======
(こちらにとってのブログとは、多くが言葉のマスターベーションであり、同意を求めぬ唯の吐き出しになることも屡々です。容赦下さい)




以前、こちらのブログの場において、「アイドルとは感情の体験型アミューズメントである」との考えを記したところです。




_夢や目標に向かう彼女たちを応援し、喜びや悔しさの感情を同期させ、究極的には卒業での別れに喪失感を受ける。

推しメンとファンの関係は、あくまでも一線で画されたものであり、そこでの人間関係は、言うなれば擬似的なものだ。
しかし、そこで享ける感覚は(受取手の同期の度合いにより異なるが、)生の感情体験だ。




現在、小畑優奈の卒業発表にふれた私は、言わば軽度の喪失体験の中にあります。(本来の活動最終日はまだ来ていませんが)


やがてくる小畑優奈の居ない4月を考える時、ふと頭に浮かんだ言葉、 “春と修羅” _



宮沢賢治の詩集『春と修羅』は、そのタイトルとなった詩をはじめ、収められた作品の多くが、最愛の妹との死別による心象を表したものと聞いていました。


私は『春と修羅』が収められた宮沢賢治詩集を書棚奥から取り出しました。


こちらが置かれた現状による擬似体験としての「別れ」により、今であれば当時の賢治の心象に近づくことができるのではないかと、そう考えたのです。



(この詩集、購入当時(もう随分大人であったが)、その作品群から受けた印象と言えば、凡夫なこちらにはその選別された言葉の羅列が難解なもので、これは雰囲気で解釈する類いのものなのだと_そう上辺の理解が発動した。

凡夫はそれをスピッツの歌詞と同じような感覚で受け入れれば良いのではないかと。

大正当時の大衆の間ではこのような詩が、今のJポップのヒットソング的位置付けで鑑賞されていたのではないかと、知識乏しく妄想した。 )



時に、宮沢賢治の詩は難解な言葉の羅列により綴られたものです。

これまではそれを、チョイスされた言葉とその並びのセンスを楽しむものとの理解でした。

しかし、それが、今はこちらの心にすんなりと落ちてくるのです。(←気のせいちゃうの)





ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(春と修羅)


この部分からはシンプルに、鬱屈と疎外感を感じることが出来ます。


新体制に移行するSKE48に訪れる春の中、推しメンを失ったことでの相反する感情による疎外感を得るのだとすれば、即ちそれは“修羅”の入り口に立たされることと同じではないのかと。








期せずしてこちらに訪れた『春と修羅』ブーム。
それを深く探ろうとし、グーグル先生を通じて知ることができたのが、春ねむりさんという女性ミュージシャン▶︎

※『春と修羅』/春ねむり(←未だにこちらはCD派)
久しぶりの大当たりでした。(捨て曲無しで何回もリピートできる。若い才能によるこんな曲たちとの出会いは何より嬉しい)


グランジ・オルタナ、Jヒップホップ、アイドルあたりを通過した耳に心地よく鳴ってくれます。なにより日本語ロック好きなこちらを文学的表現で嵌めにかかります。(そして萌え声でのシャウトはエモ。まんまと嵌りましたw)

この『春と修羅』は一年前の作品。リリース当時に発見できなかったのは迂闊でした。


※ツイッターに昂り連投してたらご本人様(中の人)に見つかってしまいました。こういうのにすぐ嬉しがりますw


閑話休題




先日の平日休みを利用して名古屋駅隣接のエスカ地下街▶︎



現在開催中のスクラッチキャンペーン。ゆなながデザインされたスクラッチカードをげっちゅり!
(ゆなな展開のキャンペーンも今年度いっぱい。ゆななラッピングもこれで見納めかな。寂しいね)



しっかり保護具に入れてコンプリート。
大事なカードほど保護具には拘りたい。これはスリーブとローダーで。

















まるめろの匂(におひ)のそらに
あたらしい星雲を燃せ
(原体剣舞連)



SKEファンは、“まるめろ”の部分を“桜桃(さくらんぼ)”に置き換えれば良いです。



新しい星雲に興味を持てるならそれで良い
それが叶わぬとき、ただ消えるのか
果ては修羅か
修羅は成れの果てか…




(とりあえずこちらは週末に山でも登って頂上で『春と修羅』読んできます。←紛らせ方のクセ)









ユニクロの横はハートの強さ求められますね。(まあ行列の飲食店掲出よりは容易だがw)


もう、レポートとか諸々上手すぎるんですよw

以上。
==================
※検索ワード
「SKE48」「KⅡ」「高柳明音」「水野愛理」「春ねむりさん→最初、その名前で“泉まくら”さんと混同してしまい苦手意識からスルーしてしまうところでしたw」