瀬の大きな仕事の一つに、前述した『植民地 台湾で上映された映画』という大書があることを既に話したが、一八九九年(明治三二年)から一九四五年 (昭和二○年)までの日本時代の台湾で上映された映画の題名や内容、及び時代背景を、二巻にわけてまとめたものである。筆者は、この大著の内容を知った時に、「これはタイムマシンにでも乗らなくては、とても出来なかった作業だ」と掛け値なしで思ったのだ。それほどに、この仕事は過去を模索しなければならず、膨大な資料を漁り続け、それを編集するといった、本当に根気のいる作業である。仙人・川瀬健一でなくては、とてもなし遂げられなかったものであろう。前述したように、仙道修行の根本は、精・気・神である。これらがあったればこそ、なし得たのが『植民地 台湾で上映された映画』であると感じてならない。「私は、なんにでも全力投球しなければ気のすまない性格なのです。ですから、何事にも力一杯でぶつかってきました。普通、そうしたことは短期的はできても、長期的には精根尽きてしまって、なかなか続かないものです。振り返ってみますと、そうしたことができたのは、仙道で得た気の力と、仙道の修行が与えてくれた心身の健康があったればこそだと思うのです」と川瀬は言うが、気力と健康あってこその人生、それを与えてくれたのが仙道だとすれば、三拝九拝して仙道に感謝せねばなるまい。