川瀬が修行をした仙道では、気の乱用を強く戒めている。要は、人体エネルギーを使いすぎることを危険な行為だとしているのだ。
人体エネルギーというものは、使っても、また自然と回復するものなのだが、使い切ってしまったら、そこで終わりとなってしまう。短命な英雄というものは、あまりにも無茶な事業や、荒淫をすることで、人体エネルギーが枯渇してしまった人のことをいうのである。
鄭成功亡きあとの台湾経営の大業は、彼の息子である ( てい ) ( けい )が継承した。鄭経が鄭成功の跡を継いで五年後の一六七四年になると、大陸で雲南 ( ご ) ( さん ) ( けい )広東 ( しょう ) ( し ) ( しん )福建 ( こう ) ( せい ) ( ちゅう )といった、一旦清朝に帰順していた元明朝の遺臣たちが一斉に反乱を起こすといった大事件が勃発した。三藩の乱である。これを反攻大陸のチャンスとみた鄭経は、呉三桂と連絡をとりあいながら、台湾の対岸の福建にまで台湾から軍勢をくり出すのだったが、清を揺るがしたこの三藩の乱が二年後に鎮圧されると、いそいで台湾へと撤退している。
その後の鄭経は、二度と大陸進攻をすることもなく、一六八一年に承天府にて逝去する。享年四○歳であった。鄭成功と鄭経の台湾経営を支えた功臣が ( ちん ) ( えい ) ( か )である。陳永華は、鄭成功に「臥龍」と喩えられるほどに知謀に優れた文官であった。鄭成功の死後、陳永華は鄭経を補佐して事実上の台湾経営に辣腕を振るったが、鄭経が亡くなって息子の ( てい )克爽 ( こくそう )が後継者となると陳永華は排斥されて憂悶のうちに亡くなったといわれている。
そして、一六八三年八月一八日、朝の攻撃を受けて鄭克爽が清に投降し、鄭氏三代二二年の台湾経営の夢は、ここに終息したのであった。
余談になるが、中国の秘密結社の一つで、辛亥革命の言動力の一つとなった洪門会の一派では、この陳永華をして会の創立者とする説もあるが、その真偽は定かではない。ただ言い得ることは、清朝に対する最初の挑戦者が鄭氏政権であって、最後の挑戦者の一翼が洪門会だったということである。
因みに、辛亥革命の立役者の孫文は、この洪門会のメンバーであった。だから、洪門のメンバーは、「鄭成功や陳永華が果たせなかった打倒清朝の大業をやったのは、かれらの意思を継いだ洪門会だ」といまでも胸を張るのである。