まとまりなく、まとめることを放棄し、面取りせず、とりあえず上げる_

 


 





こちら、我が推しである水野愛理さんのこの卒業発表報告を出先の旅館で知ることとなりました。(家族と静養中です。だから愛理さんのSHOWROOMも観れません)


なんとなく彼女のSKE48に対するモチベーションの低下のようなものを(勝手に)感じていたものの、次のステップというよりは、なんとなくこのアイドル生活を続けてくれるものとの感覚は、所謂こちらの甘えに過ぎなかったと気付かされた次第です。








こちら、SKE48による水野愛理に対する扱いについて、少なくはない不満を抱いていたところ。『時間がない』公演により、遂にSKE48が水野愛理を使いこなさんと見せた姿勢は、所詮NightTempoさんという"外圧"に屈した一時的な産物でしかなかったのではないかとの失望にも似た感覚。


SKE48に対する不満と、そのグループに内在する水野愛理に向かう(一ファンとしての)友愛の心情という乖離したものを、「推し」の言語に詰め込み成立させる作業と、そこに感じた徒労。(さらにその徒労を自らに偽る作業を繰り返している円環と見せかけながら、下方へとつながる螺旋)



14年前、高柳明音さんとチームKⅡから始まったこの趣味「SKE48、KⅡ」_

神門沙樹さんの卒業に際しての原理主義に侵された者たちの我欲に対しての辟易から遠のき始めた心。小畑優奈さんによる熱の揺り戻しとその後の喪失の体験_
そして、高柳明音さんを見送った時の安堵と。

いまや、私の中でSKE48とKⅡの物語は美しいものではなくなってしまったのかもしれないとの感覚。

このまま惰性で続けることもできた趣味。そこに遂にゴールが示された。

乖離が修復不能になる前に、美しい記憶が残っているうちに終われるのなら、それはこちら個人としては健全なのだろう。

今回の発表、愛理さんには「ありがとう」との感覚がある。まずアイドル生活を通じて、こちらに与えてくれた愛おしき姿と時間。そして、こちらにゴールを示し、そこに導いてくれることに。水野愛理が終わらせてくれる。やっとぬかるみの螺旋を抜け出すことができる。



しかし、水野愛理のアイドルパフォーマンスに代表される活動が卒業後は見られないとするのなら、それは残念なことだ。あまりにも惜しい。

その「惜しい」とする感覚もこちらの我欲からくる要求に他ならないことは理解している。しかし、まだ本人にその意思があるのなら、どこかで誰かの手に掛かりその場が提供されることを夢想してしまう自分がいる。(いつぞやの『豪の部屋』の彼の発言を間に受けてしまっている自分がいるからに他ならないが。)








まず一つのゴールは示された。
あとはそれまでを輝く彼女の集大成を楽しむ。それに集中したい。





こんなに優しいアイドルを知らない

5年前、あの日の彼女の卒業に触れての当時の言葉を今一度誓う。

俺は修羅にはならない

(つもり)


※検索ワード
「あいりたん」「プリマステラ」「K2」