漢学者の号を探る―詩文雑誌の効用― | かんがくかんかく(漢学感覚)

漢学者の号を探る―詩文雑誌の効用―

明治時代の漢学者の多くは、名字実名(諱〈いみな〉)の

ほかに「」(あざな)と「」を持っていました。


例えば、以前の記事 でその略歴などを紹介した岡千仭

(おか・ちたて、1833-1914)の場合、名字は「」で実名

(諱)は「千仭」でしたが、このほかに「振衣」という字と

鹿門」という号を名乗っていました。


」というのは、実名を呼ぶことを憚って中国の成人男子が

つけた名前で、日本でも漢学者の多くが用いました。

一方「」は雅号ともいい、漢学者のほかにも文人や画家

などが好んで用いました。


近世以前にあってはさらに複雑です。

元服した男子の多くは「実名」のほかに「通称」という日常的に

呼ばれる名前を持っており、この「通称」は「仮名」(かりな、

けみょう)ともいう呼び方が示すように時とともに変化する

もので、また場合によっては実名(諱)さえも変えることが

ありました。


前述の岡千仭の場合、当初の通称は「慶輔」でしたが

のちに「啓輔」と改めています。一方の実名も当初の「」を

」と改め、さらに「千仭」と改めています。



明治時代の漢学者について、「」から「名字」と「実名」を

知りたいとき、まず便覧としてみるものに『明治漢詩文集』

(明治文学全集62、筑摩書房、1983年)の末尾に収められている

「明治漢詩文人雅号一覧」があります。


     


これは、明治時代の詩文雑誌や詩文のアンソロジー、

さらには各種新聞の漢詩文欄や人名辞書などから雅号を

博捜しており、大変便利なものです。


しかしさらに増補・訂正する余地がないわけでもありません。


例えば、明治時代に最も勢力のあった詩文雑誌に『明治詩文』

『古今詩文詳解』があります。

前者は、明治9年に創刊されて同14年に『明治文詩』と改題される

まで続いたもので、後者は明治13年から20年まで刊行されました。

「明治漢詩文人雅号一覧」は、前者からは人名を採集している

ものの、後者からは採用していません。



     


また、詩文雑誌や新聞の詩文欄に載せられた漢詩・漢文には、

「××(号)評~」の形で「評」が載せられているものが多く

ありますが、「明治漢詩文人雅号一覧」は「号+名字+実名」の

形で記されている詩文の作者は採録しても、「名字+号」の

形で記載されており、実名を調査するのにもう一手間がかかる

評者の人名は採録していないようです。



例えば『古今詩文詳解』152集の9-11頁に所収されている

勺水・日下寛 の「乙酉人日(明治18年1月7日)與史館諸公会

飲江東酒楼有作(乙酉人日、史館の諸公と飲に江東の酒楼に

会して作あり)という漢詩には、「森槐南」・「松平破天荒」・「秋葉

猗堂」・「鞍懸鶴峰」の五名が評を記しています。



     


このうち「森槐南」は、これまで何度かこのブログでも取り上げて

きた修史館 の同僚森泰二郎 であることは異論のないところで、

槐南」の号はもちろん「明治漢詩文人雅号一覧」にも採られて

います。


また「破天荒」というは長崎出身の漢学者松平康国(1863-1945)

の号で、これは「明治漢詩文人雅号一覧」にも採られている

ばかりか康国には『破天荒斎小稿』という文集もあります。


しかし残りの二人については便覧の類には採られておらず、

若干の考察が必要となります。

この内「秋葉猗堂」は、「明治漢詩文人雅号一覧」には採られて

いませんが、日下寛 とともに甕江・川田剛 のもとに学び太政官

正院歴史課 の設置以前から日下とともに川田の下で歴史の

編纂に参加していた秋葉斐のことです。修史館 の公文書によれば、

この頃にはすでに号の「猗堂」を実名として用いていました。


さらに「鞍懸鶴峰」は、やはり修史館 の同僚の鞍懸勇三郎です。

勇三郎は、赤穂藩の出身で維新後に津山藩の参事をつとめた

鞍懸寅二郎の甥に当たり、明治4年に寅次郎が暗殺された

ために鞍懸の家を継ぎました。


勇三郎の伝記を記したものは甚だ少なく、いずれも寅二郎の事蹟を

記す中で触れる程度にとどまっており、勇三郎が「鶴峰」と号した

ことが分かるのは、管見の限りではこの『古今詩文詳解』の記事に

よってのみです。

鶴峰」の号が「明治漢詩文人雅号一覧」に採られていないことは

いうまでもありません。


以上今回は、詩文雑誌をさらに読み込むことで、雅号を手掛かりに

文人たちの人間関係を探ることができる事例を紹介しました。