


太宰治の「晩年」は、情けない作家志望の男が、だらしない生活を送るさまを、一読するとありのままに書いたようにも感じる短編集だが、よく読んでみると、いろいろと複合的になっていて、出てくる主人公は太宰自身と思わせて、装ってはいるものの、太宰自身ではなく、やっていることはかなりでたらめであっても、当時としてはかなり上流階級に属する振る舞いであって、うかつに信じれば、放蕩三昧であっても、作品としては、虚構と実体をないまぜにして、脚色や省略もされ、かなり作り込まれていて、ダメ人間に許容範囲の広い人は一発で好きになるようにこしらえられていて、鼻をつまむ人にとっても、どこかこころに引っかかりの残るように仕掛けられていて、人間の弱さや強がりやあきらめや希望などがモザイクになっているため、時代を超えて読まれるのも大いに頷けるし、ファンが多いのにも大いに頷け、初版本が高値を呼び、マニア垂涎という設定にも大いに頷ける。
太宰治の初版本を狙う犯人探しは、「警察に頼めばいいんじゃない?」という興ざめなツッコミは抜きにして、かなり手の込んだ形で迫ってくるが、登場人物が限られているため、「こいつしかいねえだろ」という感じはぬぐえないにしても、どのような形で大団円を迎えるのか、興味は引っ張られ、「晩年」もどうなるのか、気にかかる。
「それから」は、高等遊民が友の妻を娶り、最後には勘当され、職を探しに行くところで終わるが、実際の人生は「そこから」始まるように思えるにしても、それを書いても面白みはないだろう。
作家になろうと志す者は、もともと社会に適合しにくい人が多く、常識であるとか、通念であるとか、倫理であるとかに対して、疑問を持っているか、意に介していないか、欠如しているかであって、いずれにしてもあまりまともでない人が、まともな日本語を駆使して、魂の叫びを第三者にも理解できるように作品として形にした人だけが「作家」と社会的に認められるのみであって、それまで地道にまっとうな人生を歩んできている人に、魂を揺さぶるような「作品」を読ませることは、まともな道から逸脱させる可能性もあって、危険な行為でもあり、そうすることによって、真に受けた食堂のかみさんを口説いて、身ごもらせ、駆け落ちしようとしても、まともな人にはなかなか応じにくい事情もあり、また、それをそのまま、まともに小説に仕立てたところで、陳腐な痴話物語に過ぎず、作家には、自分のしていること、書いている作品を見ている自分がいて、さらに、その上から、自分を見ている自分を見て、自分を分析している自分がいるのであって、書いている自分だけが面白がっている作品などというものは、空々しく、くだらないだけで、世に認められないのも当然で、食うに困らない高等遊民であれば、自己満足で終わったとしても、ひとつの形として結実し、のちの世で、縁ある人たちに「記録」として読まれて、すべての事柄の因果関係を理解させ、くさいセリフのひとつでも口にして、吹き出させることができるのも、時間と労力を費やして、書き上げた甲斐があったというものだ。